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続・龍馬伝 (25)会津侵攻


龍馬伝第4部タイトル(雲の



上野にて彰義隊を壊滅させた新政府軍。
白河占領後、兵力不足がネックになりそれ以上の侵攻を控えていた新政府総督府でしたが、関東地方の平定により、その問題にも目処がつきました。
いよいよ、奥羽攻略に本格的に乗り出してゆきます。

力で刃向かうものには、力で屈服させるのみ。
北越に兵を送ると同時に、会津国境に向けても兵を動員し始めていたのです。
長岡城を巡って激戦が行われている頃、会津周辺でも、新政府軍と奥羽越同盟軍の間で、力と力が激突しようとしていました。



【第25回】会津侵攻



奥羽攻撃隊の狙いは、あくまで会津の屈服にありました。
会津の援軍となり襲ってくる奥羽諸藩の軍勢に対しては、降りかかる火の粉を払うがごとく、戦によって打ち倒してゆかねばならないが、彼らの本拠地まで攻め入る必要はない。
あくまで、会津の根城である鶴ヶ城を落としさえすれば、この戦いは終結する。

その明確な目標の元、奥羽攻略部隊は軍勢を白河方面に集結させてゆく。
軍隊の実質的な指揮官である参謀には、ひとりは白河口の戦いで勇名を馳せた伊地知正治。
…そして、上野戦争終結により兵員に余裕のできた総督府は、多くの藩兵とともに、土佐出身のこの男を最前線に投入してきます。
甲州勝沼の戦いでの実績を買われてのことです。


板垣退助


のちに言論で闘う自由民権運動の旗手となりますが、この頃は銃器での戦いを得意とする根っからの軍人でした。
土佐の藩論が武力倒幕論と大政奉還論に分かれていた頃から、一貫して武力による討幕を主義とし、その過激な思想が危険視されたことにより一時は土佐藩で閑職に追いやられていた時期もありましたが、西郷の武力革命の決行により息を吹き返し、錦旗を翻した土佐藩兵を引き連れ、この奥州の地へとやってきたのです。


薩摩の伊地知正治と、土佐の板垣退助。
生粋の軍人ふたりによる会津侵攻は妥協を許さず、この後、着実に会津の首を絞めてゆくことになります。





会津藩防衛網



会津藩では、首席家老となった梶原平馬を中心に防衛戦略が練られていました。
当初、会津としては鶴ヶ城での籠城という考え方はなく、精鋭部隊を国境方面に配置することによって、薩長連合軍の会津侵攻を国境水際で阻止しようと考えていました。

しかし、その最大の要(かなめ)である白河口がいとも簡単に敗れたことによって、その作戦は早くも破錠をきたしはじめます。
5月1日の白河での敗退により、防御網に大きな穴が空いてしまったのです。
白河は、会津の入り口であると同時に、奥羽2州への入口でもある最重要拠点。
この地を奪還すべく、奥羽列藩の同盟軍は5月末~7月はじめにかけて、計7回にも渡って攻撃を加えることになりますが、ことごとく失敗し、薩長土肥らの連合軍に会津はじめ奥羽の領土を蹂躙される結果となってしまいます。




6月1日。
新政府軍占領下の白河。
会津防衛網の傷口であるこの地に、兵力を増強し1600に達した伊地知・板垣の部隊が結集します。
彼らが考える会津攻略の拠点はあくまで白河であり、会津盆地の奥深くへと侵攻する前に、後方基地であるこの地の安全を確保することは絶対条件でした。
攻略部隊が会津に入り込んでいる間に白河が敵の手に渡った場合、攻略部隊は袋のネズミとなり、補給路を絶たれ孤立、最悪の場合全滅してしまう危険性があったからです。

