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続・龍馬伝 (27)母成峠の戦い


龍馬伝第4部タイトル(雲の



戊辰戦争―
一般的には、新しい時代を切り拓くため強固なタッグを組んだ薩摩・長州の一心同体のごとき連携プレーの前に、バラバラで結束力を欠いた旧幕府軍が敗れ去った戦い、とみなされています。
たしかに表面的にはその通りで、薩長の不一致により敗北した例は戦史を通して見当たりません。

ただ、それはあくまで表面上だけのこと。
薩長は、新しき時代の覇権を巡り、水面下で激しいぶつかり合いをしていた。


「戊辰戦争」は、別の見方をすれば旧幕府軍をエサとした薩摩と長州の覇権争いの場であり、それは、連携を保っているはずの薩長軍に、影のように常に付きまとっていたのです。
そして、その「影の部分」がもっとも露骨に現れたのが、この会津戦争でした。



それまで、各方面の鎮撫使には、薩摩と長州がそれぞれ参謀をひとりずつ出すというのが暗黙の了解となっていました。
薩長同士のいがみ合い、亀裂の深まりを恐れてのことです。
しかし、佐幕派の巨魁ともいうべき会津藩と松平容保は、最大の難敵であると同時に格好の獲物。
この獲物を仕留めるものが、新時代の指導者となる資格を持つ。
そう考えた西郷は、謀略をめぐらせます。
会津に対する長州の私怨が強すぎるという理由で、奥羽線線だけ例外的に、長州派の参謀を体よく外したのです。
会津攻略の手柄を薩摩が独り占めして、明治政権樹立後の主導権を薩摩が握る算段でした。


一方の長州は、それならばと北越に奇兵隊精鋭部隊を派遣します。
参謀として選んだのが、高杉晋作亡き後、今や実質的な奇兵隊総司令官となった、山県有朋。
北越を早急に落とし、新潟から阿賀野川沿いに会津に侵攻、西郷の裏をかき、会津攻略の一番槍をつける作戦でした。


会津侵攻レース。
結果的には、薩摩がデッド・ヒートを制します。



会津侵攻レース



長岡藩の、つまりは河井継之助の予想以上の反抗によって、北越戦線で思わぬ足止めをくらったことが、長州のレース敗因となりました。
それと、参謀の違い。
北越で黒田と山県があれこれ激論を交わしているあいだに、奥羽の伊地知と板垣はまず行動ありきの原則を貫き、次々と戦局を動かしていったのです。
土佐の板垣退助が、自藩の存在感を見せるため奮起したことも影響しました。


薩摩、長州、土佐、そして肥前…
それぞれの藩の思惑を複雑に絡めながら、会津戦線は進んでゆくことになります。




【第27回】母成峠の戦い



天然の要害に囲まれた、会津。
会津盆地の周りには山々が囲み、外からの侵攻を阻む砦として立ちはだかっていました。
おのずと、攻略ルートも限られてきます。

当時、江戸から会津に到達する道は、大きく分けて3つのルートがありました。


会津に至る3ルート


1.二本松街道ルート
白河から奥州街道をさらに下り、本宮から西に折れ二本松街道に入り、中山峠や母成峠を抜け、猪苗代湖を左手に見ながら会津に至るルート。

2.白河街道ルート
白河から北々西の勢至堂峠を抜け、猪苗代湖の南岸から西岸へ抜けるルート。
距離的には最短のルートで、会津に至るメインルートです。

3.会津西街道ルート
白河を通らず、宇都宮から日光へ入り、北へと進んでゆき会津に南から入るルート。
通称「南山通り」と言われています。



旧幕府軍のエリート集団・伝習隊を率いる大鳥圭介らが守る南山通りは、苦戦が予想されることから早々に却下され、残り2ルートで意見が割れます。
最短の白河街道ルートを主張する板垣に対し、伊地知は、最短ルートは敵側も予測するので却下とし、二本松藩や仙台藩などの邪魔な勢力を排除しつつ、母成峠を通って会津に至る二本松街道ルートを主張します。
結果的には、より発言力の強い伊地知の案が通ることになります。


この頃、日本列島に、台風が接近していました。
雨の戦争。
北越の戦線を雨で覆い尽くした気候は、会津にも、さらなる雨をもたらそうとしてました。
間断なく降り注ぐ雨のため視界不良となった光景は、会津の戦争の行方を暗示しているかのようでした。




二本松・母成峠・十六橋の戦い



(二本松の戦い)


7月25日、進軍。
この時、新政府軍と真っ先に戦うはめになるであろう三春藩は、すでに寝返りを決めていました。
そうとは知らず、出兵する二本松藩の兵士たち。
その背後から突如、味方であるはずの三春藩が発砲、同士討ちを成功させた新政府軍は、悠々と進軍してゆきます。


風前の灯火の二本松城。
ほとんどの兵が城を出て、しかもその兵が三春藩の裏切りにより壊滅した今、城を守る手立ては残されていませんでした。
城に残ったのは、女性と、少年兵のみ。
それでもこの藩は、義を貫き通します。
二本松の武士は幼い頃から毎朝の食膳で、切腹の作法を箸で教え込まれてきました。
「武士の子とマムシの子には手を出すな」と付近の領民からも恐れられたほど、彼らは、藩のために戦って死ぬことを至上として叩き込まれていたのです。
二本松の少年たちはこの時こそが自分たちの死に場所と、自分の背丈ほどもあるゲーペル銃を手に、城を出て新政府軍に戦い、そして死んでいったのです。


