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龍馬暗殺現場の真実(4)


龍馬暗殺の黒幕は誰か。
龍馬人気と共に「幕末最大のミステリー」として、多くの人々の関心を集めてきました。
前回に続き、今回も信憑性の高い説を紹介したいと思います。



龍馬暗殺の直後から、京ではある噂が広がっていました。
彼を暗殺した裏側に、とんでもない陰謀が渦巻いているのではないか、というもの。
表立って口にすることは憚られましたが、人々は、脳裏にある共通の黒幕を描いていたのです。

その一端を、肥後熊本藩のある家老が残した手記に見ることができます。
日付は、暗殺から20日後。そこに書かれていた名を見れば、みなが口にすることを恐れたことも納得できると思います。


肥後熊本藩の手記


龍馬と同じ倒幕側であった、薩摩。
その薩摩こそ黒幕であると言うのです。






時は流れ、明治の世。
政府は龍馬暗殺の自白という確信的な証拠を得ることになります。


今井信郎


薩摩を中心とする当時の明治政府は、記録では7ヶ月にも及ぶ取り調べを行っています。
暗殺者本人の口から当時の犯行の全貌が明らかになることは、誰に目にも明らかでした。

しかし・・事件は闇の中に封印されます。
明治政府はその取り調べの内容を一切世間に明らかにしませんでした。


1枚の簡単な判決文と共に、彼に出された刑罰は、わずか1年半の禁固刑のみ。
明治5年に釈放された今井は、のちに、静岡県の監督付の役職が与えられます。
明治政府は、釈放後の就職先まで斡旋してあげたことになります。

同じく暗殺実行犯7人のもうひとりの生き残りである渡部篤も、同じ時期、元薩摩藩士の紹介で奈良の警察本部長に就職しています。


龍馬暗殺の実行部隊に対しての、異例ともいえる処遇。
新選組の近藤勇らに対する処置(斬首など)に比べると、その奇怪さが一層浮き立ちます。
そして、闇に埋もれた真実。
そこに何らかの政治的な意図があったとしても、何ら不思議はないのです。



…ということで、今回は


薩摩黒幕説


について検証してみたいと思います。


________________________________________________________



事件の8ヶ月前、京の北野天満宮。


北野天満宮


ある見廻組の組員が、この地で不用意に銃を乱射します。
幕末戊辰の戦乱期ならまだしも、この当時の京で発砲する理由はどこにもありません。
神道、ひいては天皇に弓引くと咎められても言い訳の立たない行為。

しかし、この問題はうやむやになります。
本来は大問題になるはずのこの事件を、間に入って丸く収めたのが…薩摩の人間だったのです。
薩摩藩も、それがのちに思いもよらない形で役に立とうとは、さすがに予見できなかったでしょう。




この頃から、薩摩の西郷・大久保らと龍馬は、徐々に食い違いをみせていました。
第2次長州征伐で幕府軍を長州のみの力ではねのけたことに自信を深め、武力倒幕に傾倒してゆく西郷ら。
龍馬は武力倒幕に対して、あいまいな態度を取っていました。


西郷らの考えが46個の歯がついた歯車だとすると、龍馬の歯車は47個。
龍馬の歯が自分たちよりひとつ多いと気付くのは、この頃からです。
自分たちにはない、ひとつ多いその歯の名は

「大政奉還論」

歯数の違う歯車は、今は不安定ながらお互いカチカチと噛み合っていても、やがてカチンと互いの歯がぶつかる時がくる。
その時に脱落するのは、自分たちか、それとも龍馬か。



その時に備えて、彼らは秘密工作を行います。
討幕の最大の障壁になるであろう会津の切り崩しにかかるのです。

北野天満宮でのパイプ、いわば「見廻組への貸し」を巧みに使い、彼ら組員と接触を図ります。
薩摩藩士・高崎正風は和歌に秀でていることを利用し、会津出身者が集まる歌会に参加。
そこで出会ったのが、同じく和歌の名手である佐々木只三郎でした。
海江田信義は武道に秀でた薩摩藩士。
見廻組きっての剣の達人である渡部篤と面識を持ち、渡部が京に構えていた道場に来て3本勝負を行うなど、交流を深めてゆきます。


彼ら見廻組から、幕府の内情を探るか。
もしくは、武力を行使した場合の衝突相手である見廻組の無力化を図るか。
西郷の頭の中には、その使い道のリストがすでに並べられていたことでしょう。





薩摩軍


薩摩は京に3000の兵を進発させます。
長州もそれに呼応して京に派兵する支度を整えていました。
その大きな動きはもはや隠しようもなく、誰の目にも薩長が武力倒幕に踏み切る覚悟を決めつつあるのは明らか。
軍勢を見せつけることで、日和見の諸藩を討幕側になびかせ、武力衝突の際の兵力を優位にもってゆく。
西郷の狙いでした。



