< 2017年09月 |  12345678910111213141516171819202122232425262728293031 | 2017年11月 >
ホーム  > スポンサー広告 > 「小牧長久手の戦い」前夜~パワー・ゲーム(2)~ > 江~姫たちの戦国~ > 「小牧長久手の戦い」前夜~パワー・ゲーム(2)~

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「小牧長久手の戦い」前夜~パワー・ゲーム(2)~


和議は、成りました。

ついに、あの家康が、重い腰を上げたのです。
現代的な表現でいうと、秀吉と敵国とした、明確な軍事同盟が結ばれたのです。



家康と信雄の同盟


天正12年3月6日。
織田信雄は、居城である伊勢長島城にて、老中3人を処刑。
いずれも親秀吉派の人間でした。
さらに、秀吉との断交を表明、対決姿勢を鮮明にします。


翌日、家康は居城・浜松城を出陣。
13日、清洲城にて信雄と協議を行います。


緻密な計算が得意な家康は、己を過大評価することなく、冷静な戦力分析を行います。


徳川家康 - 5ヶ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)
織田信雄 - 3ヶ国(伊賀・伊勢・尾張)


羽柴秀吉 - 20余ヶ国(旧信長遺領ほぼすべて)


家康の出した結論:

「まともにぶつかり合えば、敗北は必至」

家康と信雄を合わせても、8ヶ国。
秀吉の20余ヶ国と比べると、半分以下でしかありません。

戦の規模が大きくなればなるほど、国力がモノを言います。
動員兵力、兵糧の供給能力、武器の製造能力といった、国の経済力が大きく影響してくるからです。
このまま戦に突入すれば、局地戦で勝てたとしても、総力戦では押し切られるのが必定。
彼は、方針を固めます。


家康が導いた戦略:

①「戦が始まるまでに、可能な限り国力差を埋めておく」
②「戦が始まれば、まともなぶつかり合いはせず、局地戦のみに留める」




家康は、行動を開始します。

________________________________________________________

まず彼がなすべきこと。
戦が始まるまでに、自軍の全兵力を秀吉に集中して投入できる状況を作っておく。
同時に、秀吉の戦力を可能な限り分散させ、削ぎ落としてゆく。
つまり、他勢力を味方につけるということです。

家康・信雄連合軍は、秀吉を外から包囲する作戦に打って出ます。
相手方の動員兵力を分散させるため、周囲すべてを敵に変える策略を練り上げるのです。
彼らは、大小の大名に、秀吉包囲の誘いをかけてゆきます。


関東の北条氏
越中の佐々氏
飛騨の姉小路氏
中国の毛利氏
四国の長宗我部氏
紀伊の雑賀衆・根来衆



これだけの勢力が動いたということは、それだけ、膨張する秀吉に対する警戒感が他の大名の間でも強かったことを意味していると思います。
その結果出現した、秀吉の広大な勢力圏を東西から囲い込む、大きなネット。


秀吉包囲網


信長を苦しめた、足利義昭の信長包囲網。
一時的にせよ秀吉を警戒させた、柴田勝家の秀吉包囲網。
そして今度は、家康らによる秀吉包囲網。

小牧長久手の戦い前夜の包囲網1





対する秀吉は、味方の武将を最大限に利用して、包囲網に対して鉄壁の防壁を作り上げます。


越中の佐々氏     ← 前田利家・丹羽長秀
飛騨の姉小路氏    ← (上に同じ)
中国の毛利氏     ← 宇喜多秀家・毛利氏との和睦
四国の長宗我部氏   ← (上に同じ)
紀伊の雑賀衆・根来衆 ← 中村一氏


さらに、東北の武将に文を送り協力を依頼。
家康・信雄らが作ろうとした包囲網のさらに外側に、逆に彼らに対する包囲網を築こうとします。


家康・信雄逆包囲網


関東の北条氏     ← 常陸の佐竹氏
越中の佐々氏     ← 越後の上杉氏




小牧長久手の戦い前夜の包囲網500
(クリックすると3倍に拡大します)






秀吉と家康・信雄が接する美濃-尾張-伊賀-伊勢の境界線上では、さらに深刻でした。
付近の小領主たちは、どちらかの勢力圏に付くことを嫌が上でも迫られたのです。
一方に付けば、当然、もう片方からは攻められる危険がつきまといます。
しかし、どっち付かずは許されない。

小領主たちは、争いに巻き込まれたいわば犠牲者。
大きなうねりの中で翻弄され、自らの生死をどちらかに委ねるしかなかったのです。


秀吉と家康の、天下分け目のパワー・ゲーム。
近隣の小領主から周辺の諸大名までをも巻き込み、さながら日本を二分するような争いの様相を呈してゆきます。



美濃-尾張-伊賀-伊勢の境界では、すでに小競り合いが始まっていました。
事の発端は、家康・信雄の連合軍が、処刑された親秀吉派の3家老の城を攻め落としたことから始まります。
小さな争いが、ところどころで起こっていました。



小さな爆発が散発的に起こり、やがて、大爆発へと誘引される。
それが、起こりうるのか、否か。
この時、美濃-尾張のラインでは、緊張が臨界にまで達しようとしていたのでした。






(主な参考資料)
その時歴史が動いた「秀吉・家康 たった一度の直接対決」~天下取りの知恵くらべ~(2001年)

戦国合戦大全 (下巻) (歴史群像シリーズ (51))



ブログ記事一覧へ>>



ワンクリックの応援お願いします

関連記事

コメントの投稿

コメントの投稿
装飾
非公開コメント


トラックバック

トラックバックURL


▲page top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。