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「小牧長久手の戦い」前夜~パワー・ゲーム(1)~


『江~姫たちの平和な日常~』

は、相も変わらずお城の中でみんなきゃぴきゃぴと遊んでおります。
「関連記事」のはずが、もはや何の関連ももたない記事になりつつある今日この頃ですが、歴史ファンの方々のために、2週間お休みをいただきましたが、記事を再開したいと思います。

この時期、秀吉と家康の緊張感が徐々に高まってゆく時期なんですね。
それを分かっていただきたいと思い、この記事を書きました。

________________________________________________________




「賤ヶ岳にて、秀吉、勝家を破る」


その結果は、ある程度予測がついていたとはいえ、家康を震撼させます。





山崎の戦いから賤ヶ岳に到るまでの、その計り知れない秀吉の行動力。
一連の動きは、家康にはとても真似のできないものでした。

「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」

まず自らが動き、相手を揺さぶり、相手に隙を作らせる。
その隙にすっと音もなく短刀を差し、傷口をつくり、そのわずかな傷口を最後には致命傷にまで広げてしまう。
最後には、相手を死に至らせる。



秀吉の不気味な行動力に、家康は分析の手が震えていたことでしょう。
後世語り継がれる、家康の行動原理。

「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」

その句は、秀吉に対してのリアクションを表したものではないかと思うのです。
彼の生涯最大のライバルは、間違いなく秀吉だったのですから。



両者が否応なく対決するリミットは、刻一刻と迫っていました。
今回は、ふたりの生涯たった一度の直接対決に到るまでの過程を「パワー・ゲーム」と題し、2回に分けて書いてゆきたいと思います。

________________________________________________________


賤ヶ岳の戦いでの勝利により、秀吉は大きな飛躍を遂げます。
旧北部方面軍を支配していた土地をも勢力圏に加え、勝家という後ろ盾のなくなった織田信孝・滝川一益を滅ぼします。
国の数でいうと、20余ヶ国を領有する巨大勢力圏を我がものとするのです。


秀吉勢力圏(小牧長久手の戦い)


…気づかれた方もいらっしゃるでしょう。
そう、信長が本能寺の急変により自害する直前、まさしく天下に覇を唱えようと王手をかけていた時の領土を、秀吉はほぼ引き継いだことになります。
織田家の血筋を引くひとり信孝は、同じく織田家の信雄によって切腹させられていました。
裏で秀吉が糸を引き、いわば織田家中で同士討ちをさせたのです。




天正11年9月。
天下取りへの布石として、秀吉は一大パフォーマンスを行います。


豊臣大阪城(模型)500


約1年半後にほぼ完成する、豊臣政権の拠点。
その城を、この時期に秀吉は着工しています。
実は、信長もこの地の重要性を十分認識しており、石山本願寺を攻略した後、拠点を安土からこの難波の地に移すことを考えていたと言います。
亡き信長に代わって、大坂に城を築く。
それは、

「信長の天下取りの覇道は、この秀吉が引き継いだ。
 自分こそが天下の盟主である」


その自らの意志を全土に周知させる、秀吉お得意の演出劇。
天下統一が、現実のものになりつつあったのです。






一方の、徳川家康。
信長暗殺を成功させた明智光秀がもっとも恐れたのが、この家康だったと言われています。
家康は信長の家臣でなく、形式上は信長と肩を並べる同盟者であった。
つまりこの段階で、光秀や秀吉、勝家など信長旧家臣団とは、格がひとつ上であったのです。

光秀に命を狙われた彼は、伊賀越えの逃避行の果てに、命からがら本国の三河に逃げ帰るのが精一杯でした。
スタートダッシュが取れなかった彼は、その後行われた信長の遺領争いでは、傍観を決め込みます。

「果報は寝て待て」

いや、彼は、ただただ何もせずにぼーっとしていた訳ではないでしょう。

「果報は練って待て」

もともとは、この語句が「寝て待て」に変わったと言われていますね。
「練る」、つまり、来たるべき時に備えて、熟慮する。
実際彼は、秀吉が勇躍する姿を横目で見ながら、旧武田家遺領の信濃・甲斐を攻略し、すでに滅亡していた武田家の家臣を大量に召し抱えています。


