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続・龍馬伝 (33)蝦夷共和国


龍馬伝第4部タイトル(雲の


明治元年12月15日。
箱館に砲声がとどろきます。
五稜郭、弁天台場、港に停泊する蟠龍、回天…と、続けざまに放たれる空砲。

その空砲は、合計101発にも及びました。
松前藩を倒し、蝦夷島統一を果たした記念の祝砲です。



箱館の港は人で満ち溢れ、口々に榎本軍を褒めそやします。

「榎本の軍はめっぽう強いそうだ」
「松前の殿様は、追い立てられて青森に逃げてしまったらしい」
「航海術のエリートが揃っているらしい」

榎本軍将兵の市中パレードは、見るものを圧倒しました。
赤いラシャ製軍服を着た仙台額兵隊を先頭に、3000の兵が行進する。その中心には、榎本武揚がいました。
夜は提灯を下げ、祝賀ムード一色でした。


この日は、蝦夷地平定と、蝦夷島政権誕生を祝う記念日だったのです。
みな、笑顔でした。。。榎本本人を除いては。



【第33回】蝦夷共和国



その1ヶ月前―


榎本は、旗艦・開陽と共に、江差の沖合いにいました。
土方の陸軍が松前藩の残党を江差に追いつつあり、その援護に回っていたのです。
榎本ら海軍の読みでいくと、残党軍はこの江差を拠点に徹底抗戦をするはずであり、陸軍との激しい衝突が予想されていました。
少しでも土方ら陸軍の負担を軽くすべく、艦砲射撃による援護をする予定だったのです。
来たる新政府軍との本格的な戦闘の前に、開陽を実戦に出し慣れされておく、という目的もありました。


…しかし、江差は戦闘の気配も何もありません。
実はこの時、土方は松前残党を江差からさらに奥地に追い詰めており、勝利をほぼ確実なものとしていたのです。
すでに、援護の必要性は失われていました。

榎本は拍子抜けをした思いで、上陸します。
海は静かで、開陽にはわずか数名の機関士を残しただけでした。

その晩。
榎本が異変に気づいたときは、もう後の祭り。
ピューと切り裂くような音を出す暴風が吹き荒れ、海は極限にまで荒れていました。
木の葉のように揺れ、岸に流されてゆく開陽。
開陽は、座礁し、動かなくなってしまいます。


開陽の遭難
(『日本テレビ年末時代劇スペシャル「五稜郭」』より)


房総半島沖合での遭難につづき、2度目の災難。
前回の悲劇で海の恐ろしさを知ったはずの榎本でしたが、見かけ上の静けさに完全に油断していました。
しかも、前回は逃げ場のない海上で突然やってきた台風によるもので、いわば天災といえるものでしたが、今回は違います。
榎本が蝦夷の天候をよく知ってたなら、たった数名を残して下船するという愚は犯さなかったはずです。
せめて、地元をよく知る現地の人間に教えを乞うようなことはしなかったのでしょうか?


榎本の欠点が、ここにありました。
すべてを頭で考えてしまう。机上の空論と現実を混同してしまうのです。
「ロマンの人」は、言い換えれば「空論の人」でもありました。

…しかし、このロマンティシズムがなければ、蝦夷建国の夢もなかった。
薩長に打ちひしがれた旧幕臣に、夢を与えることもできなかったはずです。
彼の蝦夷共和国の夢が140年経った今でも輝きを失わないのは、不可能と思える夢を無性に追いかけ続けたからではないか。
現実にがんじがらめになった我々を横目に、彼はひとり悠々と、空想の世界で空を飛ぶ。
良くも悪くも、それが「榎本武揚」という人間なのです。




必死の救助も虚しく、数日後、開陽は沈没してしまいます。
外洋の経験が浅いために、冬の蝦夷の気候の変化を見誤った結果でした。
しかも、開陽の救援に来た神速まで遭難し、二重遭難となってしまったのです。


開陽の沈没
(『日本テレビ年末時代劇スペシャル「五稜郭」』より)




榎本にとって開陽は、自らの夢の化身のようなものでもありました。
オランダ留学中に建造中の開陽をくまなく観察し、この船で日本に帰ってきた。
開陽があったからこそ、蝦夷に夢を馳せることもできた。
彼がいかに落ち込んだかは、想像に余りありません。

その彼に自分を取り戻させたのは、土方歳三であると言われています。
修羅場をかいくぐってきた彼の、「戦場では何が起ころうとも、動揺したものが必ず負ける」という言葉によって、彼は総司令官の自覚を取り戻します。

