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小牧長久手の戦い~(1)羽黒の戦い~


『江~姫たちの戦国無視~』


いよいよ始まった、小牧長久手の戦い。
…と思ったら、もう終わっていました。

今回も、記事で補充したいと思います。
全4回の予定で、後半2回は来週になりますが・・・

※前々回の予告編を見て、小牧長久手の戦いは次回以降も続くと思っていたので、全然準備していなかった
 見事に無視してくれるなんて、反則デスリラックマ65「死にかけ」

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非常事態宣言

15才から60才までの男子は、全員兵士として参加せよ。
弓・鉄砲・槍など、可能な限りの武器も持参せよ。



家康は、自領の武将たちに緊急事態の急報を出すとともに、最大限の兵員を動員するよう、強力な要請を行います。
何しろ、相手はあの羽柴秀吉。
武田家の残党狩りをしていたころとは、わけが違います。
戦いを挑もうとしているのは、国力差4~5倍はあろうかという巨人なのですから。






圧倒的な国力差。
秀吉軍10万に対して、家康・信雄軍は2万足らずだったといわれています。
それでも、家康が戦いに踏み切ったのには、ひとつの大きな読みがありました。


「織田家を護る義戦」


幼い三法師をあやつり人形に仕立て、織田信孝を切腹させ、かつての同盟者であった織田信雄にも反目した秀吉。
今や、間違いなく織田家の宿敵。
かつての織田家臣団の中にも、その露骨な織田家排除の動きを快く思っていない者は多いのではないか。
それらの武将たちを、こちら側に引き込むことができたなら…

古くから苦楽を共にし、鉄の結束で結ばれた三河武士が屋台骨となっている家康軍。
それに対し、秀吉軍は、直属の部下を除いては大部分が本能寺の変後のドタバタの中で秀吉に組み込まれていった武将だったのです。
その多くは、元織田家に仕えていた人たち。結束は脆弱なように家康には思えた。


家康は、彼なりのジョーカーを持っていました。


織田信雄2





一見丈夫そうな衣服も、結局は糸が縫い合わさってできた集合に過ぎない。
ほころびを見つけ、その糸を数本引き抜いてやれば、糸はただの糸となり、衣服はその形を失う。
秀吉政権というひとつの立派な衣服も、織田家の遺臣という糸の集合体に過ぎないことに家康は注目したのです。


家康が見つけた、ほころび。
それは、織田家の家名のもとに集まっているという結束力でした。
今や、自分には、織田家のシンボルである実子・織田信雄を手中にしている。
このカードを使い、秀吉の武将を我が手に引き寄せることができたならば…

家康が焦点を合わせたのが、このふたりでした。


池田恒興

森長可



池田恒興は、信長の義理の兄弟という間柄。
森長可(ながよし)は、池田恒興の娘婿であり、本能寺で信長とともに死んでいった森蘭丸の兄です。
いずれも、信長とは非常に深い関係があります。

それまでは秀吉が織田家再興の旗印をかかげて戦ってきた関係で、池田恒興などは秀吉方について戦ってきましたが、今度は立場が違います。
つまり、織田家を乗っ取ろうとする秀吉と、織田家を護ろうとする家康。
旗印は、こちらにあるのです。

彼らが自軍になびいてくれれば、美濃一帯を秀吉勢力から切り離すことができ、そこを足がかりにして、秀吉の支配圏を内側から突き崩すことができる。
5分の1の兵力でかつ術。すなわち、秀吉軍の内部崩壊。
それを、家康は狙っていたのです。






しかし…
秀吉はすでに、家康に対抗する新しいスローガンを掲げていました。


『天下統一』


彼は、見抜いていたのです。
織田家遺臣の中にも、「織田家再興」がもはや夢物語になりつつあることを容認する雰囲気を。
彼ら家来衆にとって「再興」のキーワードは何度も使い古され、実体のなくなったセミの抜け殻のような言葉と化しつつありました。
そこに秀吉は、トドメを刺します。

「織田家が天下の頂点に立つのではない。
 信長の後継者たる、この秀吉が天下を一に統(す)べるのだ」



秀吉は、時代の針を進める覚悟を全家臣団に示します。
それが「秀吉による天下統一」であり、その覚悟が端的に表されたのが「大坂城」だったのです。
それにより、遺臣の中にわずかでも残る信長の亡霊の息の根を止めた。

新しいスローガンで、新しい結束力を生み出したのです。




秀吉の巧みな人心掌握術。
池田恒興・森長可は、秀吉方につきます。
そして、逆に家康・信雄支配圏の尾張に侵入してきたのです。


小牧長久手の戦い(全体図)


天正12年3月13日。
彼らは、美濃と尾張の境を流れる木曽川を超え、手薄になっていた犬山城を急襲。
城を奪うと、家康が本陣を固めつつあった小牧山城を襲うべく、さらに南下します。
緒戦の勢いを味方にして小牧山城から家康を追い出し、尾張の拠点・清洲城に一気に圧力をかけようとしたのです。


羽黒の戦い


と言われるもので、これが「小牧の戦い」の幕開けとなります。


小牧長久手の戦い1


しかし、家康は、それほど甘い男ではありませんでした。
羽黒に一時布陣していた森長可の部隊に、家康軍は夜陰にまぎれて近づき、夜明けとともに攻撃を仕掛けます。
不意をつかれた森長可は、命からがら犬山城へと逃げ帰るのです。

半手先を取られた家康ですが、合戦での直接対決では勝利し、戦を5分に戻します。




もう一方の総大将、秀吉は、動けません。
実は、家康による紀伊の根来衆・雑賀衆の煽動作戦がボディーブローのように効いていて、秀吉は大坂から離れることができなかったのです。

それでも、この敗戦の報は、秀吉の背筋を凍らせます。
当時、右にでるもののない戦上手の家康をこのまま放っておけば、合戦の度に領土と兵員を削られてゆき、やがて、国力差さえ逆転されかねない。
小牧山城よりはるか遠くにある羽黒を奇襲した、竜巻のような家康の攻撃を前に、紀伊のゲリラ攻撃よりはるかに深刻な事態を予感した秀吉は、大坂を配下に任せ、戦場へと赴くのです。


家康と秀吉。
ふたりの総大将が、戦場の最前線で対峙することになるのです。




(主な参考資料)
その時歴史が動いた「秀吉・家康 たった一度の直接対決」~天下取りの知恵くらべ~(2001年)
「今日は何の日?徒然日記」様より ~「秀吉VS家康~犬山城攻略戦by小牧長久手の戦い」ほか~

戦国合戦大全 (下巻) (歴史群像シリーズ (51))



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