7月29日正午。
二本松城、落城。
城に残る家臣団が自刃し、自ら本丸に火をかけ、玉砕したのです。
皮肉にも、北越では新潟港と長岡城が落ち、長岡藩の陥落が決定した日でもありました。




(母成峠の戦い)


母成峠。
標高972メートル。
会津藩が「天与の要塞」として、砲台を築いていましたが、その分、奢りがありました。
まさかこの難所から攻めてくることはないとタカをくくり、主力は他の主要街道を守らせ、ここ母成峠にはわずか200の兵員しか配置されていませんでした。
この弱点を、伊地知・板垣ら歴戦の覇者が、見逃すはずはありません。

教科書通りの兵法を愚直に守ろうとする、会津の戦略。
相手の裏をかく奇策を縦横無尽に用いる、薩長の戦略。


8月21日。
日光から大鳥圭介の伝習隊がかけつけ、周囲の同盟軍をかき集めたものの、わずか800。
横幅500メートルの母成峠では、戦術も糞もありません。
主力部隊により強引に力押しをかける新政府軍に会津連合軍は虚しく敗れ、天与の要塞は、こうしてあっけなく抜かれてしまいます。




(十六橋攻防戦)


翌、8月22日。
どしゃ降りの中、怒涛のように押し寄せる薩長軍。

次の難所は、十六橋。
猪苗代湖から日橋川の付け根の、急流な川にかかる橋です。
二本松街道ルートの要所であり、この橋が崩されるようなことがあれば、侵攻軍は猪苗代湖を大きく迂回しなければ、鶴ヶ城にたどり着くことはできません。

当初、会津は母成峠か中山峠が破られた際、この橋を破壊する手はずとなっていました。
しかし、敵の侵攻はその予測を上回るものであった。
滝のような大雨をもろともせず、濁流のように侵攻する新政府軍によって、十六橋はまたたくまに敵の手に落ち、とうとう鶴ヶ城が敵方の射程圏内に入ってしまいます。


もはや、敵の侵入をさえぎる天然の盾は何もない。
森を抜けた9キロ先には、敵の主力部隊が野営をしている。



現実味を帯びてきた、鶴ヶ城での攻防戦。
松平容保は、予備部隊の投入を決断します。

白虎隊。
飯盛山が、その少年兵の純血を吸うのは、そう遠くない日のことです。


________________________________________________________

会津武士。
その基質は無骨で愚直、どこまでも真っ直ぐであること。
武士の鏡、武士の中の武士として、全国のもののふたちの畏敬の対象となっていたことは事実です。
しかしこの会津戦争ほど、会津武士の気質が裏目に出た戦いはないでしょう。

本来、戦略というのは臨機応変であるもので、たとえば当初の計画が会津全体をを国境線で防衛する「水際作戦」だったとしても、白河口が破られた段階で、戦略を見直すべきではなかったのではないか。
大鳥・土方ら主要部隊を敵が必ず通る十六橋に集結させ、敵勢力を会津の懐深くに引き入れて油断させたところで、地の利を活かして一気に殲滅するなど、大胆な戦略の変更が必要であった。
しかし、会津の律儀で融通の利かない性格は、作戦がすでに破錠しているのにも関わらず作戦の見直しを行わせず、新政府軍が十六橋に達しようとしている時でさえ主力部隊ははるか遠くの国境線を守っている始末でした。

それともうひとつ。
「武士は国を守るため戦うもの、農民は田を耕し武士を養うもの」という古い体質を引きずったままで、付近の領民を戦略に組み込もうとしなかった。
地の利を知り尽くした領民と一体になってゲリラ戦法を行えば、会津を侵攻する新政府軍はいつ・どこで・どのような攻撃があるか分からず、視界すべてが敵に囲まれているという精神的ダメージをかなり与えることができたはずです。
結果的に、領民は薩長新政府によって金品食料などで買収され、あるいは脅され、会津侵攻を手引きした一面もあるのです。




会津盆地が天然の要害と言われているのは、そのバリエーションの多さにあります。
どの街道を通って行くにせよ、それぞれ違った難所がいくつもある。
攻め手は、慣れない土地の中、周囲どこから攻められるか分からない恐怖に駆られながら、五里霧中の中、攻めることになります。
逆に守り手は、各部隊を有効に機能させ、領民一体となったゲリラ戦法を駆使して、相手を陥れてゆけばよい。
鉄壁の防御体制を作ることも、ある意味可能であったのです。
会津武士の美徳が逆に災いとなり、天然要塞はいとも簡単に攻略されてしまったのです。





そして…次々と離反する奥羽諸藩。
崩壊する列藩同盟。
北越戦線で新発田藩が裏切り、米沢藩が戦線を離脱したのと同じ現象が、ここ奥羽戦線でも起こっていました。
三春藩の裏切り。相馬藩の降伏。
そして、盟主である仙台藩も、自国の防衛のため会津から兵を引いたのです。

この頃、負け続けの仙台兵に、もはや戦意は残されていませんでした。
ここでも、兵器の違いが勝敗を決定づけていました。
火縄銃の仙台藩に対して、薩長軍は、レバー操作だけで連発発射のできるスペンサー七連発銃や銃身にライフリングが付いているミニエー銃を装備。
雨が続いたこの時期では、火縄銃は棒切れに等しく、仙台藩は一方的に打ち負かされるのみ。
無残な現実の前に、仙台藩は撤兵、やがて薩長に膝を屈することになるのです。

一度動き出したドミノゲームは、もう止まらない。






(主な参考資料)
会津落城―戊辰戦争最大の悲劇 (中公新書)
戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書 (455))
戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える (中公新書)
奥羽越列藩同盟 (中公新書)
幕末史(半藤一利著)
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)



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