松前藩は、海上からの援護なく、無事に制圧されます。
松前藩の捕虜は、国際法にのっとって人道的に扱われ、希望者は青森への送還されました。


________________________________________________________


―そして、凱旋のパレード。

榎本の笑顔は満面ではありませんでしたが、そこに失意は見えませんでした。
新たな国家建設の一歩を踏み出そうという熱意を、彼は再び燃やしていたのです。


パレードの直後、榎本の提案により、入れ札による組閣が行われます。
「入れ札」とは、選挙のことです。


かつて龍馬は、国家のリーダーを「入れ札」で選ぶというアメリカのやり方に深く感銘を受けたことがありました。
彼は維新後の最初の組閣こそ名簿をあらかじめ作成していましたが、第2次、第3次の組閣については、かつての倒幕・佐幕を問わず入れ札により人徳・能力があるものが選ばれるシステムを作りたかったのではないか。
彼が生きていたら、そうしていたのではないか。



奇しくも、龍馬と同じく蝦夷に志を抱き、実際に蝦夷を開拓しつつあるこの男が、龍馬が成し得なかった、入れ札によるトップを含む主要閣僚の選出という方法を初めて行うことになります。
彼が理想とする国家の、大きな一歩となる出来事でした。


『Republic of Ezo』(蝦夷共和国)


後世の我々が榎本の国家のことをこう呼ぶのは、入れ札による組織を行ったことが大きな根拠になっています。
その構成は、以下のようでした。

総裁    榎本武揚
副総裁   松平太郎
海軍奉行  荒井郁之助
陸軍奉行  大鳥圭介
(以上が入れ札による結果)

陸軍奉行並 土方歳三
開拓奉行  沢太郎左衛門
箱館奉行  永井尚志
(等が、任命された人事)



船を失った開陽の艦長・沢が開拓奉行に選ばれているところなどにも、榎本がどこに国家の重点を置いているのかがよく見えます。
海の中心から陸の中心へと大きな転換ではありますが、榎本が腹心である沢を開拓奉行に任命したことは、蝦夷を開拓し富を生み出すことが国家の重要事項であると彼が考えていることの証でもあると思います。




蝦夷共和国誕生
(『新選組!!土方歳三最期の一日』より)


国家誕生。
あとは、守り抜くのみ。
開陽を失ったことが分かれば、すぐにでも新政府軍は攻めてくるであろう。

戦への覚悟を、榎本は固めつつありました。






(主な参考資料)
箱館戦争―北の大地に散ったサムライたち
幕末史(半藤一利著)
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)



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続・龍馬伝 (32)松前攻略戦


龍馬伝第4部タイトル(雲の



蝦夷地に馳せる夢。
榎本の頭は、ロマンに満ちていました。


まずは、最初の冬を無事に越すこと。
年が明けたら、やはり明治政府との交渉に入らねばならない。
彼らとの戦闘は極力避けつつ、1年もたせる。
数年も経てば、地元地域との関係も密着になり、その地に根を下ろすこともできよう。
やがては、数十年、いや数百年と続く、徳川の世に劣らぬ平和な国家を築きたい。




そのための拠点をどこにするか。
それは、榎本たちにとって最重要事項でした。
防衛に適し、箱館にも近く、しかも新しい国家を象徴するような施設。
すでにある城郭に彼は狙いを定めていました。


五稜郭


近未来を連想させる、五角形の美しい幾何学構造。
それぞれの5つの角に均等に並んだ砲台は、どの方角から敵が攻めてきても砲火を浴びせることができ、全く死角のない配置になっていることが分かる。
郭内には天守閣のような建物は一切なく、平らな姿をしているため、敵の軍艦が函館湾深くに侵入しても、発見されにくく、艦砲射撃の標的になりにくい。


現在の五稜郭
(現在の五稜郭)


それまでの日本の城郭の常識を覆す、日本唯一の洋式要塞。
設計者は武田斐三郎(あやさぶろう)。榎本や大鳥もよく知る仲でした。






箱館府が逃亡したため難なく五稜郭を手に入れた榎本軍は、休む間もなく、陸軍部隊を半島の西側に移動させます。
渡島(おしま)半島西部。現在、松前半島と呼ばれている地域こそが、松前藩のテリトリーでした。
松前藩は突然やってきた榎本の和睦提案を拒絶、交渉は決裂していた。
そこに、殴りこみをかけようというのです。


松前城周辺---Yahoo!ロコ



土方歳三。
久しぶりの本格的な戦闘に、心が踊っていた。


戦。血の匂い。
戦場こそが自分の生きる場所であり、死に場所である。
自分の命が輝ける唯一の場所。
そして、輝き尽きたときに、自分は死ねる。



土方の気迫が兵士にも乗り移ったかのように、土方隊は敵を次々と撃破、わずか数日で松前城まで追い詰めます。
それでも松前藩は、城に兵力を温存しており、徹底抗戦の構えを見せていました。


松前城


かつて徳川幕府が外国勢力に対する北方防衛の拠点のひとつとして建築された城だけあって、その防衛能力は綿密な計算の上に成り立っています。
陸上からの攻撃には、旧来の築城技術をもとに掘で固め、海上からの艦砲射撃に対しても、砲台を城の内外に築くことによって反撃を可能にしていたのです。


