< 2017年07月 |  12345678910111213141516171819202122232425262728293031 | 2017年09月 >
ホーム  > スポンサー広告 > 小牧長久手の戦い~(4)蟹江城攻防戦~ > 江~姫たちの戦国~ > 小牧長久手の戦い~(4)蟹江城攻防戦~

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

小牧長久手の戦い~(4)蟹江城攻防戦~


家康によって、乾坤一擲の奇襲作戦は潰えました。
秀吉は、怒る部下たちをなだめつつ、その矛先はすでに、別のところを向いていたのです。



家康には、勝てぬ


勝てないなら、勝てないでよい。
勝てない相手と分かっているなら、戦わなければよい。
相手にしなければよい。
部下の再度の出兵をことごとく却下すると、小牧山城への防備を固めた後に、秀吉自身は大軍を率いてもときた道を引き返します。


「勝てぬ者の相手にするより、勝てる者を相手にした方が、話が早い」


もともとは、信雄が家康を誘って起こした戦。
信雄にしてみれば、自らの領土の安定のために、家康の力を利用したかっただけではないのか。
なれば、話は早い。
「虎の威を借る狐」である信雄から虎である家康を切り離し、信雄をただのキツネにする。
尾張と伊勢を分断し、信雄を精神的に孤立させる。




5月6日。
長久手の戦いから、約1ヶ月。
ひとときの静かな日々を破り、秀吉が仕掛けます。
目標は、三河でなく伊勢。


王者のごとく、濃尾平野を悠々と流れる大河・木曽川。
古来よりこの河を越えることは至難の業で、それゆえに、尾張と美濃、尾張と伊勢を分ける境界線となっていました。
その河口付近、揖斐川との間に挟まれた中洲には、天然の要害に守られた伊勢長島城がそびえ立っています。
伊勢の支配者・織田信雄の居城です。
守るに易しく攻めるに難い、不落城。

秀吉は、この城を尾張から切り離し、孤立させることによって、信雄から家康の影響力を排除しようとしたのです。
最初の攻撃目標は、木曽川の中流付近にあるふたつの城。
竹鼻城と、加賀野井城。
まず、大軍による総攻撃で加賀野井城を1日で落城させると、竹鼻城を水攻めにします。
得意の戦法により、竹鼻城はその1ヶ月後に落城。
家康軍の攻撃を警戒しましたが、家康は動きませんでした。



6月16日。
信雄支配下にあるはずの蟹江城が、突如、秀吉の手に渡ります。
秀吉の名人芸である寝返り戦術によって、蟹江城の城主が城を明け渡すことに合意。
伊勢にいた滝川一益が、九鬼水軍とともに海路より入城したのです。



蟹江城攻防戦500
(クリックすると3倍に拡大します)



蟹江城は、信雄の居城である伊勢長島城と、信雄と家康の会議の場である清洲城の連絡路に位置する城。
すなわち、秀吉勢がこの城を守り抜くことが、信雄の孤立につながる。
それはそのまま、家康・信雄連合軍の分裂そして崩壊につながるのです。
秀吉の離れ業が功を奏して、信雄は一気に苦境に直面します。


蟹江城攻防戦


家康の動きは、迅速でした。
直ちに蟹江方面に出馬すると、九鬼水軍を破り海上との連絡を絶った上で、蟹江城を締め上げます。
厳しい籠城戦に耐えた滝川一益でしたが、3ヶ月後に降参。
家康の軍略の前に、またもや秀吉勢は敗れたのです。




それでも、執拗に内応工作を行う秀吉。
8月から10月にかけて、信雄の家臣団をたびたび誘惑し、信雄を精神的に追い詰めてゆきます。
伊賀や伊勢の武将は多くが秀吉の調略にかかり、どっちつかずのぐらぐらの状態にまでなっていたのです。
家康の攻撃が及ばない伊賀・伊勢での工作は、秀吉に取っては赤子の手をひねるようなものでした。
伊勢湾に軍船を浮かべ、伊勢長島城にさらに圧力を加える秀吉。
信雄の精神は、限界に達してしまいました。
ついに、心が折れてしまいます。



11月15日。
信雄は、家康の許可も取らず、秀吉と単独で講和します。
講和とはいえど、実情は伊賀と南伊勢を失い、娘を秀吉の養女として差し出すという、降伏に限りなく近いものでした。
戦争の大義名分を失い、単独で秀吉を倒すことの難しさを悟った家康は、兵を引き上げ、三河に帰国します。



家康と金扇



戦では勝っていながら、信雄への配慮が十分でなかったために、弱みにつけ込まれて兵を引く形となった家康。
彼の脳裏には、裏切った信雄への恨みがあったのか。
または、戦での決着を避けコソコソと動きまわる秀吉に対する怒りか。
もしくは、自らの青さを嗤っただけだったのかも知れません。


8ヶ月に渡る長い戦いは、こうして幕を下ろしたのです。

________________________________________________________

秀吉と家康。
生涯ただ一度の直接対決となった戦は、勝敗つかず、痛み分けとなりました。

「政略」の秀吉、「軍略」の家康

お互いの能力の限りを尽くし、付近の大小の領主を巻き込んだこの争いは、まさに、この時代の天下分け目と言われるにふさわしく、

「もうひとつの関ヶ原」

と言っていいほどのものです。
しかしながら、8ヶ月という長期の戦の割に合戦の規模が小さかったことや、勝敗がつかなかったことで歴史が大きく転換することがなかったというのが、後世の評価を小さくしている原因ではないかと思います。
それでも、「引き分け」という結果こそが、両者が智謀を尽くし、壮絶な戦いを行った証と言えるのではないでしょうか。

「小牧長久手の戦い」の再評価を、期待します。





(主な参考資料)
その時歴史が動いた「秀吉・家康 たった一度の直接対決」~天下取りの知恵くらべ~(2001年)
「今日は何の日?徒然日記」様より ~「秀吉VS家康~犬山城攻略戦by小牧長久手の戦い」ほか~

戦国合戦大全 (下巻) (歴史群像シリーズ (51))



ブログ記事一覧へ>>



ワンクリックの応援お願いします

関連記事

コメントの投稿

コメントの投稿
装飾
非公開コメント


トラックバック

トラックバックURL


▲page top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。