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続・龍馬伝 (26)長岡陥落


龍馬伝第4部タイトル(雲の



新政府軍と死闘を繰り広げる、長岡藩。
長岡城を奪い返したものの、総司令官である河井継之助が負傷したことで、もはや大規模な作戦が行えなくなってしまいます。
しかし彼らの防戦の結束は固く、仮に長岡城が再度奪われたとしても再々度奪い返すような、そういった気概に溢れていました。
その不屈の精神は、新政府軍に戦略の変更を余儀なくさせます。

死力を尽くした北越戦争も、最終局面に入っていました。



【第26回】長岡陥落



時はさかのぼり、安政5年。
戊辰戦争の10年前。

当時の大老・井伊直弼が、アメリカ駐日領事のタウンゼント・ハリスとひとつの条約を交わします。

日米修好通商条約

日本が本格的に開国する決定打となったこの条約では、貿易の拠点として、次の5つの港の開港を約束していました。
横浜、長崎、兵庫、箱館、そして新潟です。
アメリカが指定したこの5港は、当時の日本において、立地条件だけでなく、港として充分に整備された場所であり、すぐにでも貿易を始められる通商の拠点でもありました。
このうち、もっとも準備が遅れたのが新潟港で、開港されないまま戊辰戦争が始まってしまったため、新潟港は欧米列強の干渉もなく、奥羽越列藩同盟が自由に使える極めて貴重な存在となっていました。



奥羽越にとって、唯一の海外への窓口である新潟港。
この港を列藩同盟が握っていることは、戦闘を継続する上で大きなアドバンテージでした。
長岡藩、会津藩はじめ各藩はこの港にイタリアなどの外国船を呼びこみ、武器弾薬の補給を行っていたのです。
港にはスネル兄弟が常駐し、外国船と諸藩との取引を仲介していました。
「新潟港」は、列藩同盟軍にとって「武器弾薬の生命線」であったのです。


この地を薩長に奪われたら、我らが息の根を絶たれたも同然である―
海軍力をもたない列藩同盟は未だに品川沖から動こうとしない榎本武揚を出動させるべく、ストーン・ウォール号問題の解決のため、新潟から敵のまっただ中に向かいます。
行先は、横浜にあるアメリカ公使館。
代表団の手には、列藩同盟を代表して、松平容保による親書が握られていました。


貴国の南北戦争を考えるに、南部の人々が牛や豚を扱うように人間を奴隷として扱う姿は見るに忍びず、その非道に対し立ち上がった北部の人々の勇気に心からの敬意を表します。
今、日本で起こっている内戦もその本質は貴国の南北戦争と同じであり、一方的に戦争を起こし徳川の人々を虫けらのように殺戮する南からの暴力に対し、我ら北側の人間は屈することなく断固戦い抜くことを誓うものであります。
正義は、貴国と同様、北部政権にあるのです。
ストーン・ウォール号の残り10万ドルは、北部の我々が責任をもって準備致します。
以上のことをお含みいただき、ストーン・ウォール号の適切な引渡しをアメリカ政府に強く期待します。



梶原平馬あたりの入れ知恵でしょうが、南北戦争と今の内戦を結びつけ、少しムリがあるものの、戦争終結直後のアメリカの正義感に情で訴える内容になっています。
しかし、代表団の必死の説得にも関わらず、アメリカ側はあくまで「局外中立の遵守」を盾にストーン・ウォール号の引渡しを拒み、彼らの苦労は報われませんでした。

その後、品川沖に停泊している榎本武揚と会談し、一日も早く艦隊を率い、新潟港の防衛に当たってほしいと訴えますが、榎本に「慶喜公を含め、徳川家臣団が無事に駿府に移るのを見届けるまで待ってほしい」とすげなく断られます。

失意の代表団。
彼らが新潟に帰る頃には、すでに港の支配者は入れ替わっていたのです。





新潟港奇襲



新政府の北越攻略部隊。
参謀のひとりは、何度か登場している、長州藩奇兵隊の隊長でもある、山県有朋。
明治以降も軍事・政治方面で活躍し、明治日本を代表するひとりになっています。
そしてもうひとり。
こちらも、のちの明治政府の重鎮として名を残しました。

黒田清隆

山県が長州人であるのに対して、黒田は薩摩出身。
ちなみに、この当時から戦略方針などを巡ってこのふたりは対立が絶えず、明治以降も、政治の場でその対立は続くことになります。
ある意味、薩長の対立を代表したようなところもあります。
それと、ふたりともクセのある人物で、間違っても聖人君主の類ではありません。

