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賤ヶ岳の戦い(3)~大垣大返し~


天正11年4月20日。
日が落ち、奇襲部隊の戦は収束しかかっていました。
付近一帯を制圧した佐久間盛政は、野営の準備を始めます。

「明日の早朝、秀吉軍の防御柵に後方から総攻撃をしかける。秀吉が戻ってくるであろう正午ごろまでに戦闘を終え、本隊と合流すれば、我らの勝利は疑いようのないものになろう」

彼は明日の戦に備え、まずは体を休めようとします。


しかしこの時、すでに佐久間軍、ひいては勝家軍は、風前の灯火であったのです。
命令を無視して野営を始めた佐久間盛政に対して、
勝家は「小僧、わしを切腹させる気か…」とつぶやき、
佐久間軍が奇襲をかけ続けているという報を受け取った秀吉は、
「この戦、わが勝利なり」と狂喜したと言われています。

両者の言葉に象徴されるように、ふたりの運命は決することになるのです。




大垣大返し


山々に、明かりが灯されてゆきます。
徐々に近づいてくる、無数の松明の群れ。
それは、どこにいても両軍からはっきり見えるほどのものだったそうです。


地獄の炎

秀吉陣営からは希望の光に見えたその松明の群れは、勝家陣営にとっては、まさに地獄に引きずり落とす死神の炎。
佐久間盛政は、ここからが本当の戦が始まると悲壮の覚悟を固めます。
当初予定していた攻撃戦でなく、地獄の撤退戦が始まるのです。




秀吉の電撃作戦。
13里(約52km)をわずか5時間で駆け抜けるという神速で、奇襲部隊を逆に奇襲したのです。
まさに、中国大返しの再現。
後世、

「大垣大返し」

と言われているものです。
大垣から長浜平野に到るまではほぼ上り勾配。そのような条件の中、1日限定とはいえ、1日に40kmを進んだ中国大返しを上回るスピードで行軍したことは驚嘆に値します。

中国大返しの成功によって、秀吉は学んだのだと思います。
常識をくつがえすスピードでの行軍が、いかに相手方に大きな動揺を与えるかを。
それによって、どれほどこちらが優位に戦いを進められるかを。

今回の大返してでも、2回分の替え馬・大量の水・食料・松明などを手際よく手配できたことが、この強行軍を成功させた最大の要因になっています。
中国大返しの際、石田三成をはじめとする優秀な事務官の手際の良さによって成功させることができた背景があったように、今回も、名もなき多くの有能な事務官によって、物資の手配が滞りなくなされ、この行軍を成功させたのです。




さて、大返しの勢いそのままに、秀吉軍は自陣深く入り込んだ佐久間盛政・柴田勝政の軍に反転攻勢を仕掛けます。
全軍突撃。
ありったけの部隊を投入しての、奇襲部隊殲滅の一大作戦。
有名な「賤ヶ岳七本槍」の話は、この時に生まれました。

それでも猛者・佐久間盛政は、必死に善戦を続けます。
ここで討たれるわけにはいかない。
死ぬるのは、叔父上の前で自らの愚を認め、切腹するときだ。
そういう思いがあったのかもしれません。




…しかし、その思いは、この男によって絶たれました。

前田利家


奇襲部隊の後詰めとして、佐久間盛政ら先鋒部隊の救援をしなければならない立場。
しかし前田利家は、軍勢を逆方向に進めます。
戦線離脱。


賤ヶ岳の戦い・前田利家の戦線離脱


秀吉とも縁が深かった彼は、かつて勝家と秀吉との間で形式上の和睦を成立させるために、秀吉と接触したことがありました。
この時に、秀吉に言い含められるところがあったのでしょう。
「戦には、勝機というものがある。この秀吉に、そなたの真心を見せて下され」
と…
そして秀吉は、そのことも織り込んだ上で、大返しを強行させたとすれば…