準備は整いつつある。
あとは、着火装置を手に入れればすべてが完成する。
恐れを知らぬ彼らは大胆にも、天皇自らが火をつけるように仕向けます。
大久保を中心として朝廷に近づき、ニセの討幕の詔勅を作成するのです。


討幕の密勅


賊臣・慶喜を殄戮せよ


天下の賊臣である慶喜をメッタ刺しにせよ。
その文章は、天皇の言葉とは思えないほど過激なものです。

この討幕命令書が発布されたと同時に、薩摩とその諸藩連合軍は一斉に蜂起。
京に攻め入り、京都御所から幕府勢力を排除し、天皇の権威をもって天下に幕府の解体を宣言する。
そうなれば、龍馬の案も水の泡と消えよう。自分たちに協力するしかないはずだ。
そう。ほんの一瞬で終わるはずでした。




…しかし、歯車は思わぬ形で回転します。
龍馬の迅速な行動は、薩長の軍勢が京に着くヒマさえ与えませんでした。


大政奉還のシーン2



西郷らの企みをあざ笑うかのように、龍馬は大政奉還を成功させるのです。

数千もの兵士の銃剣によってのみ倒幕は成しうると考えていた薩長勢。
その大勢の兵士を尻目に、龍馬はたったひとりで、剣でなく言論によって将軍慶喜を動かし、事実上の倒幕を成し遂げてしまったのです。


龍馬はさらに、新時代に向かって歯車を進めます。


○○○


空欄になった最高位。西郷らは戦慄します。
龍馬の狙いは、大政奉還で幕府を一度白紙に戻したあと、慶喜を体裁良く最高位に付け、そのあとは彼がデザインする政府人事により、土佐主導の新政府を作ることではないのか。
そうなれば、薩摩は永遠に龍馬と土佐藩の後塵を拝することになる。


真に恐ろしいのは、幕府でも朝廷でもなく、このたったひとりの土佐人であった。
西郷らはもはや猶予はならぬと、その謀略は、彼ひとりに向けられてゆきます。



近江屋に身を潜めていた龍馬に対し、
「今潜伏しているあたりは物騒だから、薩摩藩邸に入ってはどうか」
と誘いをかけますが、
「薩摩藩邸に入るくらいなら、一戦交える覚悟です」
と手痛く断られます。




もはや、非常手段しかない。

佐々木只三郎ら見廻組の使い道は、決まりました。
「新政府樹立後は良きように計らう。安心せよ」
そう口添えをし、この世にいてはならないその男の名を告げるのです。


暗殺決行


「知恵くらべでは完敗したが、最後は力を使ったものが勝つのだ」
西郷は龍馬にそう言いたかったのでしょうか、闇の力により、暗殺の真実は現在まで明らかになっていません。






(主な参考資料)
その時歴史が動いた 歴史の選択「 坂本龍馬暗殺 黒幕は誰か?」(2006年)




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龍馬暗殺現場の真実(3)


「龍馬伝」はもう終わったと思っているアナタ。
いえいえ、今年いっぱいは終わりません。

なぜなら…


龍馬伝・総集編のお知らせ


黒いバックが何だか喪中のお知らせみたいですが、そうではありません。
(縁起の悪いことを言ってスミマセン)

龍馬伝総集編...!リラックマ27「上昇」


1部ごとに1時間(59分?)、全部で4時間。
それぞれの間の1分間にはニュースが入るのだろうか?
いやいや、そんな短い時間じゃ無理だろ。その次の番宣かな。
そんな下らないことを考えている今日このごろです。

総集編第4部の最後に、ホームページで募集していた龍馬伝のベストシーンの発表もあるらしいので、これは必見ですね。

ということで…

今夜もいってみよぉ!(魂ラジ風に)

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先々週の「龍馬暗殺現場の真相」続きより。
今回と次回で、暗殺の黒幕で特に有力な2勢力を挙げ、検証してゆきたいと思います。



龍馬が暗殺されたあと、海援隊隊士などの必死の捜索にもかかわらず、全く犯人の手がかりはつかめず、事件は迷宮入りかと思われました。

それが、明治3年、ある元見廻組組員の自白により、犯人は見廻組の7人であることがハッキリします。
その7人とは、

佐々木只三郎
今井信郎
渡辺吉太郎
高橋安次郎
桂隼之助
土肥仲蔵
桜井大三郎




自白した今井信郎は、

「御差(指)図」

により龍馬を殺した、と語っています。
自分たちが自発的に動いたのでなく、指図をした人がいたというのです。
これが、見廻組単独犯説でなく、黒幕説を裏付ける有力な証言となっています。


