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続・龍馬伝 (30)東京遷都


龍馬伝第4部タイトル(雲の



遷都。
国の首都を移すこと。
その決定は国家の未来を左右する極めて重大な意味を持ちつつも、将来に対する深い洞察力を持っていなければ遷都そのものが失敗に終わる大きなリスクを持ち得る、国家政策の「諸刃の剣」。
過去の日本においても、遷都が有効に機能した例は数えるほどしかありません。

現在でも、東日本大震災を契機に首都機能の一部移転が議論されていますが、その決定のあまりの責任の重さから、誰も明確なビジョンを打ち出せない現状があります。


明治以降の日本の原型を作った大英断、東京遷都。
戊辰戦争という有事の最中に、生まれたばかりの明治新政府は、この離れ業を成し遂げるのです。



せんとくんのセリフ2


※以前に「せんとくん」が登場したことも忘れてしまった人は、前の記事「続・龍馬伝(9)大坂行幸」からお読み下さい。



________________________________________________________


【第30回】東京遷都



目先に一喜一憂せず、10年後、20年後の未来を見据えることのできる長期的な戦略眼。
ひとつの物事に固執せず、あらゆる物事を横断的に眺めることのできる視野の広さ。
地元の地域だけでなく、あらゆる地域・あらゆる分野の人間に顔が利く人脈の広さ。
あらゆる反対を跳ねのけて政策を断行できる不動の信念。
かつ、私利私欲でなく、国家のために身を捧げることのできる清廉潔白な精神。



いつの時代でも要求される、指導者としての資質。
多少大げさに言えば、その完全なる資質を彼は持っていました。


建白書の大久保利通


日本人としては極めて珍しい、リーダー的資質をもつ数少ない人間のひとりです。
当然、新政府内においても彼に比類する能力のある人間は現れず、明治11年に暗殺されるまで、近代日本の基礎は、ほとんど大久保の手によって成し遂げられてゆくことになります。



後に獅子奮迅の働きをする大久保利通。
この時期は、まだ政府内での意見役のひとりに過ぎませんでした。



しかし彼には、信念があった。

「この日本を、欧米と肩を並べる近代国家に成長させる」

彼の全身を貫くその決意は、並の人間には真似のできないものであり、薩長新政府が対幕府戦に神経を注いでいる頃、彼は軍事の一切を西郷に任せ、ひとり孤独に、統一新国家の青写真を練ってゆきます。




日本が近代国家に脱皮する絶対条件として彼が掲げたのが、

「天皇の皇帝化」

以前にも書きましたが、急速な近代化には国民誰もが従わざるをえない強力なリーダーシップが必要で、彼はその役割を、天皇に求めたのです。
そのためには、伝統という名のカビが1000年のあいだに染み付いた京でなく、新天地に天皇を移し、改革断行の信念を国内外に示さねばならない。
大久保の決意は固く、大坂行幸を成功させたあとも、彼は遷都の可能性を常に探りつづけていました。
そんな彼の元に、西郷から、思わぬ知らせが届きます。
江戸城無血開城の成功でした。




幕藩体制という巧妙な地方分権型システムにより日本全土をコントロールしてきた幕府の中枢。
260年の統治実績の歴史は重く、大久保が目指そうとしている日本の中央集権統治のヒントが、そこに眠っていることは間違いのないことのように思えた。
その行政拠点・江戸城が消失を逃れ、そっくりそのまま新政府のものになったのです。

大坂にこだわることはない。
いっそのこと、旧幕府の中心地であった江戸はどうか。


大久保は、江戸への遷都を模索し始めます。




求めるものは、与えられる。
そういう人物の元には、知恵は自然と集まってくるもの。
彼の思案を大きく前進させた人物がいました。

旧幕臣、前島密(まえじま・ひそか)。
のちに日本の郵便制度を設立したことでその名を後世に残す人物です。

彼は、「江戸遷都論」と題した手紙を、この頃、大久保に差し出していました。
江戸と大坂を比較したその分析結果は、大久保の考える江戸遷都を、誰もが納得する理論として後押しし、絵空事であった遷都論を現実的なものにしてゆきます。



江戸遷都論を読む大久保




一方、西郷は、盟友・大久保の構想を実現させるべく、軍事面で着実に成果を上げてゆきます。
無血開城の2ヶ月後には、江戸の野良犬であった彰義隊を壊滅させます。

治安面での江戸遷都の大きな障害がなくなり、江戸の都市機能を取り戻した新政府。
遷都に向けて、大久保が行動を開始します。
彼は、将来の遷都を実現させるべく、つぎつぎと布石を打ってゆくのです。
同士である岩倉具視を通じて、新政府太政官に以下のことを認めさせます。


1.江戸を東の都、つまり「東京」と改称する。
2.東京に天皇が行幸、つまり「東幸」を将来行う。



日本国の君主たる天皇は、西も東も別け隔てなく統治する存在でなければならない。
そのために、東日本を治める便宜的な都として「東京」を定めることにする。
陛下のご威光を東にも知ろしめるために、「東幸」を行う必要がある。
むろん、京は引きつづき都でありつづける。


反発できない見事な正論をもって、彼は以上のことを認めさせます。
天皇の威光を盾にとって演説する大久保に、口うるさい公家衆も黙らざるを得ませんでした。
彼は、「遷都」という言葉を一言も使わずに、しかし確実に、新政府の方針を巧妙に東京遷都へと向かわせてゆくのです。




