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続・龍馬伝 (23)上野戦争


龍馬伝第4部タイトル(雲の



江戸城無血開城を成し遂げてから、西郷は悩む日が多くなっていました。


徳川幕府の象徴である江戸城は手に入れた。
勝との談判により、江戸城も城下の町も焼失することなく、ほぼ、こちらの理想とする形で、軍勢を江戸に入れることができた。
双方を納得させる提案を行った勝の手腕は正しく妙手で、徳川家や多くの旗本は、この勝の妙手というか妙薬によって命を永らえたといっても過言ではない。
参謀たちの暴発による奥羽・北越の武力闘争のことを考えると、江戸戦争が行われなかったことが、こちらにとってもいかに有利であったかが分かる。
奥羽・北越と北に伸び切った戦線を抱えたまま江戸でも戦争に踏み切るとなると、これはイチかバチかの賭けにならざるを得ない。そしてそれは、避けねばならない最悪のシナリオであった。



江戸に来る前は全面戦争もやむなしと考えていた西郷ですが、今や、内戦を抑えいかに効率よく統治するかに関心が移っていたのです。
その彼の悩みのタネとなっていたのは、今やとてつもなく肥大化した彰義隊の存在でした。


妙薬は、妙薬であるがゆえに副作用も生む。
江戸城無血開城に反対する勢力が結集した上野寛永寺は、勝の妙薬の副作用のようなもの。
始めは200~300の小細胞であったのが、今や3000を越えようかという大きな悪性腫瘍に発生し、支配下においたはずの江戸の体内で、不死身の癌細胞のように我らを苦しめている。



西郷は勝海舟に彰義隊の処理を依頼していたのですが、思うように効果が上がっていませんでした。
このころには、勝海舟が旧幕府軍の管理をすることは不可能になっていたのです。




彰義隊の旗
(『JIN』最終話より)


肥大化する彰義隊。
為す術もない新政府軍。
このままでは、奥羽越の旧幕府軍や榎本艦隊が彰義隊を利用して、江戸に反転攻勢をかけかねない。

西郷は、ひとりの人物に白羽の矢を立てます。
長州が生んだ、稀代の軍略家。


大村益次郎


緒方洪庵の適塾にて蘭学を学んだ経験ももつ、元医者。
ふとしたことから長州藩に招聘され、その後は、西洋軍学の実戦家として、第二次長州征伐では多大な貢献をしています。
彰義隊撃滅の重要な任を背負って、彼は江戸に到着します。



【第23回】上野戦争



慶応4年5月上旬。
江戸城にて、彰義隊討伐のための軍議が開かれます。
江戸からは参謀の西郷隆盛、海江田信義(かいえだ・のぶよし)などが参加。
そして、新しく司令官に選ばれた、大村益次郎。彼も軍議の一員として参加していました。


彼はその場で、常識をくつがえす作戦を提案します。


3000を越す兵力をもつ彰義隊を殲滅させるためには、少なくとも3倍以上、万単位の兵力が必要だという海江田の意見を退け、今江戸にいる2000の兵で十分だと言います。
さらに、夜襲を主張する海江田の意見をもつっぱね、攻撃日を公言した上で、白昼堂々上野に攻め入ると言うのです。
非常識な作戦に、誰もが耳を疑いました。


やり取りを、一言も発せずじっと聞いていた西郷。
―こやつには、必勝の秘策があるやも知れぬ。
ただひとりその可能性をみた西郷は、周囲の反対を尻目に、大村益次郎に彰義隊討伐の全権を委任します。
大村の作戦が、発動されるのです。
江戸を、どちらが獲るか ― 戦の行方に、江戸の運命がかかっていました。




上野寛永寺の姿
(『JIN』最終話より)




彼は、西洋軍学を身につけた数少ない西洋戦術のエキスパートであり、組織戦を得意としていました。
しかし同時に元医者であるが故に、強い人間・弱い人間の心理をよく分かっていた。


上意下達の命令系統がシッカリしている軍隊であれば、人間的な弱さは組織に吸収され、一般的な兵法が当てはまる。
彰義隊が正規の軍隊であれば、海江田信義の言うように、数倍の兵力を必要とするであろう。

しかし彰義隊は、志願兵の軍隊であり、義勇軍である。
その本質は、ひとりひとりが独立して動くゲリラ部隊であると同時に、烏合の衆でもある。
たとえば江戸市街での単独活動においては、その強さがいかんなく発揮されるが、彼らが負けるかも知れないと分かったときには、その脆さが浮き彫りになるであろう。
命令系統があいまいである分、戦局が不利になった場合に、人間的な弱さが露呈されることになる。
人間は、弱くなったときにどうするのか―逃亡する。



攻撃予定日を公言するという、大村の作戦。
そこにも、高度な戦略が隠されていたのです。


彼らが正規の軍隊であれば、攻撃予定日を知らせることにより、より一層防御を固め、攻撃はより困難になる。
彼らがゲリラ集団であれば、攻撃予定日を知らせることにより、脱走者が続出し、敵の団結力は弱まり、兵力も減少するに違いない。
その上で、攻撃は全方位からでなく、わざと一方を空けておく。
「窮鼠猫を噛む」のことわざのごとく、死に物狂いの敵を相手にするのでなく、逃亡・脱走の可能性を常に敵に意識させる戦い方をする。
この作戦であれば、2000の兵力で確実に勝てる。