この指図をした対象が誰だったのか、今井信郎は最後まで口を閉ざしました。
が、常識に的に考えると、見廻組の直属の上司である、

会津藩主・松平容保

の名前が浮かんできますよね。
それに加えて、明治36年、見廻組与頭・佐々木只三郎の兄が死の直前に重大な証言をします。
(なぜ死の直前にこのようなことをいったのか、真偽は未だ不明ですが…)

「命じたのは松平容保である」



ということで、今回は、

会津黒幕説


を検証してみたいと思います。
この説を挙げるにあたって、よく論点となる

○松平容保は、なぜ暗殺の事実を隠したのか?
○どのように龍馬の居所をつかんだのか?
○なぜ新選組でなく見廻組にやらせたのか?


についても、下に描いたストーリー中で明らかになってゆきますので、注意して見ていただきたいと思います。

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松平容保(京都守護職)


彼が京都守護職として京の治安を守る上で、早くから危険人物としてマークしていた人物がいました。
彼独自の情報網から、フィクサーとしての噂が絶えないのです。

坂本龍馬


その懸念が現実のものになったのが「薩長同盟」
その中心人物に、やはり彼の名前がありました。
容保は即座に龍馬の身柄を拘束するように命じ、伏見奉行所が潜伏先の寺田屋を急襲しますが…捕獲は失敗。
このあとの龍馬の活躍ぶりは、「龍馬伝」を見ていた皆さんには説明不要でしょう。


捕獲が失敗した後も、彼がいるために幕府の衰退は目に見えて加速してゆきます。
もはや、彼には消えてもらうしかない。
容保はこの頃から、龍馬殺害の可能性を探っていたのです。

しかし、その行動を躊躇させる要因がありました。
薩摩と長州です。


この当時、薩長がいつ武力蜂起をするかということは、幕府の中でも懸案事項でした。
「武力倒幕のための大義名分を与えない」
これが、この当時の幕府にとって重要課題だったのです。
薩長にとっての大恩人である龍馬を殺したのが幕府だと分かれば、それを理由として彼らは武力蜂起するのではないか。
容保はそれを恐れていたのです。


龍馬をこのまま生かしておいていいのか?
かといって、薩長に討幕の大義を与えてはならない。


容保が悩んでいるうちに…
龍馬はその数手先をすでに読んでいました。
幕府にとっての「王手」
それは、幕府という組織そのものを解体させること。

龍馬は、最後の詰めの一手を繰り出すのです。


大政奉還のシーン


容保がぐずぐずしている間に、龍馬は将軍をも動かしてしまうのです。


慶喜が大政奉還を受諾した事実は、容保にとって非常に重いものでした。
将軍である徳川慶喜が大政奉還を受け入れた以上、その発案者である龍馬を殺すことは、将軍の意に背くことになってしまいまうからです。


ここに来て、容保は、幕府の名において龍馬を成敗する道を完全に絶たれたことになります。
幕府をも手玉に取る恐るべき巨人・坂本龍馬。



しかし…
容保は、何がしかの違和感を感じずにはおれませんでした。

容保は、慶喜の信頼を受けていたこともあり、慶喜の幕府再興の想いもよく知っている。
その慶喜が、なぜそんな簡単に、大政奉還を受け入れたのか?


彼は、幕府内に内通者がいるに違いないと、幕臣にその疑いの目を向けてゆきます。

そして…
その捜索線上に浮かんできたのは、意外な大物でした。


永井尚志2


慶喜の信頼も厚い、実質的な幕府ナンバー2。
彼が慶喜に大政奉還を勧めたことがハッキリとしてきます。


容保がホシに目をつけ、捜査を続けると…
案の定、永井が龍馬と密会している事実を突き止めます。


忠義の幕臣・松平容保。
幕府を救うためには奸計もやむなしと、彼は大胆な行動にでます。


「自分は幕府の忠臣であるが、徳川のためにも大政奉還やむなしと賛成する立場に立った。
ついては、その創案者である龍馬殿に、自分から礼を言いたい」


密会に行く永井に言葉巧みに同行し、龍馬と面会するのです。
龍馬にとって容保はもっとも危険な人物でしたが、信頼する永井が同席を認めたことで、龍馬も心を許します。


容保は龍馬に言います。

「私とて徳川の恩人。貴方が徳川のために大政奉還の建白を行ったこと、この容保、恐れ入るばかりである。
幕府からの刺客を恐れておいでと聞いたが、今後、そなたの身の安全は私が保証する故、安心なされよ」



幕府への忠節を唯一の心の拠りどころとする容保にとって、たとえ策とはいえ幕府を転覆させた大政奉還の立案者・龍馬を褒めるこのような言葉は、内心は怒りで煮えたぎる思いがあったに違いありません。
しかし容保は龍馬暗殺のため、心を鬼にして、龍馬を接待するのです。