陸軍と海軍の連携。
それによって初めて攻略が成し得る城であり、榎本軍の真価が試される戦闘でした。
まずは土方の陸軍が、城の近くの丘を占領し、そこを砲兵陣地とします。その丘から松前城の外側にある海岸寄りの砲台を撃ち下ろし、沖合いからの艦砲射撃を可能にする。

陸軍の作戦遂行を見届けた上で、砲撃の脅威のなくなった回天・蟠龍の2隻が海上から接近、松前城に向かって強烈な艦砲射撃を加えます。
艦砲射撃によって城の防衛能力が低下したところを見計らい、土方隊が防備の手薄な城の裏手から侵入、陸上と海上からの波状攻撃を受けた松前城はついに落城、松前藩の残党は奥地へと逃げてゆくことになります。


土方はさらに残党を狙う。
猟犬のように、血の匂いをかぎつけて、どこまでも追ってゆきます。






その頃…榎本は、松前から箱館に戻っていました。
彼には、松前藩の攻略以上に重要なことをせねばならない使命があった。

実は、箱館にいる外国の領事館が、榎本一行をどう扱うのか、決めかねていたのです。
彼らの本国への報告次第では、榎本らは単なる反乱軍となってしまいます。

Neutrality(局外中立)

外国にそのことを認めさせ、かつ、自分たちを正式な独立政府として承認させる。
榎本が留学中に培ってきたすべての国際知識は、この時のためにあるといっても良かった。
彼にしかできないことだったのです。


榎本が最初に取った行動。
それは、開陽を箱館湾に浮かべ、領事館に向けて豪快に空砲を放ったことでした。
仮に実弾であれば、領事館は木っ端微塵に粉砕されていたでしょう。
榎本は、ヨーロッパで学んでいたのです。


外交の力とは所詮、武力である。
どれだけ崇高な理想を掲げ、正義を訴えたところで、一発の砲弾で吹き飛ぶ。
軍事力を背景に交渉を行うことが、外交交渉を有利に進める唯一の道である。



各国の領事館の中で、一番の厄介者はイギリスでした。
薩長政府に特に肩入れしているこの国は、榎本軍はあくまで反乱軍であり、箱館を占領する権利はないと強硬に反対し、フランスやロシアに対しても根回しをしていたのです。
イギリス領事に対し、榎本は、毅然と反論を述べます。


ある国内で内乱が起こった場合、諸外国は中立を守らなければならないと聞く。
内乱軍が国内のある場所を占領した場合、その場所は対外的には占領軍に属するともある。
よって、箱館及び箱館港は、榎本軍が占有・封鎖する権利をもつ。
これはすべて、国際法によって定められてある明白な事実である。
イギリスが近代国家である以上、その遵守を求められると思うが、如何いたす所存か。



反論すれば、イギリス領事館は早晩にも開陽の艦砲射撃に晒される。
軍事・法律両面から、文句のつけようのない説得に遭い、ついにイギリスが折れます。
それは、欧米諸国が榎本らの独立政府を認めたことを意味していました。

De facto authority(事実上の政権)

ようやく、独立国家の第一歩を踏み出したのです。
この日、榎本は久々の高揚感を味わっていたことでしょう。






同じ頃、土方は、松前の敗残兵を江差にまで追い詰めていました。
榎本軍は、半島の制圧をほぼ確実にしていたのです。

あと一歩。
彼らを蝦夷から完全に駆逐すれば、蝦夷に敵はひとりもいなくなる。
榎本軍は本格的に蝦夷の防備に専念でき、新政府軍との交渉・交戦に備えられる。


あと一歩・・・


榎本は、大事をとって江差の援護射撃に開陽を回すことを決定、旗艦・開陽は、江差へと向かってゆきます。
―そこに、最大の悲劇が襲うことになるのです。







(主な参考資料)
箱館戦争―北の大地に散ったサムライたち
幕末史(半藤一利著)
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)



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続・龍馬伝 (31)新天地へ


龍馬伝第4部タイトル(雲の



海。
地球上最大のフロンティア。
特に船乗りたちにとって、海は彼らが生きる場であると同時に、死に場所でもあります。
一寸先は闇、どんなに頑丈な船に乗っていても船底の板一枚下には底しれぬ暗黒の世界が広がっている。
そこに飲み込まれたら最後、亡きがらは誰にも発見されず、永遠に海底をさまようのです。

洋の東西を問わず、幽霊船、クラーケンなど、海にまつわる怪談・怪事が多いのは、決して偶然ではないと思います。



洋上で台風に襲われた榎本艦隊は、あやうく8隻の幽霊船となって、未来永劫に三陸沖をさまようところでした。
しかし、ほぼ初体験の外洋航海とはいえ、一流の航海術を身につけていた榎本一行は、散り散りになりながらも、6隻までを仙台港に入港させることに成功します。
前々回の記事でも書いたように、無数の傷を負いながらも、ようやくたどり着いたのです。