大村益次郎が一番恐れていたのが、戦局が膠着することでした。
夜陰のどさくさの中で彰義隊を江戸市街に漏らしてしまえば、彼らは自暴自棄になり江戸の町に火をつけ、そうなれば、西郷が尽力して無血開城し、江戸の町を火の海から守った苦労が水の泡になってしまう。
新政府の権威は失墜し、奥州の各藩に江戸侵入の格好の口実を与えてしまう。
それを避けるためには、白昼、短時間の一撃必殺で仕留めるしか道はない。


そこまで考えた上で、彼は作戦を立てていた。
攻撃予定日は、5月15日。江戸中に高札を出し、布告します。



彰義隊討伐の高札



慶応4年5月15日。
布告の日。大村の知略が試される日。
…そして、新政府の未来が決する日でもありました。

大村は、いつものように淡々と、各藩に戦の配置場所を伝達します。
そして、伝えます。
「今回の目的は、彰義隊の皆殺しではない。彼らを解散させ、上野寛永寺を彼らから解放することである。そして、江戸の町に平和を取り戻すことである」
そのために、命令を遵守し、決して独断で行動してはならないと、徹底させるのです。



上野戦争



前日から激しい雨が大地を打ち、風も吹き続けていました。

早朝午前7時。砲撃開始。
上野東叡山の正門である黒門を中心に、各方面から寛永寺に向けて集中砲火を浴びせます。
新政府軍の装備は大砲も小銃もいずれも新式で、彰義隊を火力で圧倒します。

応戦する側の彰義隊は、旧幕府以来の旧式砲。しかも、大村の布告により脱走者が続出し、当日、上野の山にこもっていたのは1000人余りと、寛永寺の防備に支障をきたす数まで落ち込んでいたのです。
それでも、残った1000は戦意の高い者ばかりで、不利な状況であるにも関わらず、果敢な防戦を展開します。


硝煙が白煙となり、それに雨が入り雑じり視界がかき消される中、耳をつんざくような砲声や銃声音だけが、戦の激しさを物語っていました。
黒門を攻撃する薩摩兵は、銃を乱射し、または白刃を振るい何度も突入を試みますが、死を決した彰義隊は落ち着き払っていて、容易に侵入を許さない。
焦りが見えはじめる官軍側の指揮官らは、大村に増援を依頼するのですが、大村は動かない。


午後1時。
大村が、初めて命令を出します。
佐賀藩(=肥前藩)に、アームストロング砲による砲撃を許可するのです。
当時としては驚異の射程距離と命中精度を誇るこの新式砲による砲撃は、不忍池(しのばずのいけ)を越え、彰義隊の射程外から確実に砲弾を着弾させ、寛永寺内部に混乱を生じさせます。
彰義隊に、動揺が走ります。



彰義隊の爆発
(『JIN』最終話より)



士気さかんな彰義隊でしたが、官軍側の圧倒的な火力の前に、徐々に持ちこたえられなくなってゆきます。
ついに、均衡が破れます。
薩摩兵らの数度にわたる突撃により、ついに黒門が突破されます。
なだれを打って寛永寺に突入する官軍兵士。


夕刻、彰義隊はついに潰走、上野の山は炎上。
作戦の経過から戦闘終了の時刻、敗走路まで、すべて大村益次郎の計算した通りだったといいます。




戦闘は、わずか一日で終了しました。

これにより、江戸の町を本当の意味で支配した新政府軍。
反撃の芽を完全に潰された、奥羽越列藩同盟。
後方の憂いがなくなった総督府は、その照準を長岡・会津に定め、本格的な侵攻作戦を開始します。

戊辰戦争のターニング・ポイントとなった上野戦争。
時代は、新政府による内戦終結に向けて舵を切ってゆくことになります。



慶応4年、夏。
義の花、もしくは報恩の花。
上野の山に季節はずれの花が咲き、そして、はかなく散ってゆきました。



________________________________________________________
蛇足

日本列島を巨大な戦の渦に巻き込んだ、戊辰の内戦。
刀槍の戦いしか知らない多くの武士にとって、それは壮大な新兵器の実験場でもありました。

薩摩がイギリスから購入し、多くの兵士が初めて手にしたであろう後装式のスナイドル銃は、当初、その装弾の斬新さゆえに薩摩兵を困惑させ、寛永寺の黒門突破を送らせた一因にもなったと言われています。
…そして、戊辰政争で最大の威力をもつ兵器となったのが、佐賀藩所有のアームストロング砲。


佐賀藩のアームストロング砲
(『大河ドラマ「花神」』より


近代工業に絶対的な信頼を置く藩主・鍋島閑叟(なべしま・かんそう)により、圧倒的な洋式兵器を貪欲に求め続けた佐賀藩は、当時、開発国のイギリスを除き、世界で初めてこの最新砲を荒削りながらも製造に成功し、そのうちの2門を上野戦争に投入したのです。

「安式砲」と名付けられたこの大砲は、未完成であるがゆえに砲そのものが爆破する危険と常に隣合わせであり、そのため、本格的な実戦で使われたのはこの上野戦争や、のちの会津鶴ヶ城攻城戦など、数回に留まっています。
しかしながら、銃火器の殺傷力に開眼した新政府は、明治以後、急速な兵器の近代化を推し進めることになります。
その成果が現れるのは、明治27年の日清戦争まで待たねばなりません。




(主な参考資料)
彰義隊(吉村昭著)
新装版 アームストロング砲 (講談社文庫)
戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書 (455))
戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える (中公新書)
奥羽越列藩同盟 (中公新書)
幕末史(半藤一利著)
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)



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