この一世一代の容保の大芝居は、効果テキメンでした。
人のいい龍馬は彼を信用し切ってしまうのです。

寺田屋のお登勢が身辺の警護を怠らないように警戒した手紙を龍馬に送った際も、彼はこう返書を出しています。


龍馬の横顔


暗殺の前日のことでした。



実はこの時、容保はすでに会津独自の情報網や永井からの情報などを総合して、龍馬の近江屋潜伏を察知していたのです。


容保は、熟慮を重ねた結果、ある結論に達します。

今回の最重要事項。
それは、暗殺の成否はもちろんのこと、万一しそこねた場合も含め、会津からの差し金であると絶対に漏れてはならないということ。



そこで容保は、見廻り業務で20人もの殺人の実績のある新選組ではなく、あえて、それまで業務上ひとりの殺人も犯していない見廻組を選びます。
それまで、新選組は事件を起こすたびに京の町を派手に練り歩き、自らの存在を誇示していた。
今回だけ完全に秘密にせよと言ったところで、どこまで信用できるか分からない。
それに対して、見廻組はいわば「会津の腹心」
見廻り業務で(公式には)ひとりの殺人者も出してないという表の事実が、新選組との違いを物語っています。

さらに、容保は念には念を入れまます。
見廻組の中でも、特に忠誠心の高い会津出身の佐々木只三郎を選び、ひそかに命を下します。

「坂本龍馬を亡きものにせよ」


佐々木が選んだのは、腕も立ち、命令を忠実に実行し、信用のおける部下6名。


見廻組・暗殺メンバー



龍馬を油断させ、ひそかに討つ。
容保の権謀術数にかかった龍馬は、たった7人によって、その短い生涯を終わらされるのです。





(主な参考資料)
その時歴史が動いた 歴史の選択「 坂本龍馬暗殺 黒幕は誰か?」(2006年)




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龍馬が描いた日本(2)


龍馬暗殺から50年が経とうとしていた、大正4年。
8月5日付けの朝日新聞に載ったある記事が、読者を驚かせます。


そこに書かれていたのは、元見廻組の渡部篤(あつし)が、死の直前に、龍馬暗殺を告白したものでした。
人々が驚いたのも無理はありません。
明治3年の今井信郎の龍馬暗殺の証言は、明治政府のトップシークレットとして、取り調べに関わった者と政府上層部の一部しか知らないことでした。
大衆が龍馬暗殺の実行犯を知るのは、この時が初めてだったのです。

その記事には、渡部の言葉として、こう書かれていました。


渡辺篤の新聞記事


渡部が死の直前まで抱きつづけていたことは、新しい時代を切り開こうとしていた人物を斬ってしまった罪の意識だったことがうかがえます。
龍馬暗殺実行犯の7人のうち戊辰戦争後も生き残ったのは今井と渡部のふたりだけですが、渡部はこのような言葉を残して死に、今井は暗殺の証言ののち、どのような心境の変化があったかクリスチャンとして生涯を終えたことと併せて考えると、因縁深いものを感じます。



暗殺者からさえ、死を惜しまれる男であった坂本龍馬。
彼が描いた日本は、どのようなものだったのでしょうか?


今日はその第2回として、その経済理念を取り上げてみたいと思います。

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龍馬の経済政策を述べる前に、龍馬と肩を並べる経済センスの持ち主を挙げねばなりません。
このブロブ上でもたびたび登場している、幕臣・小栗忠順です。

彼は、大政奉還の3ヶ月前に、日本初の紙幣発行を計画します。
パートナーとして選んだのは、両替商をやっていた民間の三井組。
三井組は、この計画のために「三井御用所」という政府と太いパイプをもつ金融機関を設立し、そのトップに、のちの三井グループを支える三野村利左衛門(みのむら・りざえもん)を抜擢します。

そうしてできたのが、日本初の政府紙幣

江戸銀座札


小栗は紙幣発行によって幕府の財政を立て直すと同時に、日本独自の経済システムを創り上げることによって当時の外国資本に独占されている貿易の主導権を取り戻そうとしたのです。

ちなみにこの「銀座」という名前の由来、知っていますか?
今「銀座」という名前を聞いて思い浮かべるのは、東京の繁華街である銀座ですよね。
この名前は、江戸幕府がその地に銀貨の鋳造所を置いたことに由来します。
つまり、銀座とは、貨幣鋳造所の代名詞のようなもの。