この後、仙台青葉城で激論が行われるも、藩の存続を願った主君の決断により、仙台藩は戦闘を放棄、各地の藩兵をすべて撤収させます。
各地で戦っていた部隊も、会津鶴ヶ城が包囲され、もはや城内にも入れないとなると、彼らは榎本のいる仙台に自然と向かうようになってゆく。
結果、仙台城の周辺には、いまだ恭順に納得のいかない血気盛んな好戦派が、とぐろを巻いていました。
仙台藩自慢の洋式部隊・額兵隊。
大鳥圭介の伝習隊を始めとする、江戸から脱走してきた旧幕府軍。
土方歳三をかしらとする、旧新選組残党。
会津にも戻れない、各地の会津敗残兵。

彼らは、会津の未来を嘆き、薩長の横暴を憎み、仙台・米沢の離反を呪いました。
出航の時期を逸した榎本への非難も、当然ありました。




そう…会津戦争では、いくつもの「もし」があった。

もし、白河が緒戦で破られていなかったら。
もし、列藩同盟が防戦に徹するのでなく、江戸侵攻の積極策を取っていたら。
もし、仙台・米沢が最後まで会津と共に戦っていたら。
もし、榎本があと1ヶ月早く仙台に着き、新潟と平潟に軍艦を回航させていたら。



最後の「もし」が最も可能性があり、それだけに最も多くの人を落胆させることになりました。
その非難はすべて、榎本個人に向けられていたのです。




9月22日、会津落城。
非難が集中する中、榎本は、彼らに自らの夢を語り続けます。
根気よく、何度も、丁寧に。


薩長の横暴により、世は乱れ、われわれは生活の場を失った。
大恩ある徳川家も、最後まで誇りをかけて戦った会津藩も、もはやこの世には存在しない。
われわれは、亡国の民である。
しかし、帰るべき家がないのであれば、新しく家をつくればよいのだ。
私は、蝦夷にその夢をみる。
われわれとその家族が安心して暮らせる理想の国家を、未踏の大地に築こうではないか。





亡国の民。理想の国家。未踏の大地―
彼の言葉は、行き場をなくした多くの人の心を打ちます。
自分の未来のため、妻の未来のため、子供たちの未来のため…戦争に敗れ、なかば自暴自棄になっていた人々が、榎本の言葉を聞くうちに、少しずつ変わってゆきます。
彼の言葉を信じ、新しい未来をそこに発見するようになってゆくのです。

艦船を修理・補充し、食料や生活物資を運び込んでいるうちに、榎本の夢に賭けてみようという者が、次々と集まってきます。
しかし、残念ながら、全員を連れてゆくことはできない。
榎本は、船の運搬能力の限界ギリギリの2500名を選抜し、乗艦を許可します。



明治元年10月12日。
再び、海へ―
かつて満身創痍であった榎本艦隊は、新生・榎本艦隊として、仙台を出航するのです。
行先は、未踏の荒野。榎本たちにとっては、異国に行くような面持ちであったでしょう。


旗艦「開陽」  …蒸気船、オランダ製
軍艦「回天」  …蒸気船、イギリス製
軍艦「蟠龍」  …蒸気船、イギリス製

輸送艦「神速」 …蒸気船、アメリカ製
輸送艦「長鯨」 …帆船、イギリス製
輸送艦「太江」 …蒸気船、アメリカ製 ※仙台での補充艦
輸送艦「鳳凰」 …帆船、国産 ※仙台での補充艦



【第31回】新天地へ



8日後の10月20日。
蝦夷は、初冬を迎えていました。
凍てつくような寒さ。江戸はもちろん、奥羽でも経験したことのないような寒冷が榎本艦隊を出迎えていました。
彼らが最初の上陸地点としたのは、鷲ノ木(わしのき)。
箱館とは半島の反対側にあたるこの地を選んだのは、ある敵対勢力を想定したのことでした。


松前藩


奥羽越列藩同盟の結成当初は、その最北の藩として一員に加わっていたのですが、藩内の抗争を経て反旗を翻し同盟を離脱、榎本たちにとっては敵か味方か分からぬ不気味な存在であったのです。
そのため、彼らを刺激しないようにあえて松前藩の勢力圏外から上陸し、箱館に進む作戦を取ったのです。



鷲ノ木周辺500



当時、箱館を治めていたのは「箱館府」と呼ばれる明治政府系の機関でしたが、彼らはわずかな武力しかもたないため、制圧は難しくないと榎本は考えていました。
ただ、松前藩と手を組まれることは避けたかったのです。
箱館入港が遅れれば、それだけ、新政府に攻撃の隙を与えることになる。