家康勢力圏(小牧長久手の戦い)


「行動」の秀吉に対し、「我慢」の家康。
あらゆる可能性に対して万全の準備を怠らず、時が来るのをじっと待っていたのです。







そのふたりを戦に導く、いわば媒介となった人物がいました。


織田信雄


秀吉と結託して弟の信孝を追いつめ、遂には切腹させた非情の行為。
それはひとえに、自分自身が織田家の後継者になるためでした。
しかし秀吉は、その自分を差し置いて、信長の領土を我がものとしようとしている。
自分が秀吉に利用されていただけだったと知って憎しみを募らせる信雄ですが、単独で秀吉に対抗する力は持ち合わせていない。

頼るべき相手を間違えた。
そう反省した彼が、秀吉の周囲に目を配ると、まさにうってつけの人物がいました。
旧信長組織内においては秀吉より格上で、かつ、秀吉より誠実そうな男。
そう、徳川家康です。

彼は、家康に対して、一通の書状をしたためます。
「今こそ時節到来である。共に立ち上がって、秀吉を討ち果たそう」
と…

________________________________________________________

天下取りは、椅子取りゲームのようなもの。
弱い人間から徐々に脱落してゆき、最後、ひとつ残った天下という椅子を、最強の二者が奪い合う。
しかし、ここで例外が起こります。
周囲の諸勢力である、長宗我部氏・毛利氏・上杉氏などを差し置いて、この当時の二強であった秀吉と家康が、直接対決するという驚異の化学反応。
その触媒になったのが、織田信雄。
しかし、信雄という個人の力でなく、織田信長の血統にこそ、その意味がある。


信長の亡霊に操られるが如く、ふたりは近隣の小領主から周辺の諸大名までをも巻き込み、頂上決戦を行うのです。
狙うは、天下の椅子。
その勝者が天下の盟主となり、その敗者が勝者の部下に甘んじる。
交わってはいけないこのふたりが激突する瞬間が、訪れつつありました。






(主な参考資料)
その時歴史が動いた「秀吉・家康 たった一度の直接対決」~天下取りの知恵くらべ~(2001年)

戦国合戦大全 (下巻) (歴史群像シリーズ (51))



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関連記事

天下取りの前哨戦

2011/04/14(Thu)21:22

こんばんは。こちらにもコメントさせて頂きたく参上しました。


もしかしたら(しなくても)レベル低い発言しか出来ないかもしれませんが


どうかお目こぼしの程を


まさに、天下取りの前哨戦である

秀吉vs家康の水面下・直接対決までは


あの手この手
手を変え品を変え
迫り来る秀吉を


のらりくらりかわす家康という


印象が個人的にあります。


小さい傷だが
それとは気づかせず、致命傷を与えるという表現
非常に的を得ていて、頷きながら拝見しました。気が付いたら、首根っこ掴まれていた…それが猿の恐ろしいところではないかと思います。



信長亡き後の流れを考えれば、家康は
天下取りの第一歩が大きく出遅れた形にはなりますが


秀吉の猛攻に応戦しながら、しかるべき日のために着々と
段取りを進めていたバイタリティーは流石ですよね。


ちなみに、私は家康&秀吉&信長があまり好きではありませんが、三人三様…タイプは違えど、やはり天下取りを目論むだけあって、他の大名や武将とは一線をかくすものがありますね。


江で時系列が全く解らず混乱している方に、是非こちらのブログをお薦めしたいです。


名前:YU-KI (URL) 編集

Re: 天下取りの前哨戦

2011/04/16(Sat)12:12

> まさに、天下取りの前哨戦である
> 秀吉vs家康の水面下・直接対決までは
> あの手この手
> 手を変え品を変え
> 迫り来る秀吉を
> のらりくらりかわす家康という
> 印象が個人的にあります。