新しい政府紙幣もこの場所で作られたので、「江戸銀座札」と呼ばれたのです。



龍馬も、越前藩の三岡八郎(みつおか・はちろう)と組んで、新政府ができた暁には紙幣を発行しようと計画します。
大政奉還前の11月1日に龍馬はこの若き俊才を訪問し、記録によると辰の刻(朝8時)から子の刻(夜12時)まで紙幣発行について熱く語り合い、意気投合したとあります。
三岡は、龍馬の経済センスを理解できる、当時としては数少ない人物だったのでしょう。

龍馬亡き後、由利公正(ゆり・きみまさ)と名前を改めた三岡は、その経済手腕を認められて明治新政府の財政を担当するようになると、さっそく新紙幣のプランに取り掛かります。
その時にコンビを組んだのが、前述の三野村利左衛門。
タッグを組む相手は変わりましたが、龍馬との約束を果たしたのです。



龍馬が構想したのは、単に新紙幣の発行だけではありません。
この案は、いわば幕臣の小栗にヒントを得た「二番煎じ」のようなもの。

それ以上に、水爆級の秘策を彼は温めていたのです。
「この策が実行されれば、将軍の位はそのままでも一向に構わない」と龍馬が言うほどの、彼にとっては満を持した策を持っていた。
慶喜が大政奉還を決意する3日ほど前に、後藤象二郎宛に書いた手紙の中で、龍馬は初めてその秘策を明かすことになります。


銀座移転策


「江戸の銀座を京都に移す」と彼は言っています。
これはどういうことか。

前述の通り、銀座とは、貨幣鋳造所のことを指します。
「江戸の貨幣鋳造所を京都に移す」とは、幕府が握っている貨幣の鋳造権を新政府側に移すということを指します。
貨幣鋳造権を取り上げられた徳川は経済システムの構築者から、いち消費者に成り下がる。
そして、新政府が経済の支配権を得るということを指します。
貨幣鋳造権を掌握した新政府が、龍馬の新紙幣発行構想に基づき、新しい貨幣体型を作り出すということです。


ここは少し分かりにくいと思いますが(正直、自分も経済に疎い人間なので、よく分かっていない部分です)、現在に置き換えて考えると少しは分かるのではないかと思います。
たとえば、日本の円が消滅し、アメリアのドルが日本の通貨になった場合、どうなるか。
日本の独自性は失われ、経済の根幹をアメリカにコントロールされることを意味します。
つまり、日本が経済的にアメリカの属国(つまり、アメリカの51番目の州)になることを意味しますね。


今でこそ貨幣=国家そのものである、という価値が常識となり、しのぎを削る熾烈な通貨戦争が行われていますが、この当時に貨幣鋳造権に目をつけた龍馬は、さすがに慧眼であると言わざるを得ません。


この手紙を、後藤はどう読んだのか。
残念ながら、彼には理解できなかったのではないか。
ただ、後藤象二郎は龍馬の才覚を見抜き、自分の理解を超えたことでも彼を信じ龍馬に全てを任すという度量の広さはあったでしょうから、龍馬が暗殺を免れ、土佐藩主導での改革が進んだならば、こういった案が次々と実行されたはずです。
そうなっていれば、現在「銀座」は東京でなく京都の繁華街となっていたでしょう。
今の日本は、ずいぶんと変わったものになっていたのでしょうか・・・

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たまに「大政奉還を実現しただけでは、徳川は何も変わらない」とし、大政奉還を主導した坂本龍馬を過大評価することを疑問視する人がいます。
その通りです。大政奉還だけでは、徳川は何も変わりません。
それこそ、西郷らが恐れていた通り、徳川家が実権を握り続けることになるでしょう。

しかし、龍馬の改革案は、大政奉還が終着点ではなかった。
むしろ、その後に行うべき改革案こそ、龍馬が練り上げた新生日本の具体像となるはずでした。

2段階革命思想

第1段の大政奉還で政治権力を空白にし、いわば革命の土壌をつくる。
第2段の新官僚体制と銀座移転により、新政府による脱皮した日本の土台を作る。
これにより、旧幕府側も旧討幕側も一滴の血を流すこともなく、完全に平和的に革命が達成されることになります。
戊辰戦争で戦死した両陣営合わせ1万3000人の命を龍馬は救ったことになるのです。



さらに、

第3段革命

ここからは、龍馬の手紙にもありませんので、あくまで僕の希望ですが…
龍馬が生きていれば、その次の手も当然考えたはずです。

自分の描いたアウトラインに沿って国内の政治・経済がある程度安定したのを見届けた龍馬は、あとは他の人間に任せて、自らは海外に打って出る。

日本は幼虫から脱皮し成虫になったといっても、まだまだ羽も充分に伸ばせないヨチヨチ歩きの状態。
単独では、とても欧米に対抗できない。
そこで龍馬が目をつけたのが、おとなりの清国と朝鮮。