短期決戦。
蝦夷地を支配下に入れるまでは、こちらの手を休めない。
榎本は、箱館府に対して、布告を発します。


蝦夷地のことは、われわれ旧幕府の人間に預けていただきたい。
もし、願いが聞き入れられないときは、戦闘も辞さない。



事実上の宣戦布告です。
同時に、大鳥圭介、土方歳三を中心に陸軍を編成し、箱館に向けて進軍させます。

戦闘は、小競り合いのみで一瞬のうちに集結。
奥州で血みどろの戦闘を経験している彼ら陸軍は、戦闘経験のない箱館府防衛部隊を難なく粉砕、箱館府は青森に逃亡し、榎本軍は難なく箱館と、五稜郭を占領します。




明治元年11月1日。
すべてが始まりを表す1ナンバーの日付であるこの日、旗艦・開陽が、箱館に入港します。
日章旗。
外国船と区別するために日本の艦船に便宜的に使われていた「日の丸」の旗を、開陽は掲げていました。
自分たちこそ、日本国の正当なる後継である―
榎本は、そのような思いを込めていたのかも知れません。


VOOR LICHTER(開陽)


北斗七星の6番目の星ミザールの中国名である「開陽星」
榎本らがオランダに留学していた時に完成したこの軍艦は、彼ら留学生によって、春の天空にひときわ強く輝くその星の名をとって、「開陽」と名付けられました。
オランダ語での艦名は「フォール・リヒター」
開陽を「陽が開く」つまり「夜明け前」と読ませ、オランダ語にしたものです。


元年11月1日のその日、開陽に掲げられた日の丸は、日本の夜が明け、新しい時代が訪れることを象徴しているように、榎本には思えた。



会津を見殺しにした。
奥羽諸藩を捨石にした。
そう陰口を叩く者が多いのは承知の上。

自分の目的は、新政府と戦って、日本を破滅させることではない。
真の目的は、国を追われた幕府の人々とともに、この蝦夷に理想の新国家をつくることである。

言いたい者には、言わせておけばよい。
自分の夢は、自分だけのものだ。



日章旗を眺めながら、そう榎本は思っていたのかも知れません。
彼の国づくりは、ようやくその1歩を北の大地に踏み下ろしたのでした。






(主な参考資料)
箱館戦争―北の大地に散ったサムライたち
幕末史(半藤一利著)
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続・龍馬伝 (30)東京遷都


龍馬伝第4部タイトル(雲の



遷都。
国の首都を移すこと。
その決定は国家の未来を左右する極めて重大な意味を持ちつつも、将来に対する深い洞察力を持っていなければ遷都そのものが失敗に終わる大きなリスクを持ち得る、国家政策の「諸刃の剣」。
過去の日本においても、遷都が有効に機能した例は数えるほどしかありません。

現在でも、東日本大震災を契機に首都機能の一部移転が議論されていますが、その決定のあまりの責任の重さから、誰も明確なビジョンを打ち出せない現状があります。


明治以降の日本の原型を作った大英断、東京遷都。
戊辰戦争という有事の最中に、生まれたばかりの明治新政府は、この離れ業を成し遂げるのです。



せんとくんのセリフ2


※以前に「せんとくん」が登場したことも忘れてしまった人は、前の記事「続・龍馬伝(9)大坂行幸」からお読み下さい。



________________________________________________________


【第30回】東京遷都



目先に一喜一憂せず、10年後、20年後の未来を見据えることのできる長期的な戦略眼。
ひとつの物事に固執せず、あらゆる物事を横断的に眺めることのできる視野の広さ。
地元の地域だけでなく、あらゆる地域・あらゆる分野の人間に顔が利く人脈の広さ。
あらゆる反対を跳ねのけて政策を断行できる不動の信念。
かつ、私利私欲でなく、国家のために身を捧げることのできる清廉潔白な精神。



いつの時代でも要求される、指導者としての資質。
多少大げさに言えば、その完全なる資質を彼は持っていました。


建白書の大久保利通


日本人としては極めて珍しい、リーダー的資質をもつ数少ない人間のひとりです。
当然、新政府内においても彼に比類する能力のある人間は現れず、明治11年に暗殺されるまで、近代日本の基礎は、ほとんど大久保の手によって成し遂げられてゆくことになります。



後に獅子奮迅の働きをする大久保利通。
この時期は、まだ政府内での意見役のひとりに過ぎませんでした。



しかし彼には、信念があった。

「この日本を、欧米と肩を並べる近代国家に成長させる」

彼の全身を貫くその決意は、並の人間には真似のできないものであり、薩長新政府が対幕府戦に神経を注いでいる頃、彼は軍事の一切を西郷に任せ、ひとり孤独に、統一新国家の青写真を練ってゆきます。




