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続・龍馬伝 (19)江戸城奪還作戦


龍馬伝第4部タイトル(雲の



徳川慶喜が恭順の意を表し、上野寛永寺に蟄居したその日。
幕臣のある者が、檄文を作成します。
その中の一節に、こうありました。

「君辱しめらるれば臣死す」

二百有余年の徳川政権を朝廷に奉還し、恭順の姿勢を貫く慶喜が、薩摩を中心とする奸賊どもにより朝敵扱いをされ、追討令を受けたことが、彼らは我慢ならなかったのです。
上の一節は、中国の故事を引用したものでした。
「君主が屈辱を受けたならば、臣下は、死を賭して汚名をすすがなけれればならない」


主君に対し、あくまで忠義を貫く。
彼らは、その覚悟を、並みいる幕臣に問うたのです。


この檄文が、17名となり、30数名となり、67名となり、やがて300を越えるまでになりました。
そして、ひとつの組織が生まれることになります。


『彰義隊』


忠義を貫き、大義を彰(あきら)かにする。
その名は、彼らが尽忠報国の為ならば命をも散らす大輪の花になったことを示すもの。
彼らは、慶喜を警護すると称して、慶喜のいるその場所に集まるようになっていきます。

東叡山寛永寺

通称「上野寛永寺」と呼ばれるこの寺は、もともとは、家康の側近であった天台僧・天海が開いたことで知られています。
比叡山をも統括する天台宗の総本山の位置づけとなり、徳川将軍家の菩提寺ともなってゆきました。
上野に凛と建てられたこの寺を中心に、彼らは結集します。
その数、総勢3000名。

慶応4年、初夏。
上野の山に、尽忠報国を謳う季節はずれの花が咲こうとしていました。




やがて、江戸城無血開城のXデーを迎え、薩摩を中心とする大量の朝廷軍が、江戸に侵入します。
「朝廷の兵士」と言っても、所詮は田舎侍の寄せ集まり。
彼らにとって、江戸の町は見たこともないきらびやかな大都会。
商品が往来し、芝居小屋や遊郭が立ち並び、さまざまな嗜好品が売られている。
彼らは怯える町民を見て戦勝気分に酔いしれ、酒を飲み歩き、遊郭で女を抱き、やがて民家に押し入る強盗まがいの者まで現れる始末。

公方様のお膝元であった江戸は、彼ら田舎者によって汚されます。
市民は次第に反感を増し、彼らを成敗してくれる者の存在を強く願いました。
その時流に、彰義隊は乗ったのです。


彰義隊の精神は「尽忠報国」
彼らにとって江戸の町を荒らす者は、将軍様を侮辱するに等しい不届き者。
もともと江戸市中の犯罪を取り締まる任に付いていた彰義隊は、江戸で横暴を働くものは官軍であろうと容赦せず、ついに、薩摩藩士が彰義隊により殺害される事件が発生します。
そののちも、彰義隊による殺傷事件は頻発。
江戸の民衆は彰義隊に味方し口を割らないため、いずれも証拠はつかめず。


やがて江戸の新政府軍は、自分たちが、江戸150万の民と3000の彰義隊武装兵によるゲリラ攻撃に晒されていることに気づき、恐怖に怯えることになります。
徳川260年の歴史が産み出した、江戸という禁断の地に自分たちが足を踏み入れてしまったことを、今さらながら気づくことになるのです。
徳川の残党狩りをしているはずの自分たちが、逆に狩猟の対象にされていることを。
「彰」と朱書された円提灯を持ち、隊列を組んで市中を廻るその姿を見ると、官軍たちは逃げるようにコソコソをその場を立ち去るようになってゆきます。


官軍狩り


その言語が現実味を帯びてくるとき、江戸は、すでに、彼らが占領した町ではなくなりつつありました。
江戸城と、そこに続く数本の主要道路こそ押さえていましたが、それは「点」と「線」でしかありません。
江戸八百八町の広大な「面」は、彰義隊と、江戸市民により支配されるようになっていったのです。




【第19回】江戸奪還作戦



彰義隊に、熱いまなざしを向ける人々がいました。
世良修蔵を殺し、東北一丸となって薩長連合軍を破ろうと息巻いている、東北諸藩の盟主・仙台藩です。
彼らには、悲願がありました。

江戸奪還。
徳川将軍家の中心地である江戸から、世を乱す悪党どもを追い出し、古き良き時代を復活させる。
江戸が安泰であってこそ、奥羽の平和は守られる。
薩長主導の世の中なぞ、彼らには我慢のならないことであったのです。

江戸奪還の急先鋒として彼らが熱い視線を注いでいたのが、彰義隊でした。
数もある。武器もある。気概もある。
何よりも、上野を拠点に構え、いつでも江戸城に攻撃を加えることのできる立地の良さ。


仙台の指導者・玉虫左太夫が、ひとつの作戦を立案します。


江戸城奪還作戦


彼ら兇賊から江戸を護るためには、機先を制すしかない。
薩長の賊徒が東北に侵入する前に、こちらが動く。
まず、大鳥・土方ら旧幕府残存部隊を間道や裏道から江戸に強行させ、同時に、会津らの東北諸藩が白河から宇都宮城に進軍、城を落とし、白河~江戸までの街道を確保する。
宇都宮城は、大鳥・土方隊の攻防により、一度は落城した城。突貫工事で補修をしたとしても、通常の堅固な城ではない。楽に落とせるはずだ。
時期を見計らって彰義隊を一斉に放棄させ、大鳥らの強行軍とともに江戸民衆の手引きにより江戸城下に侵入。
品川沖に停泊している榎本艦隊の援護射撃を受け、江戸城から賊軍を駆逐する。


江戸城奪還作戦



いわば、彰義隊を一本の巨大な槍の穂先として、その柄である旧幕府軍残存部隊、会津藩、仙台藩、奥羽諸藩の力を結集させ、江戸を串刺しにする一大作戦。

同時に、北越の長岡藩などと連携し、信州へ侵入し、江戸の北方を支配。
フランス・アメリカ・ロシアを味方に付け、イギリスがバックになっている薩長を圧倒する。
最終的には、東日本政権を樹立し、奥羽を国家として諸外国に承認させる。



―しかし玉虫左太夫は、これを即座に実行には移しませんでした。
彼は、この国家ビジョンを列藩同盟の盟約書に文章として載せることに腐心するのみで、肝心の実行に関しては、「同盟が正式に締結されたあとにでも考えればよい」と悠長なことを考えていた。
太平の世を満喫し、京の政争も江戸城の駆け引きも蚊帳の外の出来事であった彼らには、戦の機というものが分かっていなかったのです。



千載一遇の機会を、奥羽諸藩は逃した。
逆に、新政府軍が、彼らに襲いかかります。

狙うは、白河口。
彼らが攻撃の機会を逃した宇都宮城から、攻略部隊がすでに出発していたのでした。





(主な参考資料)
戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書 (455))
戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える (中公新書)
奥羽越列藩同盟 (中公新書)
幕末史(半藤一利著)
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)



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