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小牧長久手の戦い~(3)長久手の戦い~


池田恒興・森長可による、三河奇襲作戦。
取り上げる前に、少し前置きを。

この作戦、一般的には「秀吉自身はこの作戦に反対したのだが、池田恒興らが名誉挽回の機会を強く望んだため、彼らに押し切られるような形で作戦を許可し、結果的に敗北した」と言われていました。
僕自身も、今までそう覚えてきました。
が、最近では、秀吉もこの作戦にかなり前向きであったという説が有力になりつつあるそうです。

考えてみれば、人を裏切らせることは得意でも裏切られたことはほとんどなかった「人たらしの名人」秀吉が、直属ではないにしろ配下となっていた池田恒興らの言動をコントロールできていなかった、というのは、やはり腑に落ちないものがあります。
だとすれば、秀吉は、この作戦をどう考えていたのか?
なぜ彼は、この作戦を許可したのか?


そういった点を踏まえながら、本記事を書いてゆきたいと思います。

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池田恒興の献策



「虎穴に入らずんば虎子を得ず」
奇襲作戦を聞いた秀吉の、脳裏に浮かんだ言葉でした。

少々危険な作戦ではあっても、ある程度のリスクを負わなければ、この戦は勝てない。
なにしろ、相手は海道一の弓取り・家康なのです。
いつもの方程式通りで勝てるほど、甘くはない。
思い切った作戦の必要性を、彼は感じ取っていました。


秀吉は、決断します。


彼は、池田恒興・森長可らが献策してきた案に、さらに修正を加えます。
まず、自分の代理として、甥の羽柴秀次を総大将に据える。
その補佐役として、戦上手な堀秀政を当てる。

さらに秀吉は、陸上からだけでなく、海路からの三河侵入も手配します。
すでに江を佐治家に嫁がせ、佐治水軍を味方に引き入れようとしていた秀吉ですが、さらに、かつて信長のもとで水軍の力をいかんなく発揮した九鬼嘉隆(くき・よしたか)を味方に引き入れると同時に、三河侵攻に協力してもらいたいとの旨の書状を送るのです。

九鬼嘉隆といえば、かつて信長が本願寺相手に戦った石山戦争で、鉄甲船というバケモノの船を大阪湾に浮かべ、毛利や村上といった瀬戸内最強の水軍集団を撃破した鳥羽の荒くれ者。
その行動力に、秀吉は賭けたのです。



三河奇襲作戦500
(クリックすると3倍に拡大します)


陸上と水路。
2面作戦により三河を蹂躙し、家康を恐怖に陥れる。

家康という男は、今川義元の人質であった頃から三河の独立を一途に願い、誰よりも三河を愛する男である。
その本国の人民が虐殺されてゆくのを、見殺しにできるはずがない。
三河の拠点・岡崎城には、わずかの留守部隊しか残していないはず。
小牧山城を放棄してまでも、必ず、三河の救援に向かうはずだ。
その背後からわが本隊が強襲し、反転した奇襲部隊と挟み撃ちにする。

砦という後ろ盾のない平野では、兵数が勝敗のすべてを決する。
5倍の兵力で、家康を押し潰す。




間違いなく、勝てる戦でした。
編成された陸上奇襲部隊の兵力は2万。
小牧山城にいる家康軍の全兵力は1万6千。
仮に奇襲部隊の行動に気づかれたとしても、そう簡単に決着がつくはずがない。
膠着状態になったところを本隊が突けば、勝負は決する。


4月6日夜。
編成を終えた奇襲部隊が、順次、家康の故郷・三河に向けて出発してゆきます。
先頭から、池田恒興・森長可・堀秀政・羽柴秀次の順。
池田・森にとっては名誉挽回の、羽柴秀次にとっては戦功第一の晴れ舞台となるはずでした。
家康の首さえ、あるいは彼らは狙っていたのかも知れません。