日本が近代国家に脱皮する絶対条件として彼が掲げたのが、

「天皇の皇帝化」

以前にも書きましたが、急速な近代化には国民誰もが従わざるをえない強力なリーダーシップが必要で、彼はその役割を、天皇に求めたのです。
そのためには、伝統という名のカビが1000年のあいだに染み付いた京でなく、新天地に天皇を移し、改革断行の信念を国内外に示さねばならない。
大久保の決意は固く、大坂行幸を成功させたあとも、彼は遷都の可能性を常に探りつづけていました。
そんな彼の元に、西郷から、思わぬ知らせが届きます。
江戸城無血開城の成功でした。




幕藩体制という巧妙な地方分権型システムにより日本全土をコントロールしてきた幕府の中枢。
260年の統治実績の歴史は重く、大久保が目指そうとしている日本の中央集権統治のヒントが、そこに眠っていることは間違いのないことのように思えた。
その行政拠点・江戸城が消失を逃れ、そっくりそのまま新政府のものになったのです。

大坂にこだわることはない。
いっそのこと、旧幕府の中心地であった江戸はどうか。


大久保は、江戸への遷都を模索し始めます。




求めるものは、与えられる。
そういう人物の元には、知恵は自然と集まってくるもの。
彼の思案を大きく前進させた人物がいました。

旧幕臣、前島密(まえじま・ひそか)。
のちに日本の郵便制度を設立したことでその名を後世に残す人物です。

彼は、「江戸遷都論」と題した手紙を、この頃、大久保に差し出していました。
江戸と大坂を比較したその分析結果は、大久保の考える江戸遷都を、誰もが納得する理論として後押しし、絵空事であった遷都論を現実的なものにしてゆきます。



江戸遷都論を読む大久保




一方、西郷は、盟友・大久保の構想を実現させるべく、軍事面で着実に成果を上げてゆきます。
無血開城の2ヶ月後には、江戸の野良犬であった彰義隊を壊滅させます。

治安面での江戸遷都の大きな障害がなくなり、江戸の都市機能を取り戻した新政府。
遷都に向けて、大久保が行動を開始します。
彼は、将来の遷都を実現させるべく、つぎつぎと布石を打ってゆくのです。
同士である岩倉具視を通じて、新政府太政官に以下のことを認めさせます。


1.江戸を東の都、つまり「東京」と改称する。
2.東京に天皇が行幸、つまり「東幸」を将来行う。



日本国の君主たる天皇は、西も東も別け隔てなく統治する存在でなければならない。
そのために、東日本を治める便宜的な都として「東京」を定めることにする。
陛下のご威光を東にも知ろしめるために、「東幸」を行う必要がある。
むろん、京は引きつづき都でありつづける。


反発できない見事な正論をもって、彼は以上のことを認めさせます。
天皇の威光を盾にとって演説する大久保に、口うるさい公家衆も黙らざるを得ませんでした。
彼は、「遷都」という言葉を一言も使わずに、しかし確実に、新政府の方針を巧妙に東京遷都へと向かわせてゆくのです。




東幸への準備を着々と進めてゆく大久保。
現在の価値で160億円にものぼる経費は金欠病の新政府から望むべくもなく、かつて大坂行幸で世話になった関西の豪商に東幸の意義を説いて回り、資金を集めてゆきます。
…あとは、日取りさえ決まれば。

しかしこの頃、東幸が東京遷都につながる布石であると嗅ぎつけた保守派公家層が、彼の東幸案を潰そうと暗躍していました。
在位中の天皇が関東に赴くことは、有史以来なかったこと。
過激な彼の改革思想は、京に千年のあいだ棲みついた寄生虫たちにはとうてい理解できるものでなく、言論で破れはしたものの、今度は京の人々に東幸が遷都につながるとの風評をばら撒き、御所内外の空気を東幸阻止の風潮で固めてしまいます。
圧倒的な反対意見に呑まれ、日取りを決められない太政官。
問題を先延ばしにさせ、やがてうやむやにしてしまおうというウジ虫どもの最後の抵抗でした。




明治元年9月8日。
この日、元号が明治と改められます。
奥州制圧をほぼ確実なものとした新政府が、自分たちこそが日本唯一の正当なる統一国家であることを国内外に示した日ともなりました。
その5日後、京の太政官首脳会議に乗り込んだ大久保は、政府の優柔不断な態度を一喝。公家衆に引きずられ「会議は踊る」となっていたのがウソのように、大久保の気迫の喝によって東幸の日程が決定されます。
出発は、わずか1週間後のことでした。




明治天皇の江戸城入場


明治元年10月13日。
明治天皇、江戸城に入場。
この時から、江戸城は「皇居」として、名を「東京城」と改められます。
榎本武揚の率いる旧幕府混成艦隊が、最後の抵抗を試みるべく蝦夷地に上陸する1週間前のできごとでした。