そうですね。
さらに「天下取りの戦い」という意味では、小牧・長久手の戦いは結果的に規模こそ小さかったものの、意義としては関ヶ原の戦いに匹敵するほどの重要な位置づけだと思います。


> 小さい傷だが
> それとは気づかせず、致命傷を与えるという表現
> 非常に的を得ていて、頷きながら拝見しました。気が付いたら、首根っこ掴まれていた…それが猿の恐ろしいところではないかと思います。

あの表現は、最初書いたときはついていなかったのですが、ふとした時に「鳴かぬなら…の歌と合わせて入れたら、おもしろくなるのでは」と考え、あとで入れたものです。
モノ書きでは、何度も推敲するのが大事ですね。


> ちなみに、私は家康&秀吉&信長があまり好きではありませんが、三人三様…タイプは違えど、やはり天下取りを目論むだけあって、他の大名や武将とは一線をかくすものがありますね。

珍しいですね!
僕は、好き嫌いの前に、大阪生まれの大阪育ちということもあり、歴史に触れる前の小さいころから「太閤さん」の秀吉はなじみのある存在ですね。


> 江で時系列が全く解らず混乱している方に、是非こちらのブログをお薦めしたいです。

ぜひ紹介してください!
お願いします!!(必死)

名前:TV-Rocker (URL編集

珍しいですか?

2011/04/17(Sun)22:26

こんばんは、地元の偉人に親しみを覚えるお気持ち良く解ります。

私も龍馬さんに親しみながら育ちながら

成長して京都に墓参りした瞬間、アンチ龍馬になりました。地元や日本を大事に思うなら、あえて龍馬を安易に持ち上げてはならぬみたいな気持ちになりまして。所詮、龍馬は過去であり、死者。未来への頼みにはならないと。


私みたいな、アンチになった人間ならともかく


今も親しんでらっしゃる、TV-Rocker様に対してまた無礼を働いてしまいましたね。ごめんなさい。


やっぱり珍しいですか…多分それは、私が隠された歴史を暴くのが好き・今の日本史はあくまでも勝者視点の歴史であり
敗者・滅びゆく者たちから見れば


また違ったものになるだろうと思いまして


当たり前かもしれませんが、歴史というものは
勝者・敗者
未来への道を勝ち取った者・滅びゆく者

その二点をきちんと合わせないことには
歪な絵しか書けないような気がして


滅びゆく者たちの気持ちを考えると


信長・秀吉・家康の三人を持ち上げる気にはなれないんですよね、何となく。



信長に関しては、貴重な文化財燃やしてくれた私怨もありますが


秀吉は、晩節汚したところが…お前がもっとしっかりしてれば、無駄に血はそこまで流れなかっただろうにとか


家康は、基本的に何回か大きなドジしてても
致命的な隙はないんですよね、このオッサン
だから苦手みたいな


そんな理由です

名前:YU-KI (URL) 編集

Re: 珍しいですか?

2011/04/19(Tue)02:54

> 私みたいな、アンチになった人間ならともかく
> 今も親しんでらっしゃる、TV-Rocker様に対してまた無礼を働いてしまいましたね。ごめんなさい。

いえいえ。
僕も、秀吉に親しみを感じるといっても、あくまで、天下を統一して、太閤検地などの国を豊かにする政策を勧めていった頃までですから。。。
朝鮮出兵などはとんでもない蛮行で、晩節を汚したと思っています。
信長も秀吉も、晩年近くは後味悪いですね。
家康は、天下「盗り」のための豊臣に対するあてつけではめちゃくちゃしましたけど、まあ、260年の基礎を作ったので、プラマイゼロかなと。

どんな偉人であっても、欲や怒りにまみれた凡夫である以上、100%の聖者は存在しないですよね。
それでも、僕の中では、やはり3人とも英雄ですけどね。


P.S.
滅びゆく者に心を寄せるというのは、日本人ならではの美意識で、すごく美しい感情だと思います。
YU-KIさんが、医療関係のお仕事をされているということにも、関係しているのではないかと。
「負けている人を弱しと思うなよ 忍ぶ心の強きゆえなり」ですね(^^)

名前:TV-Rocker (URL編集

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