事実、5月26日~28日にかけても奥羽連合軍の大規模な白河総攻撃があり、兵力の少ない新政府軍は銃器の優位性によってかろうじて死守したところでした。





平潟周辺


江戸。
総督府参謀・大村益次郎の考える奥羽戦略は、端的に言えば「枝葉を刈って根本を枯らす」
すわなち、会津という根本を枯らせる前に、仙台藩、米沢藩、長岡藩…などの枝葉(=奥羽越列藩)を先に始末すべきだというのです。
軍略家らしい考え方で、時間はかかっても確実に勝つ作戦でした。
この戦略に沿って、江戸の品川沖から軍艦3隻が出航していました。


6月16日~20日。
例の軍艦に率いられ、新政府軍の別働隊1500が平潟に上陸します。
海上戦力を持たない奥羽連合軍は海からの侵入に対しては指をくわえて見ているしかなく、悠々とやってきた薩長連合軍は平潟に入ると軍勢を2手に分けます。
一方は白河の増援部隊、もう一方は仙台藩への威嚇部隊です。

白河増援部隊は白河への途上にある棚倉城を攻撃、これを攻め落とすと、白河部隊と合流。
仙台藩への威嚇部隊は海岸沿いに北進して磐城平(いわきだいら)城を落城させ、仙台藩へと迫ります。
ここまで連戦連敗、新政府軍との武装の違いを嫌というほど見せつけられた仙台藩に、降伏の2文字がちらつきはじめることになります。



7月下旬。
白河周辺を固めた新政府軍は、いよいよ本格的に会津攻略へと乗り出します。
大村とは違い、伊地知や板垣の考えは「根本である会津を刈れば、枝葉は自然と落ちる」というものでした。
いかにも軍人らしい考えで、鶴ヶ城を自分たちが落とし戦功を立てたいという気概に満ちていました。
この方針に沿って、最初に書いたような会津への直接侵攻案が採られたのです。
主力部隊の方向性を定め、会津鶴ヶ城への侵攻を決断します。



後世にも残る、凄惨な戦の始まりでした。


________________________________________________________


当時、奥羽越列藩同盟首脳部は、ひとつの秘策を持っていました。


輪王寺宮
(りんのうじのみや)



上野戦争の舞台となった東叡山寛永寺の最高責任者を指します。
徳川の歴代将軍が眠っている寛永寺を守る立場の人間として、幕府に親しみを感じていた輪王寺宮は、江戸城無血開城後、寛永寺に駐屯する彰義隊を即座に解散せよとの薩長の申し出を断り続けていました。
上野戦争の直前にやむなく寺を抜け出し、薩長軍の目を盗む逃避行の末、彼らの手の届かないこの奥州の地へと落ち延びていたのです。


皇族出身。
しかも、明治天皇の祖父君であり、亡き孝明天皇の弟君である。




帝を擁する薩長新政府と戦う大義名分を探していた奥羽越の諸藩は、輪王寺宮を帝として擁立し、東日本政権(北方政権)を正式な形として樹立させようと試みます。
幼い帝を人質にして錦旗を振りかざす薩長らは賊軍であり、自分たちこそ正当な官軍であると宣言するのです。
諸外国もこの頃は西(南)の新政府と東(北)の奥羽越政権を同列に見、「日本には今ふたりのミカドがいる」という表現を使っていました。


「勝てば官軍、負ければ賊軍」


この時期、4年にも渡ったアメリカの南北戦争が集結、アメリカで使われなくなった大量の武器が、欧米の武器商人などを通して、内戦状態にある日本に流入していました。
アメリカの南北戦争を戦い抜いたその銃器が、太平洋を渡り、今度は日本の南北戦争に使われるようになるとは何とも皮肉な話ですが、いつの時代でも、最後は力で決着をつけるしか道はないのです。
文字通り、この戦いに勝った方が官軍を名乗り、負けた方が賊軍の汚名を着せられることになる。

…結果は、皆さんご承知の通りです。
現在まで尾を引いている、薩長を正義と見る歴史観の原点がここにあるような気がします。






(主な参考資料)
会津落城―戊辰戦争最大の悲劇 (中公新書)
戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書 (455))
戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える (中公新書)
奥羽越列藩同盟 (中公新書)
幕末史(半藤一利著)
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)



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