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続・龍馬伝 (24)長岡城奪還


龍馬伝第4部タイトル(雲の


信濃川

長野県の飛騨山脈から新潟県へ抜けるその大河は、「日本一長い川」という称号を現在も持ち続けています。
その圧倒的な水量は、古くから北越の地を潤すと同時に、様々な水害を与えてきました。

この川沿いに広がる越後平野に建てられたのが、長岡城です。
西からの脅威に対し、長岡城の西側を流れる信濃川は、いわば「長岡城の守護神」として、巨大な堀のような役割を果たしてきました。



慶応4年5月中旬。
新暦に置き換えるとれっきとした梅雨の季節であり、5月15日に上野の森を襲った大雨と同様、北越にも降雨が続いていました。
雨の戦争。戊辰戦争の別称です。
天然の外堀である信濃川は増水し、軍勢が渡るのは不可能なように思えた。


19日、朝日山に布陣していた長岡軍に、思わぬ知らせが入ります。
長岡城が、敵の手によって陥落したというのです。
まさか来ることはできないと思われていた、増水した信濃川を強行で渡河した奇襲攻撃によるものでした。
想定外の進入路から来た敵に、手薄であった城の守備兵は、為す術なく退却したというのです。



河井継之助の闘争心に、火が付きます。


城が奪われた。
しかし、それだけか。
…奪われたのは、城だけではない。長岡藩の誇りも同時に奪われたのだ。



そのように彼には思えた。


越後の誇り。長岡藩の誇り。
藩祖以来の家風として「常在戦場」を掲げてきた。
常に戦場にありという心構えをもって、長岡藩は自主独立を保ってきた。

他藩がどうあろうと、長岡は越後の大地を独立へと導く。
長岡藩を、越後を、守り抜く。
それが、この河井継之助の誇りである。



強盗によって庭先に勝手に踏み込まれ、それどころか家を物色されたようなもの。
長岡藩の藩領に武器を持ったまま土足で踏み込んだのみならず、本拠地をも奪う新政府軍の行動は、河井継之助にとっては我慢がならなかったことだったのです。

彼は、その日から長岡城奪還のプランを綿密に練り始めるのです。



【第24回】長岡城奪還



兵を長岡城の東へと撤退させていた河井継之助。
新政府側はすぐにでも来るであろう敵襲に備えて、かがり火を焚き用心をしていました。
しかし、彼は動きません。
河井は、怒りにまかせて全軍突撃を指示するような無能な指揮官ではありませんでした。
すぐにでも長岡城を取り戻したい闘争心を心の内に秘め、そして、彼なりのプランを練り上げます。


今回の長岡城失陥の原因は、想定外の方位から敵が攻め入ってきたことである。
これは、我らにとっても大きなヒントを与えてくれた。
すなわち、こちらも相手の想定外から攻め込めば良いのだ。

長岡城の天然の防御壁に、ふたつある。
ひとつは西側を流れる信濃川。今回はここを突かれた。
もうひとつは、北東にある巨大な湿地帯・八町沖(はっちょうおき)。
我らは、この湿地帯から進撃する。




八町沖からの長岡城奇襲攻撃



「八町沖」とは、長岡城の北東部に広がる大湿地帯で、付近の住民からも「魔物が住む」として恐れられていた場所でした。
河井は、この場所に目を付けると同時に、新政府軍の兵力を分散させるため、あえて長岡城には手をつけず、そのはるか北方の今町を狙います。


6月1日。
長岡藩を中心に、米沢藩、会津藩、桑名藩など。
今町よりさらに北方に集結した長岡藩ら奥羽越連合軍は、南下を開始。
翌2日、今町で激戦に勝利し、この地を占領します。

今町の敗戦を重くみた新政府軍は、付近の兵士を北越長岡方面に集中させます。
新政府軍の兵力は、3000~4000ほどに膨れ上がっていました。


長岡城奪還戦



一方の河井は、すぐには動きません。
この地で兵を休息させると同時に、補給源である新潟港からスネル兄弟を通じて武器・弾薬などを補給しつつ、来たる総攻撃に備えます。
実は彼には、長岡城を奪還すると同時に、もうひとつのプランを密かに隠し持っていたのです。


電光石火で長岡城を奪取し、敵の司令官・山県有朋を討つ。
その勢いのまま小千谷に侵攻し、さらに敵本拠地の柏崎を衝き、薩長連合軍を越後国外へ駆逐する。
強盗どもを、越後の地から追放するのだ。



劣勢を挽回するだけでなく、劣勢を優勢へと一挙にくつがえす起死回生の秘策。
長岡藩兵およそ700。長岡藩のほぼ全軍と言っていい兵力で、この作戦を決行します。




7月24日深夜。
八町沖の沼地を、粛々と進む軍勢がありました。
「魔物が住む沼」とはよく言ったもので、何も知らずに長岡城で眠りこけている薩長軍からすれば、この底なし沼から音もなく忍び寄ってくる我が長岡兵こそ、魔物に見えるに違いない。
彼らはそう目くばせをしながら、沼地を進んでいったのかも知れません。


翌未明、泥まみれになりながらも大沼を渡渉した700の兵は、予定通り、長岡城を取り囲むようにして布陣、一気に城内に突入。
河井継之助も、最戦線に立って戦います。
新潟に向けて横浜を立つ際、スネル兄弟から買いあげた当時の最新兵器がありました。


ガトリング砲
(『大河ドラマ「花神」』より)


この連射砲を自ら操り、薩長軍に多量の死傷者を生み出させますが、その最中、河井自身も銃に撃たれ、負傷してしまいます。
逆に、この総攻撃にも関わらず、普段から慎重な性格の山県有朋は、敵襲の報告が来ると同時に身ひとつで一目散に長岡城から逃走し、その首を長岡兵の前にさらす愚は犯しませんでした。



河合の戦略。
越後の地から、薩長を駆逐する。
―その作戦は、十分に実行可能なものでした。

越後平野は広大で、5月19日以降、延々と続くその大地を機動的に動きまわる河井の軍勢を補足しようとする余り、新政府軍の軍勢は南北に伸びきり、補給線をつないでかろうじて戦線を保っている状態でした。
司令官である山県を討つことにより新政府軍の命令系統を破壊した上で、烏合の衆になるであろう各地の軍勢には目もくれず、小千谷、柏崎と敵拠点をピンポイントで攻撃・無力化することにより、少ない軍勢で効果的に敵を敗退させる。
700でも、成功の見込みは十分にありました。




山県有朋を取り逃した。
それ以上に痛かったのは、本作戦の最高責任者である河井が負傷したことでした。
それ以降の行動が取れなくなった長岡軍は、戦術的には長岡城を奪還するという成功を収めたものの、戦略的には越後の解放に失敗し、これ以降は厳しい防衛戦を強いられることになります。




…それでも、まだ充分に戦える。
河井継之助はじめ長岡藩は、未だ猛々しい戦意を保持していたのです。





(主な参考資料)
戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書 (455))
戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える (中公新書)
奥羽越列藩同盟 (中公新書)
幕末史(半藤一利著)
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)



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