彼は、当時弱体化しつつある清国とその属国である朝鮮、そして日本をまとめ上げ、あたかもひとつの国家として機能させることにより、欧米に対抗しようと考えます。
毛利元就ではないですが「三本の矢がまとまれば、大の大人でも折れやしない」
それに、もともとは同じ民族、分かり合えないはずがない。
日本の技術力、清国の労働力、そして朝鮮の中継地点としての地理的条件、そういった3国の長所をひとつの力として集約しようという発想。
人やモノの通行を自由化しひとつの経済圏として結びつけ、さらに軍事力も共通化する。
今のEUの発想より100年近くも前に、龍馬はかれ独自の自由で独創的な発想力により、国家の枠というものを取り払ってしまうのです。

「そんなこと、できっこない」

皆、思った。常識的にはそうです。
しかし…あの、犬猿の仲であった薩長をまとめ上げた龍馬なら…あるいは可能だったかも知れません。
龍馬の余生は、その実現にすべて捧げられることになります。


最後の構想については、将来の日本が採るべき道であると多くの人が考える東アジア構想を、龍馬に託したものです。
現代人の宿題さえ龍馬にすべて押し付けるのは、あまりに頼りすぎているかも知れませんけどね。





(主な参考資料)
坂本龍馬と海援隊―日本を変えた男のビジネス魂 (講談社文庫)
[図解]坂本龍馬の行動学



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龍馬が描いた日本(1)


「龍馬伝」は終わりましたが…
自分の中では終わっていない、龍馬の足取りを追う旅路。
今回も、その続きです。



青菜に塩



龍馬の死後、薩長を中心として明治政府が樹立され、新しい日本が動き出します。
しかし新政府内部では、やれ薩摩藩だ、やれ長州藩だ、と藩閥抗争が耐えません。
晩年の龍馬に最も近い立場にいた陸奥宗光は、その様子を見、こう皮肉ったといいます。
「龍馬あらば、今の薩長人などは 青菜に塩」と…

ちなみに「青菜に塩」とは、生き生きとした青野菜に、塩をかけるとしわしわになってしまうことから、元気のあった人が急に威勢を失うことをいいます。
「薩長の生き残り連中も、龍馬がいない今だから威勢よくやっているが、龍馬がいたら自分たちの小ささに気付かされ、たちまち元気を失うだろうよ」
陸奥のこの言葉は、明治政府を皮肉ると同時に、龍馬を失った哀しみを表現しているような気がしてなりません。




龍馬が描いた日本。
彼は、どのような日本を思い描いたのでしょうか?
「龍馬伝」の締めくくりとして、この部分はどうしても記事にしておきたかったのです。


今日は、その政治理念を取り上げてみたいと思います。

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大政奉還という歴史的偉業がなされた翌日、早くも龍馬は新国家の人事案を書き上げます。
それが


『新官制擬定書』


この行動の早さは、彼が、大政奉還前から新国家の構想を時間をかけて練りあげていたことを意味すると思います。
ドラマでは、「新政府綱領八策」(例の○○○の文章です)を書いたあとに人事案を考えたことになっていますが、実際は人事案が先だったのです。
これは、龍馬が「人こそ国家建設の骨格である」という強い考えをもっていた証とも取れると思います。
その人事案は、以下の通り。


新官制擬定書



龍馬はイギリスの議院内閣制をお手本にした政治を目指していたので、天皇の下に自らが理想とする民主主義体制を作ろとしました。
彼が、それまで勝海舟や大久保一翁、横井小楠らの知恵を吸収し、当時流行っていた諸藩による雄藩連合からさらに考えを発展させた、いわば龍馬なりの政治の最終形態になろうかと思います。


まず、天皇を補佐する「関白」
天皇の分身・代理といってもよく、これは皇族の血統により選ばれます。

その下が「右大臣」
実務の実質的な責任者で、下の議奏や参議の統轄者(いわゆる議長の立場)。ここに龍馬は徳川慶喜を持ってきます。
このことから、後の「新政府綱領八策」の「○○○自ら盟主と為り…」の○○○には慶喜公が入ることが明白です。龍馬が実名を出せなかったのは、薩長討幕派からの反発が痛いほど目に見えたからでしょう。

そして、天皇を支える「議奏」
政策を審議し、天皇に奏上する役目をもちます。
立場的には上院にあたります。
ここには皇族と有力大名を持ってきます。メンバーを見て分かるように、いずれも革命派で、幕府側(老中・若年寄など)や佐幕派大名(松平容保など)の名前は入っていません。

さらに、もうひとつの政策審議機関である「参議」
立場的には下院にあたります。
ここには公家や諸藩の藩士の名前がみえますが、ここも議奏同様、革命側の人間で固められていることが分かります。



龍馬はこれを書き上げた約1ヶ月後に死んでしまいますので、この名簿の真意は分かりません。
ただ、いろんな解説書を参考に僕が思うに、こういうことではないでしょうか?