東幸への準備を着々と進めてゆく大久保。
現在の価値で160億円にものぼる経費は金欠病の新政府から望むべくもなく、かつて大坂行幸で世話になった関西の豪商に東幸の意義を説いて回り、資金を集めてゆきます。
…あとは、日取りさえ決まれば。

しかしこの頃、東幸が東京遷都につながる布石であると嗅ぎつけた保守派公家層が、彼の東幸案を潰そうと暗躍していました。
在位中の天皇が関東に赴くことは、有史以来なかったこと。
過激な彼の改革思想は、京に千年のあいだ棲みついた寄生虫たちにはとうてい理解できるものでなく、言論で破れはしたものの、今度は京の人々に東幸が遷都につながるとの風評をばら撒き、御所内外の空気を東幸阻止の風潮で固めてしまいます。
圧倒的な反対意見に呑まれ、日取りを決められない太政官。
問題を先延ばしにさせ、やがてうやむやにしてしまおうというウジ虫どもの最後の抵抗でした。




明治元年9月8日。
この日、元号が明治と改められます。
奥州制圧をほぼ確実なものとした新政府が、自分たちこそが日本唯一の正当なる統一国家であることを国内外に示した日ともなりました。
その5日後、京の太政官首脳会議に乗り込んだ大久保は、政府の優柔不断な態度を一喝。公家衆に引きずられ「会議は踊る」となっていたのがウソのように、大久保の気迫の喝によって東幸の日程が決定されます。
出発は、わずか1週間後のことでした。




明治天皇の江戸城入場


明治元年10月13日。
明治天皇、江戸城に入場。
この時から、江戸城は「皇居」として、名を「東京城」と改められます。
榎本武揚の率いる旧幕府混成艦隊が、最後の抵抗を試みるべく蝦夷地に上陸する1週間前のできごとでした。



年が変わり、明治2年3月25日。
蝦夷の冬が明け、機は熟します。
榎本軍の一部艦艇が蝦夷から密かに南に下り、宮古湾(現・岩手県)に停泊している新政府艦隊に先制奇襲攻撃を仕掛けたのです。新政府のものとなった軍艦「甲鉄」の奪取を目論んだものでした。
「宮古湾海戦」と呼ばれるこの海上肉弾戦によって、箱館戦争の本戦は華々しく幕を開けることになります。




その3日後、東京。
北の戦況には目もくれず、大久保は次の手を打っていました。

単なる行幸である「東幸」を「遷都」にすり替えらせる秘策。
それは、一度目の東幸成功で気を許した太政官の人間を、今度は東幸そのものに同行させるのだ。
そして、彼らをそこに居座らせる―つまり、東幸から京に帰ってこれない状況を作り出せば、それはもはや遷都したのと同じことになるのではないか。


名より実をとる、大久保らしいユニークなアイディアでした。
その考えのもと、2度目の東幸が行われ、天皇が太政官を伴って再び東京に着いたのがこの日でした。



大久保の読みは当たります。
これ以降、天皇は皇居である東京城で、そして太政官はその周辺で政務を執り行い、以後、天皇が東幸の帰り道を下ることはなかったのです。


「遷都」という言葉を一度も使うことなく、遷都を実現した大久保利通。
この絶妙な政治感覚により、明治日本は首都・東京を中心として、急激な近代化を遂げることになります。
戊辰戦争のクライマックスとなる、箱館戦争が行われる最中のことでした。



________________________________________________________


戊辰戦争終結後。
明治維新が成り、政治の中核を担うことになった大久保は、それ以降、天与の政治手腕を存分に発揮してゆきます。
「明治最初の10年は乱」と大久保が予見した通り、版籍奉還、廃藩置県、国民皆兵…と、権力を一手に握り独裁政治を断行してゆく彼に対し、国民の不満は増大、大久保の専制政治は、その余りも急激な変化についてゆけない多くの人々の反感を買うことになります。


上からは 明治だなどと いうけれど
  治める明(めい)と 下からは読む



東京でこのような狂歌が流行るほど、一般庶民は、大久保の進める近代化政策を好んで受け入れようとはしなかったのです。
その社会の不満はやがて士族の反乱へとつながり、その最大にして最後の反乱である「西南戦争」の終結をもって、明治10年間の乱は終結を迎えることになります。
特に、明治7年から10年の間に起こった旧士族による一連の反乱は「第2の戊辰戦争」とも言うべき西南を舞台にした大規模な内乱なのですが、『続・龍馬伝』でそこまで取り上げる余裕はありませんので、割愛させていただきます。




(主な参考資料)
その時歴史が動いた「幕末ニッポン・幻の遷都計画」~江戸か大坂か?大久保利通の大改革~(2003年)
箱館戦争―北の大地に散ったサムライたち



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続きをいつも楽しみにしています

2011/10/24(Mon)02:56

『続・龍馬伝』いつも楽しみにしています。どこで終結の予定なのでしょう。
毎回とてもわかりやすいです。TV-Rockerさんのブログで「西南戦争」もいつか読みたいものです。

名前:resp (URL) 編集

Re: 続きをいつも楽しみにしています

2011/10/25(Tue)00:19

いつも見て下さっていたんですね。ありがとうございます。
(連載はじめてからだいぶ経つので、もうほとんど誰も見ていないのではないかと思っていました汗)

一応、箱館戦争の終わりをもって終結にしたいと思っています。
そのあとも歴史は滔々と流れる大河のように続いてゆくのですが、キリがないので。


いつか、西南戦争にも取り組んでみたいですね。

名前:TV-Rocker (URL) 編集

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