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続・龍馬伝 (21)朝日山争奪


龍馬伝第4部タイトル(雲の


慶応4年3月下旬。
横浜から新潟に向かう船上で、5人の男が未来を語り合っていました。


桑名藩藩主・松平定敬
長岡藩家老・河井継之助
会津藩家老・梶原平馬
プロイセン武器商人・ヘンリー・スネル(兄)
プロイセン武器商人・エドワード・スネル(弟)



横浜から箱館までの航路



時あたかも、江戸城が新政府軍に明け渡される直前。
江戸にいた諸藩は、それぞれの地に帰るよう言い渡されていました。

兄・松平容保は、藩士とともに会津に帰る。
弟・松平定敬も桑名に帰ろうとしたのですが、桑名藩は藩主不在の間にすでに新政府側になびいていたため、京都所司代として<朝敵>の罪を負った彼は、帰国を拒まれます。
家を追い出された主は、桑名藩の飛び地・北越の柏原に向かうことを決める。
同じく北越の飛び地に向かう梶原平馬。会津の若きリーダーです。
彼らを乗せる蒸気船を手配した、スネル兄弟。奥羽越を中心に活躍する「死の商人」


…彼らと共に、長岡藩のワンマンリーダーも搭乗していました。

河井継之助

藩主より政治・経済・軍事の一切を任された、カリスマ的存在。
長岡藩の未来は彼の双肩に掛かっていたといっても過言ではありません。



幕府崩壊の天変地異に直面した継之助。
今までは、お上には逆らえず、幕府の監視の中で藩は細々と存続していた。
しかし、その幕府が潰れた。それも、いとも呆気なく。
長岡藩の、越後の行くべき道を、彼は突きつけられます。


古くから肥沃な大地に恵まれた越後は、農業を主力産業として充分やってゆける。
そして、佐渡の金山。他にも未知の大地には、我らも知らぬ資源が眠っているやも知れぬ。
さらに、天然の良港・新潟港がある。
長崎で英・米・蘭を中心に取引をするならば、われらは仏・独・伊を中心に取引をすれば良い。
越後だけでなく、奥州や羽州の産物をも取引の対象とするならば、この越後に莫大な利益をもたらすに違いない。



…その越後を、むざむざ薩長に渡してはならない。
彼が考えたことは、この機会に、越後を一種の独立自治州にしてしまうことでした。
彼は、長岡藩の方針を決定します。


「武装中立」

長岡藩は、新政府と会津・庄内の戦いに関与しない。
むろん、どちらの陣営からの派兵要請にも応じない。
この原則を犯そうとするものがあれば、それがどちらの陣営であろうと、我が藩は容赦しない。




それでも、長岡藩が、そして越後が独立を保つためには、奥羽2州の協力が欠かせないことを、彼は十分に理解していました。
新政府軍は越後各藩に会津や庄内に対する出兵要請をするはずで、それを撥ねつけるためには、外部の協力がなければ成立しないのです。
そこまで計算した上で、彼は、江戸にいるときに、長岡藩の江戸藩邸を、骨董品や家具類ごと丸々売り払って数万両を得ると、その金で最新式の銃砲・弾薬と大量の米を買い、残りをすべて銅銭に両替します。
当時は米価の地域ごとの乱高下が激しく、江戸では、一時期急騰したものの、江戸が戦場になるとの噂が広まった2月ごろから激しく暴落していたのです。
安く大量に仕入れた米を、彼は新潟までの途上にある箱館ですべて売りさばき、その差額を手にします。
さらに銅銭は、新潟に帰ってからの物品購入に使いました。
当時、新潟では江戸よりも銅銭の価値が少しだけ高かったのです。


まるで龍馬を彷彿させるような経済センスの持ち主。
そこまでの下準備をした上で、彼は船上にて、松平定敬には柏崎桑名藩の軍事的援助を、梶原平馬には会津や他の奥羽諸藩との連携を、スネル兄弟には今後の武器・弾薬供与を、それぞれ話し合うのです。
東北諸藩をあたかもひとつの国家として機能させ、薩長新政府とは一線を画す。
その構想は、かつて、奥州の独立自治を100年の間保った奥州藤原氏の統治の再現を予感させるような響きがあり、彼らは夢を語り合い、その夢を現実にすべく、行動を開始することになります。