まず、徳川慶喜を実質的な最高位(今でいう内閣総理大臣)にもってくることで、幕府や佐幕側の反乱を抑える。
これは、内乱を防ぐ龍馬のギリギリの選択だろうと思います。
これにより、旧幕府軍が新政府に対し反乱を起こすことは、自らの主人である慶喜の政権に反乱を起こすことになり、そのような大義名分が立つはずがありません。
結果的に反乱が起こったとしても散発的なものにとどまり、組織的・大規模な反乱は防がれる。

その上で、その下を革命派が固めることで、政治の実権は革命派が握る形を崩さない。
彼らのメンバーは実に多彩で、龍馬亡き後の明治新政府が薩長土肥といった藩閥政治で固まっていったことから考えると、オールジャパンの様相を呈していることが分かります。
もちろん、自分の故郷・土佐に有利な人事は一切していません。
こういった人事は、やはり坂本龍馬だからこそ成し得ただろうと思いますね。

おそらく、欲をいえば龍馬はここに永井尚志、勝海舟、大久保一翁、小栗忠順ら幕府の優秀な頭脳を参加させたかったと思いますが、現実的なことを考えて、あえてリストには載せなかった。
彼らをリストに載せていたら、まず、薩長側の反発は免れない。
そうなれば、仮に強引に実現させたとしても、旧幕府側と旧倒幕側の対立の再燃になってしまう可能性が大です。
(今日の民主党と自民党の国会での不毛な争いを見ても、そういった組織対立が国家の成長にとっていかにマイナスであるか、よく分かると思います)
このあたりは、理想主義に走らない龍馬の現実思考が生きていると感じます。

あとは慶喜の処遇ですが、彼に議奏や参議の決定についての拒否権を与えなければ、まさに名誉職。
さらに、慶喜の後任を徳川家からの世襲でなく議奏からの推薦によって選ばれる(いわゆる選挙)という仕組みにすれば、現在ほどでないにしろ、当時とすれば画期的な『開かれた政治』が実現される。

このようなことを、龍馬は考えていたのではないか。


…と、僕なりにイメージを作ってみました。
龍馬の考える新政府(=国家)を一軒の家に喩えると、こういうことではないか?


新官制議定書



右大臣・徳川慶喜は、一番見晴らしのいい3階の部屋を独占し、気分はいいが、家の家事に対する権限は全くもっていない。
議奏は2階の部屋を使い、家の家事一切を取り仕切る責任をもつ。
参議は1階の部屋を使い、議奏が取り上げるまでもない細々としたことや、基本的なことがらを取り扱う。
こうして、それぞれが役割を分担し、一家が平和に暮らせる。

これは僕の想像も多分に入っていますので、細かい点は学者さんからツッコミが入るかと思いますが、僕のような素人でも分かるようにあえて単純化すると、こうなろうかと思います。




龍馬は、幕府の最高位であった将軍・慶喜を起用するなど、現実を踏まえながらも、あくまで、すべての日本人が参加する、民主主義の理想を目指した。
おそらく、この深淵な思想は、西郷はじめ血気にはやる当時の討幕派には到底理解できなかったに違いない。
彼らがこのリストを見て激昂したことは、容易に想像がつくのです。



そして、明治。
龍馬亡き後の日本。

その崇高な理念と比べたときに、慶喜を排除したあとも身内の藩閥争いに終始する明治新政府のメンバーは、陸奥宗光にとってはさぞや小粒に見えたに違いない。
そのような陸奥の万感込めた思いが、最初に挙げた言葉にも現れていると感じます。





(主な参考資料)
坂本龍馬と海援隊―日本を変えた男のビジネス魂 (講談社文庫)
[図解]坂本龍馬の行動学



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龍馬暗殺現場の真実(2)


 龍馬暗殺特集


第2弾は、龍馬暗殺、その瞬間を捉えたいと思います。

ここから先は、事件の2日後に絶命した中岡慎太郎の死に際の説明と、明治3年に「自分たちが龍馬を襲撃した」と自白した今井信郎しか証言者がいません。
中岡慎太郎は深手を負いその記憶がすべて正しいとは言い切れず、今井信郎の証言も事実と食い違うところがあったりと、どちらが正しいとも確証がもてず、両論の違いは古今、さまざまな歴史学者の研究対象になってきました。
現在もなお、多くの謎が残り、そして今後、新たな証拠が見つかる望みもない、暗殺現場。
死者のみがすべてを知っています。


