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続・龍馬伝 (17)奥州不穏


龍馬伝第4部タイトル(雲の



【第17回】奥州不穏


新政府が占領した、徳川の町・江戸。

これよりおよそ280年前―当時は湿地帯も多く、人もまばらであったド田舎でした。
家康はその地に大規模な埋立てを行い、城下町・商人街・町人街…と、この町を計画的に発展させていった。
町が誕生しておよそ100年後には人口100万人を突破、世界最大の大都市となったのです。
徳川によって誕生し、徳川家と共に成長してきた町。
幕末期には、その人口は150万人にも達していたと言われています。
それが、江戸の町なのです。


江戸の空撮風景
(NHK教育『見える歴史「徳川家康~江戸をつくった将軍~」』より)


江戸は、常に徳川家と共にありました。
江戸っ子の町、人情の町。何よりも将軍様のお膝元。


「天子様と公方様、どっちが偉い?」

と尋ねられりゃ

「そりゃあ公方様に決まってらぁ」

はばかることなく、そう答える。
言うまでもなく、天子様とは天皇、公方様とは徳川将軍のこと。
そういう人間が150万集まった町、それが大江戸八百八町。


江戸市民にとって新政府軍のやり方は、親分を討とうとする弟弟子の反逆のようなもの。
土足でずかずかと乗り込んできた西からの裏切り者を、心良く思うはずがありません。
天子様がバックについているのをいいことに、われらが公方様を貶めた不届き者。
江戸の町民たちは、官軍かぜを吹かせる新政府に冷たく、風当たりはきついものでした。
江戸は、京とはまったく違う空気が流れていたのです。


その江戸の不穏な空気を象徴するかのように、江戸周辺には、あくまで徹底抗戦を主張する旧幕府の残存部隊が行くあてもなく群れていました。
前回述べた、大鳥圭介の部隊しかり。
さらに、もっとやっかいな集団が、江戸城から目と鼻の先、約3kmという近距離に固まっていた。
現在皇居となっている場所に江戸城があり、現在の上野駅近郊に、その不気味な集団は群れをなしていました。

彰義隊
(しょうぎたい)


もとは、徳川の菩提寺である上野寛永寺に慶喜が謹慎している間、その身辺警護を名目として集まった集団です。
江戸開城後、慶喜が水戸へ移されてのちも、彼らは解散することなく、江戸の市中取り締まりを口実に、しばしば新政府軍の兵士を襲撃する事件がたびたび起こっていました。

残党狩りどころか、ゲリラ化した旧幕府軍に逆に狩られる官兵たち。
有効な対策を打てない、新政府軍。
江戸での「官軍」の威信は日に日に落ち込んでゆき、子供までもが罵るありさまであったといいます。

________________________________________________________


一方、江戸から遥か彼方の東北の空にも、暗雲が垂れこめていました。


暗雲垂れ込める東北


新政府にとって、残る非勢力圏である東北は、江戸も京とも関わりのない、片田舎でしかなかった。
彼らは、ふたつの藩さえカタをつければ、この地は治まると考えていました。
すなわち

「会津藩」
「庄内藩」



会津藩は、松平容保が京で薩長土肥ら討幕派浪士を片っ端から弾圧し続けたいわば「佐幕派の巨魁」
庄内藩は、江戸で薩摩藩邸焼き討ちを行ったほど骨のある佐幕藩。

西郷が江戸城攻撃に向けて忙殺されていた2月中旬ごろ、新政府は、会津・庄内等に対しての処分を布告します。
特に、会津に対する厳しすぎる処罰は、会津藩のみならず、多くの東北諸藩を驚かせました。


「会津藩主・松平容保を、死罪に処す」


当時、松平容保は抗戦を主張するどころか、新政府に対して恭順の嘆願書を出していました。
のちに西郷が恭順の意思を示した将軍慶喜に対して助命を認めた事例から考えても、恭順の意思を示す容保の助命は当然のこととして東北諸藩には受け止められていました。
新政府側の決断は、いわば「盗賊の親分の命は助けるが、子分はその罪を償って死んでもらう」という理に外れたもの。

亡き孝明天皇の信頼厚かった容保公への最大の侮辱。
「勤王」とは名ばかりの、薩摩の会津への私怨を感じ取った奥羽の諸藩に、にわかに反感の感情が沸き起こります。


実は、新政府穏健派は、周囲の仙台藩、米沢藩、秋田藩(久保田藩)など東北諸藩を味方に抱き込んだ上で、会庄2藩に対する圧倒的優位な軍事包囲網を敷き、その下地をもとに奥羽2州の口添えにより、彼らを降伏させる予定でした。
この作戦が的中すれば、奥州に一滴の血も流さずに平定させることができた。
江戸城無血開城とほぼ同時期に、会津の根城である鶴ヶ城の無血開城を成し遂げ、戊辰戦争は1年早く終息していたでしょう。
「戊辰戦争」という呼び名が、そのそも生まれなかったのではないか。




しかし、その可能性は、容保に対する無謀ともいえる罰によって、潰えてしまった。
このような非常識な決断を、誰が下したのか。

当時、総督府は命令系統があいまいで、しかも、大総督・有栖川宮の下で、主に薩摩出身の下級武士が実権を握っていたありさまでした。
西郷が江戸の工作に忙殺されているさなか、世の何たるかも分かっていない成り上がりの薩摩人が、一時の感情で出した布告。それが表に出てしまったために、そのまま新政府の意思と受け止められ、愚かな東北戦争の火種となってしまったのです。


この布告に対して、会津・庄内はもちろん、東北諸藩の態度は一気に硬化します。
会津と庄内は、対薩摩軍事同盟として

会庄同盟

を結成、それを東北諸藩が支援する体制ができつつありました。
それは同時に、薩摩を中心とする新政府軍に、東北挙げて牙を向けることを意味します。




東北の空は、完全に闇に閉ざされます。
その閉塞感の中、奥州の大地に、ささいなことから火が付きます。
それが瞬く間に東北全土を覆う戦火と燃え広がるとは、この当時、誰も予測していなかったであろうと思います。






(主な参考資料)
戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書 (455))
戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える (中公新書)
幕末史(半藤一利著)
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)



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