…ちなみに、こののち、会津の梶原平馬らが中心となり、会津と庄内は攻守同盟(会庄同盟)を結び、それを取り囲むようにして「奥羽越奥羽列藩同盟」が成立することになります。



【第21回】朝日山争奪



慶応4年5月2日。
新政府は越後南部を支配しながら進み、ついに、長岡藩の目前にまで迫ります。
「会津・庄内に対して出兵せよ。さもなくば討つ」
あくまで出兵を主張する新政府に対し、継之助は交渉を決裂させます。


彼は、かねてからの内約どおり、奥羽列藩同盟に正式に参加します。
長岡・会津・桑名の兵を率いた河井継之助は、長岡城から出陣。

一方の新政府側は、長州で奇兵隊を率いていた山県有朋。
そばには、腹心の部下である奇兵隊幹部・時山直八(ときやま・なおはち)がいました。
薩摩の軍隊とともに、自慢の奇兵隊を率いてこの北越の地までやってきた。
そして…戦の火蓋は切られた。


「北越戦争」



朝日山争奪戦


信濃川を挟んで対峙する両軍。
野戦の基本は、より高地に陣を張るということ。
高地の方が、より広く見渡せ、状況判断が的確に下せる。
さらに、攻める側は坂を登るため攻めづらく、逆に、守る側は、下り坂を駆け下りるため勢いをもって敵を粉砕できる。

この地での高地は2ヶ所ありました。
榎峠(えのきとうげ)と朝日山です。
どちらも信濃川の東岸、すなわち長岡藩側にあります。
一時は榎峠を占領していた新政府軍でしたが、長岡藩を中心とする連合軍がすぐに奪取し、榎峠と朝日山を同時に占領。
2ヶ所の高地から、ふもとの新政府軍を睥睨する構えを見せます。

初めての旧幕府軍の本格的な抵抗に、彼らは焦ってしまったのかも知れません。
時山直八は、司令官である山県有朋が信濃川西岸の小千谷(おじや)に渡っている間に独断で軍隊を動かし、朝日山の奪取を狙います。
濃い霧の中、密かに山を登り、頂上の奥羽越連合軍に総攻撃を仕掛けましたが…

河井継之助は、そのような思いつきの奇襲に動じるような男ではありませんでした。
山頂から一斉射撃を浴びせかけ、薩長連合軍の侵攻を食い止めます。
最前線で指揮を採っていた時山が銃弾により戦死すると、攻撃軍は指揮系統を失い混乱し、我先へと山を下って逃げ出すようになり、戦闘は終結。
河井は、高地を守り抜きます。




緒戦を勝利で飾った継之助。
この後、両者は、信濃川を挟んでの持久戦に入ることになります。


膠着戦。
これ以後も、新政府軍と互角の火力をもつ長岡藩に、彼らは苦しめられることになります。
河井継之助の戦いが、始まったのです。






(主な参考資料)
戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書 (455))
戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える (中公新書)
奥羽越列藩同盟 (中公新書)
幕末史(半藤一利著)
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)



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河井継之助の戦い

2011/08/12(Fri)13:33

龍馬暗殺の後にこのような歴史があったのですね。戊辰戦争、白虎隊、五稜郭、と断片的な知識しかありませんでした。詳しい解説でとても読みごたえがあり面白いです。小千谷にある慈眼寺に観光で訪れたことがありましたので、今回の記事は特に興味深く読みました。河井継之助の戦い、続きを楽しみにしています。

名前:resp (URL) 編集

Re: 河井継之助の戦い

2011/08/13(Sat)00:57

慈眼寺に行かれたとは羨ましい!
あの辺りでは、河井継之助は今でも英雄なのでしょうね。

僕も、今回の記事を書くまでは、鳥羽伏見―江戸城無血開城―会津戦争―箱館戦争が、何も脈略もなくつながっていただけだったので、自分自身、勉強しながら記事を書いています。
順を追ってゆくと、戊辰戦争は必ずしも薩長が圧倒した戦いばかりでなく、一歩まちがえれば別の政権ができていたかも知れない、そういったあやうい橋を新政府は渡ってきたことが分かってきて、面白いですね。

河井継之助の戦いはまだまだ続きますよ。
楽しみにしておいて下さい☆

名前:TV-Rocker (URL編集

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