年が変わり、明治2年3月25日。
蝦夷の冬が明け、機は熟します。
榎本軍の一部艦艇が蝦夷から密かに南に下り、宮古湾(現・岩手県)に停泊している新政府艦隊に先制奇襲攻撃を仕掛けたのです。新政府のものとなった軍艦「甲鉄」の奪取を目論んだものでした。
「宮古湾海戦」と呼ばれるこの海上肉弾戦によって、箱館戦争の本戦は華々しく幕を開けることになります。




その3日後、東京。
北の戦況には目もくれず、大久保は次の手を打っていました。

単なる行幸である「東幸」を「遷都」にすり替えらせる秘策。
それは、一度目の東幸成功で気を許した太政官の人間を、今度は東幸そのものに同行させるのだ。
そして、彼らをそこに居座らせる―つまり、東幸から京に帰ってこれない状況を作り出せば、それはもはや遷都したのと同じことになるのではないか。


名より実をとる、大久保らしいユニークなアイディアでした。
その考えのもと、2度目の東幸が行われ、天皇が太政官を伴って再び東京に着いたのがこの日でした。



大久保の読みは当たります。
これ以降、天皇は皇居である東京城で、そして太政官はその周辺で政務を執り行い、以後、天皇が東幸の帰り道を下ることはなかったのです。


「遷都」という言葉を一度も使うことなく、遷都を実現した大久保利通。
この絶妙な政治感覚により、明治日本は首都・東京を中心として、急激な近代化を遂げることになります。
戊辰戦争のクライマックスとなる、箱館戦争が行われる最中のことでした。



________________________________________________________


戊辰戦争終結後。
明治維新が成り、政治の中核を担うことになった大久保は、それ以降、天与の政治手腕を存分に発揮してゆきます。
「明治最初の10年は乱」と大久保が予見した通り、版籍奉還、廃藩置県、国民皆兵…と、権力を一手に握り独裁政治を断行してゆく彼に対し、国民の不満は増大、大久保の専制政治は、その余りも急激な変化についてゆけない多くの人々の反感を買うことになります。


上からは 明治だなどと いうけれど
  治める明(めい)と 下からは読む



東京でこのような狂歌が流行るほど、一般庶民は、大久保の進める近代化政策を好んで受け入れようとはしなかったのです。
その社会の不満はやがて士族の反乱へとつながり、その最大にして最後の反乱である「西南戦争」の終結をもって、明治10年間の乱は終結を迎えることになります。
特に、明治7年から10年の間に起こった旧士族による一連の反乱は「第2の戊辰戦争」とも言うべき西南を舞台にした大規模な内乱なのですが、『続・龍馬伝』でそこまで取り上げる余裕はありませんので、割愛させていただきます。




(主な参考資料)
その時歴史が動いた「幕末ニッポン・幻の遷都計画」~江戸か大坂か?大久保利通の大改革~(2003年)
箱館戦争―北の大地に散ったサムライたち



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続・龍馬伝 (29)会津落城


龍馬伝第4部タイトル(雲の




明治元年9月22日。
会津藩が降伏し、鶴ヶ城が落城した日。
1ヶ月にも渡る籠城戦の末のことでした。
この間、1日に2700発もの砲弾を浴び、鶴ヶ城は文字通りの「蜂の巣」となっていた。

天下無双の堅城と謳われた鶴ヶ城の末路です。




蜂の巣となった鶴ヶ城
(『テレビ朝日新春スペシャルドラマ「白虎隊」』より)


降伏ののち、会津の人間は僻地に追いやられ、塗炭の苦しみを受けることになりますが、新政府軍をそこまで苦しめた「会津魂」は我々の胸に今も深く刻み込まれています。

今回は、その誇り高き会津の最期の物語です。



【第29回】会津落城



8月23日。
猛烈な勢いで滝沢峠を突破した新政府軍は、鶴ヶ城の城下のすぐそばまで押し寄せていました。
滝沢本陣にいた容保は身を危険を感じ、すでに鶴ヶ城に退却していたのです。


けたたましく鳴り響く、敵来襲を告げる半鐘。
耳をつんざくような銃声の嵐。
町民たちは、家財道具を手に逃げまどい、老人たちは、槍を手に城に馳せ参じる。
城下は、混乱の極みにありました。


そして…
雪崩を打って城下に侵入する薩土軍。
会津に対する憎悪の塊となった彼らに、情けというものはありませんでした。
戦闘による恐怖は精神をむしばみ、すでに人の心を失った兵士たちは、老人、子供、女性であれ、人の形をしたものには無差別に乱射をし、あるものは強奪、あるものは強姦、罵倒、と、ありとあらゆる残虐行為を行います。
阿鼻叫喚となった会津城下。

逃げ送れたため、城に入れなかった者。
城に入ることを拒否し、自らの死に場所を定めた者。

あるものは、狂気と化した薩土の軍勢と戦い八つ裂きにされ、ある者は、自刃して果てる。
西郷頼母の妻子はじめ、武家の妻子は次々と自刃し、それらの血が屋敷からしたたり落ちていました。
地獄絵図。
…そして、城下に火がつき、死霊たちの怨念とともに、会津城下は焼け尽くされてゆくのです。