________________________________________________________


夜10時ごろ。

近江屋に、トントンと戸をたたく音がします。
2階の八畳間で内職の楊枝削りをしていた藤吉は、ハテこんな時間に誰だろうと1階に降りると、そこには、3人の武士がたたずんでいました。

「自分は松代藩の者だが、坂本先生に火急の用でお目にかかりたい」
(十津川郷士説も有力です)
そう言い、手札を差し出します。

藤吉は特に不審もなく「少々お待ち下さい」と、2階に上がり龍馬に取りつごうとします。


ここで藤吉が、少しでも不審を感じ
「坂本先生はあいにく不在ですが、どういった用向きでしょうか?」
と相手の素性を正すような行為に出ていれば、或いは最悪の事態は防げたかも知れません。

そのあたりが、龍馬が人柄を気に入った藤吉らしいと言えばそれまでですが…
龍馬同様、彼も大らかな性格の反面、危機管理能力に劣っていたと言うより他はありません。

龍馬も、藤吉でなく、ネズミのように周囲に警戒心をめぐらすような人間を用心棒に雇えば良かったのに。
刀も嫌い、土佐藩邸に移ることも嫌った龍馬らしいですが、その性格が命取りになっとことは否めません。




2階に上がって、龍馬に取りつごうとした藤吉。
しかし、それすらも、暗殺者は許しませんでした。

音も立てず藤吉の後ろにそっと忍び寄っていた暗殺者は、彼が2階に上がったと同時に、背後から一刀のもとに斬り伏せられます。

バタン!
うめき声とほぼ同時に、藤吉の巨体が床に倒れます。


「ほたえな!」


土佐の方言で「騒ぐな」という意味です。
龍馬は、どうせ藤吉が誰かと相撲でも取ってふざけているのだと思ったのでしょう。


おそらく、以前にも藤吉がふざけてドスンドスンといわせていたことが何度もあったのだと思います。
龍馬は「いつものおふざけだろう」と、気にも留めていなかったのでしょうが…
しかし、常に最悪の事態を想定して行動するのが、危機管理能力の鉄則。
ドスンという音が聞こえるたびに、彼は万が一にそなえ、刀を手元に引いておくべきでした。
全くの無防備であったことが、龍馬の運命を決定づけてしまいます。



近江屋の2階見取り図


寸刻ののち、龍馬らがいる奥八畳間のふすまが開かれます。

「坂本先生、お久しぶりです」


ハテどなただったかと龍馬が少しクビをかしげたその瞬間。


刺客の一閃、龍馬の前額を横に払う。
血が吹き出す。

同時に、もうひとりの刺客が「こなくそっ!」と叫び中岡の後頭部を斬りつける。

龍馬が床の間に置いてある刀を取ろうとしたとき、二太刀目を右肩から左の背骨にかけて受ける。
三太刀目は鞘(さや)のままで受けたが、刺客の刀が龍馬の鞘を削り、刀身を削りながらもギリギリと眉間を深く刻まれ、ついには脳漿(のうしょう)が吹きだす。
それでも龍馬は「石川(中岡の偽名)、刀はないか、刀はないか」と刀を求める。

中岡はそれどころでなく、屏風のうしろに置いた刀を取る間もなく、わずかに手持ちの短刀で応戦したが、全身を十一ヶ所も斬り刻まれ、意識を失う。
なおもしつように中岡を狙う刺客。腰を二度斬りつけられ、中岡が痛みで意識を取り戻したときに、刺客の
「もうよい、もうよい」
という声が聞こえ、彼らは立ち去ったそうです。




近江屋その後




一瞬の出来事。


龍馬もやがてなんとか意識を取り戻し、中岡に「石川、手はきくか」と尋ねます。
中岡が「きく」と答えると、龍馬はとなりの六畳間によろよろと歩いてゆき、階段の上から近江屋の主人(井口新助)を呼ぼうとしたが、意識がもうろうとしてきたのでしょう。
「おれは脳をやられた。もう何も見えん」
そう言ってばたりと倒れ意識を失い…そのまま、帰らぬ人となります。

中岡は、這いずりながら裏の物干し台に出て、近江屋の人間を呼んでみたが返事がない。
屋根沿いにとなりの井筒屋という道具屋の屋根に行き、救いを求めたが、やはり返事がない。
引き返そうとして、そのまま動けなくなります。



命からがら逃げのびた近江屋の主人、井口新助の急報により土佐藩邸から有志が駆けつけた時には、すでに暗殺者は影も形も見当たりませんでした…

彼らが見たのは、すでに絶命した龍馬と、瀕死の中岡慎太郎のみだったのです。





(主な参考資料)
坂本龍馬のすべて(平尾道雄編)
龍馬のすべて(平尾道雄著)
[図解]坂本龍馬の行動学



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