こうなれば、勝家とは戦の種類が違います。
柴田勝家は、戦の中で戦の決着をつけようとする。
それに対し、秀吉は、戦の外で戦の決着をつけようとする。

勝家と秀吉。
「戦上手」「戦下手」といっても、それは戦場に赴いてからの話です。
株式の時間外取引のような、あるいはマフィアが警察官を買収するような、そういったことを躊躇なくやれる人間と、そうでない人間がいる。
秀吉は、勝家の考える「戦の常識」をあざ笑うかのように、完全なる変化球で勝利をもぎ取ったのです。





勝負はつきました。
あとは、石が坂道を転がり落ちるのを眺めるように、相手が潰走するのを待つのみ。
時が経てば、秀吉のもとに勝利が転がり込んでくるのは明らかでした。
後ろ盾を失った佐久間盛政らは軍としての規律を失い、兵は討ち取られるか四散するかで、事実上、壊滅します。
総力の半数を投入した奇襲部隊が全滅したことで、浮き足立った勝家本陣からは脱走者が続出。
3000ほどに減った上に、左から、右から、前から、容赦ない攻撃が加えられ、ここに、勝家軍は敗退するのです。


北ノ庄城、炎上


4月24日。
北ノ庄城に落ち延びた柴田勝家でしたが、総力戦に敗れた彼にもはや立ち直る力は残されておらず、この日の夕方、市とともに自害。
北ノ庄城とともに、炎の中に消えてゆくのです。

勝家の最期は、織田家の最期を暗示する出来事でもありました。
目の上のこぶを取り除いた秀吉は、いよいよ、天下への野望をむき出しにしてゆくのです。

________________________________________________________

柴田勝家の敗北は、彼のような愚直な戦がもはや時代に合わなくなってしまったことを象徴しているような気がします。


清洲会議以降、秀吉を出し抜こうと彼が繰り出す作戦は、ことごとくその裏を突かれています。
清洲会議を企画したが、裏をかかれて、秀吉に三法師を擁立させられてしまう。
偽りの和睦を提案したが、裏をかかれて、秀吉に長浜城を奪われてしまう。


秀吉の不気味さをイヤというほど分かっていた勝家は、だからこそ、奇襲作戦に反対したのです。
秀吉は、並の策が通じる人間ではない。
策には、それ以上の思いもよらない策で対抗してくる人間。


「奇策を以て奇策を制する」
秀吉は、戦国の歪んだ世が生み出した一流のペテン師。



勝家は、そのことも知っていたはず。
それでも奇襲を許可したのは、甥の佐久間盛政の熱意というか、情に動かされたからでしょう。

戦に敗れて北ノ庄城に帰る途中、前田利家の陣地に立ち寄った勝家は、
「そなたは秀吉とは親交があったから、秀吉とはうまくやっていくんだぞ」
とのみ言い、彼の行為を一切咎めなかったと伝えられています。
前田利家が、かつて信長の命により北部方面軍の「応援」として勝家指揮下に入った武将であり、純粋な勝家配下ではなかったことを差し引いたとしても、この態度は立派だと思います。
人間としての勝家は、まことに高潔な武将であったのでしょう。





戦国とは、非情の世の中。
まともな人間ほど、あっけなく死んでゆく。
つまらない人間ほど狡猾に動きまわり、しぶとく生き残る。
そして、もっともしぶとく生き残った最後の人間が、天下を盗り、幕府を開いた。


「賤ヶ岳の戦い」は、ヒーローたちの戦国絵巻に一石を投じる戦いでもあると思います。






(主な参考資料)
その時歴史が動いた「羽柴秀吉・なぞの敵前退却」~賤ヶ岳の合戦・勝利の秘策~(2001年)

戦国合戦大全 (下巻) (歴史群像シリーズ (51))



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勝家

2011/03/28(Mon)03:26

勝家の利家への言葉の逸話に関心させられました。
大河ドラマコメントよりも、むしろこちらの路線の記事が楽しみです。

名前:resp (URL) 編集

Re: 勝家

2011/03/29(Tue)01:45

はい、僕も、大河ドラマの感想より、関連記事の方が気合入れて書いています(笑)

…って、大切なことを言うのが遅れました。
ありがとうございます!
そう言ってもらえると、本当に励みになります。
時間かけて作った甲斐がありました。


大阪の陣終結までの長い道のりですが、どうかお付き合い下さい。

名前:TV-Rocker (URL編集

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