焼け野原となった会津城下
(『テレビ朝日新春スペシャルドラマ「白虎隊」』より)


会津史上、もっとも凄惨な歴史として刻まれる、戊辰の籠城戦。
その幕開けは、血の海と化した城下町から始まったのでした。


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8月26日。
江戸湾を出航した榎本艦隊が、仙台港に入港していました。
途中で強烈な暴風雨にさらされた結果、もともと体力のなかった美賀保・咸臨の2艦は行方不明。
品川沖を悠々と出たはずの8匹の黒きけものは、大自然の洗礼を受け、6匹の傷だらけの姿となって奥羽列藩の前に姿を表すことになったのです。

榎本は、仙台城に登城。
列藩同盟の今後を占う、円卓会議が開かれるのです。


榎本らが主張したのは、あくまでも徹底抗戦でした。
それに、江戸から艦隊に乗ってきた旧幕臣の永井尚志、フランス軍事顧問ブリュネが賛同。
会津城外で転戦を重ねてきた土方歳三も抗戦の決意を固めていました。
一方、仙台藩は藩論がまっぷたつに分かれ、収集がつかない。
主戦派と恭順派の間で、激論が交わされますが…

仙台藩藩主・伊達慶邦は、恭順を決意。
会津を切り捨て、自藩を守る道を選択したのです。




―地に堕ちた武士道。
盟主の仙台が脱落したことにより奥羽越列藩同盟は完全に瓦解。
これ以降、会津は、新政府軍を相手に孤立無援の籠城戦を強いられることになるのです。





全国の敵を一心に受けて、絶望的な籠城戦を続ける会津。
圧倒的な兵力差の前に会津は為す術もなく、散発的な反撃はすべて跳ね返され、半月後の9月中旬には、外部との連絡路を完全に絶たれてしまいます。
外にはアリの這い出る隙間もないほど、3万の敵兵が充満していました。

城の四方からは50門以上の大砲が設置され、毎分ごとに敵弾が城に襲いかかる。
城内ではいたるところで着弾した爆弾が破裂し、死人の収容すら満足に行えない状態でした。
生きた心地もしない地獄のような城内で、会津の人々は、それでも必死に籠城戦を耐え抜いていたのです。



会津の命は、風前の灯でした。
援軍が望めない籠城戦の行く末は、全滅しかありません。
これ以上籠城が長引けば、容保公の命すら危うくなる。

ギリギリのところで、会津は初めて白旗を揚げるのです。




会津の降伏


9月22日。
会津藩、降伏。
いつの間にか年号は「明治」と変わっていました。

降伏の調印式を務めたのは板垣でも伊地知でもなく、西郷の懐刀である中村半次郎でした。
会津の戦争そのものが、新政府樹立後の主導権獲得に向けた西郷の政争の道具に使われたことがよく象徴されたような、そんな調印式となりました。


松平容保の胸の内は、いかばかりであったか。
彼はその生涯、この日のことを人に語ったことはなかったといいます。

…会津はこの後、青森県の下北半島に移住させられます。
不毛、極寒の流刑地で、生き残った人々は辛酸をなめ、それでも胸に不滅の会津魂を秘めながら、たくましく生きてゆくことになるのです。




会津の降伏とほぼ同時期に、東北各地の他の戦線も次々と終息してゆきます。
同じく誇りを捨てず最後まで戦っていた列藩同盟の生き残り、庄内藩は、米沢から侵入された黒田清隆の軍勢の攻勢に遭い、孤軍奮闘の中、9月27日、白旗を揚げます。
最後まで自領に新政府軍を入れなかったその戦いぶりは周囲を驚嘆させ、三河武士の末裔の誇りの高さ、団結力の強さを見せつけての降伏でした。

その数日前には、義を掲げ会津・庄内と志を同じく奮闘していた南部盛岡藩も降伏、会津平定とほぼ時を同じくして、新政府は東北全土を平定することに成功するのです。






ついに、最大の敵・会津藩を屈服させた新政府軍。
これにより日本のほぼすべての地は新政府軍のものとなり、欧米列強も、明治政府を日本唯一の正当な政府であると認めます。
戊辰戦争は、終結したかに思えました。

―明治。
新しい時代に向けて、動き出す。
それに抗うのは、正義か、愚行か。
北の大地で、この国は戊辰最期の反乱を迎えることになるのです。








(主な参考資料)
箱館戦争―北の大地に散ったサムライたち
会津落城―戊辰戦争最大の悲劇 (中公新書)
戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書 (455))
戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える (中公新書)
奥羽越列藩同盟 (中公新書)
幕末史(半藤一利著)
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)



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