…余談はそこまでにしましょう。
西郷の意を受け、戦争による損失を最小限に抑えたい黒田は、新潟港の奇襲攻撃を立案、自ら部隊を率いて、柏崎の本陣から新潟に強襲します。
河井継之助の戦術の巧みさを目の当たりにし、正攻法での長岡藩攻略を事実上断念したのです。


当時、新潟港を守っていたのは新発田(しばた)藩でした。
が、海上からの突然の侵入者に怖気づき、即座に降伏。
奥羽越の生命維持線の拠点であった新潟港は、こうして、いともあっけなく新政府軍の手に渡ることになったのです。



7月29日。
新潟港が、新政府の手に渡ります。
補給線が途絶えたことは、人体でいうと血流が止まったことに等しい。
奥羽越列藩同盟にとって、もっとも恐れていたことが起きてしまったのです。
それは同時に、列藩同盟の瓦解を意味していました。

仙台藩に次ぐ大藩であるはずの米沢藩に動揺が走り、長岡からの完全撤兵を決断します。
それを見た周辺諸藩も兵を自領に引き上げ、長岡藩は完全に孤立。
同日、長岡城も再度奪われ、孤立無援の河井継之助は死を覚悟し越後での徹底抗戦を主張しますが、部下の説得により、泣く泣く故郷を後にします。



向かうは、会津。
「八十里越え」と言われる厳しい山道を抜けねば、会津には辿り着けません。
その敗走路の途中、失意のうちに、河井継之助は、傷の悪化により43才の生涯を閉じます。


八十里 こしぬけ武士の 越す峠


遠い夢。越後の地で抱いた夢。
長岡を、越後の大地を、独立させる。
誰にも邪魔されない、自分たちの自立した地域。
国家でなくとも良い。中央政府が認めてくれるなら、毎年税金を払っても良い。
自分たちが越後の地を治める。
誰よりも越後のことを知っている自分たちだからこそ、誰よりも越後を繁栄させてみせる。
誰よりも越後の人々を幸せにしてみせる。
遠い夢。今となっては、見果てぬ夢。



「こしぬけ」すなわち、「腰抜け」は、越後の地をも守れず、「越抜け」つまり越後を抜けて(=逃げて)きた。
そういった自嘲を込め、一首の句を残し、彼は失意の最期を遂げました。
この戦争の行く末を暗示する句でもあるように僕には思えてなりません。



会津は、まだ落ちない。

________________________________________________________

この約1ヶ月前から、長岡よりさらに北部の庄内藩周辺では、別の戦闘が開始されていました。


秋田戦争


7月初旬。
会津と並び称される佐幕雄藩・庄内藩は、早々に列藩同盟を離脱した裏切り者である久保田藩(秋田藩)に対し、討伐軍を差し向けます。
庄内藩の藩祖・酒井忠勝は、徳川家康と縁戚関係にあり、徳川四天王に数えられた酒井忠次の孫にあたります。
その藩風は佐幕一色。
三河武士の美徳をそのまま引き継ぐような気品を維持し、会津の日新館のように幼い頃から武士の心得を叩き込み、長岡の河井継之助のように私財をなげうって藩のために尽くす人間に恵まれていたため、戊辰戦争期には最新鋭の銃を装備し、薩長に引けを取らない軍事力を誇っていました。

長岡藩が敗れたこの頃、庄内藩は周囲の藩が次々に降伏する孤立無援の中、それでも一進一退の攻防を繰り広げていたのです。


…しかし、こういった藩は同盟軍の中では皆無に等しく、ほとんどの同盟諸藩は、長岡藩の敗退を目にして、態度を変え始めます。
列藩同盟が敗れた後で過酷な処分が下されるのを恐れて、我が身の保身のため、新政府にすり寄る動きを見せはじめるのです。



ゲームは、すでに始まっていました。
ドミノ倒しゲーム。
ひとつのドミノが次のドミノを倒し、連鎖反応的に次々とドミノを倒してゆく。
新発田藩が裏切り、米沢藩が同調の動きをみせる。
その動きは会津周辺にも広がり、三春藩、相馬藩…と立て続けに裏切りを生んでゆきます。
仙台藩すらも降伏派が台頭し、藩が2分されかねない状況でした。
その中、会津と庄内、それに二本松藩だけは、最後まで決死の抵抗を試みるのです。




会津は、まだ落ちない。




(主な参考資料)
戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書 (455))
戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える (中公新書)
奥羽越列藩同盟 (中公新書)
幕末史(半藤一利著)
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)



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