< 2017年09月 |  12345678910111213141516171819202122232425262728293031 | 2017年11月 >
ホーム  > スポンサー広告 > 続・龍馬伝 (29)会津落城 > 続・龍馬伝 > 続・龍馬伝 (29)会津落城

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

続・龍馬伝 (29)会津落城


龍馬伝第4部タイトル(雲の




明治元年9月22日。
会津藩が降伏し、鶴ヶ城が落城した日。
1ヶ月にも渡る籠城戦の末のことでした。
この間、1日に2700発もの砲弾を浴び、鶴ヶ城は文字通りの「蜂の巣」となっていた。

天下無双の堅城と謳われた鶴ヶ城の末路です。




蜂の巣となった鶴ヶ城
(『テレビ朝日新春スペシャルドラマ「白虎隊」』より)


降伏ののち、会津の人間は僻地に追いやられ、塗炭の苦しみを受けることになりますが、新政府軍をそこまで苦しめた「会津魂」は我々の胸に今も深く刻み込まれています。

今回は、その誇り高き会津の最期の物語です。



【第29回】会津落城



8月23日。
猛烈な勢いで滝沢峠を突破した新政府軍は、鶴ヶ城の城下のすぐそばまで押し寄せていました。
滝沢本陣にいた容保は身を危険を感じ、すでに鶴ヶ城に退却していたのです。


けたたましく鳴り響く、敵来襲を告げる半鐘。
耳をつんざくような銃声の嵐。
町民たちは、家財道具を手に逃げまどい、老人たちは、槍を手に城に馳せ参じる。
城下は、混乱の極みにありました。


そして…
雪崩を打って城下に侵入する薩土軍。
会津に対する憎悪の塊となった彼らに、情けというものはありませんでした。
戦闘による恐怖は精神をむしばみ、すでに人の心を失った兵士たちは、老人、子供、女性であれ、人の形をしたものには無差別に乱射をし、あるものは強奪、あるものは強姦、罵倒、と、ありとあらゆる残虐行為を行います。
阿鼻叫喚となった会津城下。

逃げ送れたため、城に入れなかった者。
城に入ることを拒否し、自らの死に場所を定めた者。

あるものは、狂気と化した薩土の軍勢と戦い八つ裂きにされ、ある者は、自刃して果てる。
西郷頼母の妻子はじめ、武家の妻子は次々と自刃し、それらの血が屋敷からしたたり落ちていました。
地獄絵図。
…そして、城下に火がつき、死霊たちの怨念とともに、会津城下は焼け尽くされてゆくのです。


焼け野原となった会津城下
(『テレビ朝日新春スペシャルドラマ「白虎隊」』より)


会津史上、もっとも凄惨な歴史として刻まれる、戊辰の籠城戦。
その幕開けは、血の海と化した城下町から始まったのでした。


________________________________________________________

8月26日。
江戸湾を出航した榎本艦隊が、仙台港に入港していました。
途中で強烈な暴風雨にさらされた結果、もともと体力のなかった美賀保・咸臨の2艦は行方不明。
品川沖を悠々と出たはずの8匹の黒きけものは、大自然の洗礼を受け、6匹の傷だらけの姿となって奥羽列藩の前に姿を表すことになったのです。

榎本は、仙台城に登城。
列藩同盟の今後を占う、円卓会議が開かれるのです。


榎本らが主張したのは、あくまでも徹底抗戦でした。
それに、江戸から艦隊に乗ってきた旧幕臣の永井尚志、フランス軍事顧問ブリュネが賛同。
会津城外で転戦を重ねてきた土方歳三も抗戦の決意を固めていました。
一方、仙台藩は藩論がまっぷたつに分かれ、収集がつかない。
主戦派と恭順派の間で、激論が交わされますが…

仙台藩藩主・伊達慶邦は、恭順を決意。
会津を切り捨て、自藩を守る道を選択したのです。




―地に堕ちた武士道。
盟主の仙台が脱落したことにより奥羽越列藩同盟は完全に瓦解。
これ以降、会津は、新政府軍を相手に孤立無援の籠城戦を強いられることになるのです。





全国の敵を一心に受けて、絶望的な籠城戦を続ける会津。
圧倒的な兵力差の前に会津は為す術もなく、散発的な反撃はすべて跳ね返され、半月後の9月中旬には、外部との連絡路を完全に絶たれてしまいます。
外にはアリの這い出る隙間もないほど、3万の敵兵が充満していました。

城の四方からは50門以上の大砲が設置され、毎分ごとに敵弾が城に襲いかかる。
城内ではいたるところで着弾した爆弾が破裂し、死人の収容すら満足に行えない状態でした。
生きた心地もしない地獄のような城内で、会津の人々は、それでも必死に籠城戦を耐え抜いていたのです。



会津の命は、風前の灯でした。
援軍が望めない籠城戦の行く末は、全滅しかありません。
これ以上籠城が長引けば、容保公の命すら危うくなる。

ギリギリのところで、会津は初めて白旗を揚げるのです。




会津の降伏


9月22日。
会津藩、降伏。
いつの間にか年号は「明治」と変わっていました。

降伏の調印式を務めたのは板垣でも伊地知でもなく、西郷の懐刀である中村半次郎でした。
会津の戦争そのものが、新政府樹立後の主導権獲得に向けた西郷の政争の道具に使われたことがよく象徴されたような、そんな調印式となりました。


松平容保の胸の内は、いかばかりであったか。
彼はその生涯、この日のことを人に語ったことはなかったといいます。

…会津はこの後、青森県の下北半島に移住させられます。
不毛、極寒の流刑地で、生き残った人々は辛酸をなめ、それでも胸に不滅の会津魂を秘めながら、たくましく生きてゆくことになるのです。




会津の降伏とほぼ同時期に、東北各地の他の戦線も次々と終息してゆきます。
同じく誇りを捨てず最後まで戦っていた列藩同盟の生き残り、庄内藩は、米沢から侵入された黒田清隆の軍勢の攻勢に遭い、孤軍奮闘の中、9月27日、白旗を揚げます。
最後まで自領に新政府軍を入れなかったその戦いぶりは周囲を驚嘆させ、三河武士の末裔の誇りの高さ、団結力の強さを見せつけての降伏でした。

その数日前には、義を掲げ会津・庄内と志を同じく奮闘していた南部盛岡藩も降伏、会津平定とほぼ時を同じくして、新政府は東北全土を平定することに成功するのです。






ついに、最大の敵・会津藩を屈服させた新政府軍。
これにより日本のほぼすべての地は新政府軍のものとなり、欧米列強も、明治政府を日本唯一の正当な政府であると認めます。
戊辰戦争は、終結したかに思えました。

―明治。
新しい時代に向けて、動き出す。
それに抗うのは、正義か、愚行か。
北の大地で、この国は戊辰最期の反乱を迎えることになるのです。








(主な参考資料)
箱館戦争―北の大地に散ったサムライたち
会津落城―戊辰戦争最大の悲劇 (中公新書)
戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書 (455))
戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える (中公新書)
奥羽越列藩同盟 (中公新書)
幕末史(半藤一利著)
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)



ブログ記事一覧へ>>



ワンクリックの応援お願いします

関連記事

コメントの投稿

コメントの投稿
装飾
非公開コメント


トラックバック

トラックバックURL


▲page top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。