林のように静かに、山のように不動を保っていた家康。
周囲に斥候を放ち、息を殺し目を凝らして、じっと敵の隙をうかがっていたのです。
その動きが付近の農民らによって家康のもとにもたらされると、彼は、即座に軍を編成。
家康自ら、1万数千という実に小牧山城のほぼ全軍を率いて、追撃に移ります。


疾風のごとき行軍。
9日早朝、ついに、長久手付近にて、奇襲部隊を捕捉。
目の前の岩崎城を落とそうと必死になっていて、うしろは完全に無防備でした。
彼らの背後まで迫ると、一気に襲いかかります。



長久手の戦い



長久手の戦い

まず餌食となったのは、最後尾の本陣・羽柴秀次。
まさか後ろから攻撃されるとは思っていなかった秀次は、軍勢の指揮を取れぬまま、命からがら潰走。
難なく秀次勢を撃破すると、次の堀秀政の軍勢に間髪入れず襲いかかる。
しかし、さすがは往年の戦上手・堀秀政。この状況にも冷静に対応し、家康軍を一時は撃退します。
ここで家康軍は矛先を変え、堀秀政の軍を迂回、城攻めに夢中になっていた池田恒興・森長可の軍の背後に展開します。

鶴翼の陣。
鶴が翼を広げた姿に見立てられるこの陣形は、相手を包み込み、短時間で敵を殲滅する一撃必殺の陣形。
家康軍の両翼に囲まれた池田恒興・森長可は、共にこの戦いで討ち死に。

火のような家康軍の一連の攻撃によって、2万もの奇襲部隊は、完全に崩壊します。
家康軍の攻撃が始まってから、わずか半日。
早朝に始まった一連の戦いは、正午過ぎにはおおよその決着が付いていたのです。



次から次へと繰り出される、軍神のごとき家康の采配。
軍配が下されるとほぼ同時に動く、一糸乱れぬ家康配下の武将。
稲妻のように鋭い、家康軍の波状攻撃。

風林火山

三方ヶ原の戦いで敗れて以降、家康にとっての軍略の師は、信武田信玄でした。
彼が無念の病死を遂げた後、家康は彼の遺領に侵攻、信玄の遺臣を多く召し抱えていますが、彼が召し抱えたのは、人だけではなかったのです。
同時に、信玄の軍略、すなわち「風林火山」の極意を貪欲に吸収していったのです。



完膚なきままに叩き潰された奇襲部隊。
敗戦の報を聞いた秀吉は2万の救援部隊を自ら率いますが、小牧山城から出陣したわずか500騎の本多忠勝のゲリラ行為に妨害された挙句、秀吉が現場に到着した頃には、家康はすでに陣を引き払って、悠々と小牧山城に帰還した後でした。
連携を欠いた九鬼水軍も、形勢不利と判断し上陸を断念します。

秀吉にとっては、生涯忘れられぬ敗戦となりました。

________________________________________________________

後に、天下を統一した豊臣秀吉が、家康に自分に宝物を自慢して、こう尋ねたことがあります。
「わしはこのように、数限りない宝物に恵まれておるが、家康公の宝物は何か」

その時、家康はこう答えたと伝えられます。
「三河武士は宝を持ちません。
 しかしあえて宝といえば、私に命を預けてくれる500騎の武士(もののふ)たちでありましょう」


ひとつの巨大な獣に呑み込まれるように、なすすべもなく潰走した三方ヶ原。
しかし、そのすべてを家康は学び取り、三河武士と一致団結して、長久手でその再現をしてみせたのです。
家康のこの言葉には、そういった自負が見え隠れしているようにも感じます。





(主な参考資料)
その時歴史が動いた「秀吉・家康 たった一度の直接対決」~天下取りの知恵くらべ~(2001年)
「今日は何の日?徒然日記」様より ~「秀吉VS家康~犬山城攻略戦by小牧長久手の戦い」ほか~

戦国合戦大全 (下巻) (歴史群像シリーズ (51))



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