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続・龍馬伝 (13)無血開城への道~(転)新政府首脳会談~


龍馬伝第4部タイトル(雲の



『災い「転」じて福となす』

西郷は、変わりました。
もしくは、何も変わっていないのかも知れません。
怨恨の鬼となり、江戸城総攻撃の実務上の総司令官として、鉄の仮面をかぶっていた西郷。
あるいは、その仮面が単に取れただけなのかも知れない。

西郷隆盛を動かしたことによって、無血開城への道は大きく開かれます。
とにかく彼は、江戸城総攻撃の中止を決定し、勝の提示した条件を話し合うべく、京の新政府首脳の元へと向かいます。
いや、形の上では「話し合う」となっていますが、彼の心のなかでは「認めさせる」に変わっていたのかも知れません。
これを変節(=変り身が早いこと)と取るか、純粋さと取るか。
僕は、西郷のいわば少年のような純朴さに、勝海舟の言葉が響いたのだと思っています。






太政官(二条城バック)


古代律令制の言葉をそのまま用いた「太政官」を政府の称号として使っていた新政府。
「政府」という言葉を使うのがはばかれるほど、まだまだ組織としては未熟でした。
しかし、その面々は、日本の行く末を真剣に考える人が集まっていたのです。


だからこそ起きる、激しい衝突。
お互いの「正義」を貫こうとする面々が、西郷の提案に対して意見を衝突させます。


【第13回】無血開城への道(転)
     ~新政府首脳会談~



3月20日。
新政府の首脳7人が集まります。現代でいう「内閣首脳会談」です。


三条実美
岩倉具視
大久保利通
木戸孝允
広沢真臣
(ひろさわ・さねおみ)※長州藩幹部
後藤象二郎
西郷隆盛



議題はただ一点、勝の降伏条件を受け入れるか、否か。
特に問題になったのは、やはり、徳川慶喜の処遇についてでした。


真っ先に反対したのが、岩倉具視と、大久保利通。
いわゆる新政府内でも「急進派先鋭」として名の通ったふたりは、慶喜は徳川幕府そのものであり、彼の切腹を果たさなければ、新しい日本は開けないと強く主張します。

古いものは根本から斬り捨て、永久に葬り去らなければ、この国を新しく生まれ返させることはできない。
生きている者に「生まれる」ということはないではないか。
日本は、一度死なねば、生まれることはできないのだ。



かつての西郷も大久保らと意見を共にしていただけに、この主張には、西郷に重くのしかかるものがあったに違いありません。
さらに、基本的には無口な西郷には、大久保・岩倉の弁舌に太刀打ちする術は持ち合わせていませんでした。
会議の流れは、必然的に、大久保・岩倉ペースで進んでゆくように見えました。




その時、西郷の意見こそもっともであると同意した人物がいました。

木戸孝允

幕末期の桂小五郎その人です。
彼は、おもむろに口を開きます。


おふたりは、慶喜を切腹させねば新しい日本を作れないと言う。
反乱する旧幕府軍なぞ、捻り潰してしまえと言う。
しかし、あなた方は、本当の敵を見誤っている。


我々が本当に注視しなければならないのは、旧幕府でなく、世の人々である。


考えてもみよ。
我々が慶喜を切腹させれば、世間はどう思うであろうか。
「彼らは、口先では新しい国家づくりだと言っているが、結局は関ヶ原以来の徳川家への恨みを晴らしたかっただけではないのか。
 奴らの目は所詮、自分の藩だけに向いていて、他の人達のことは何も考えていなのだ」

そのように思われている状態で、果たして我々が新しい国家を建設できるのか。
我々の目指す統治を全土に徹底させることができるのか。


木戸の言葉(新政府首脳会談)




トップダウンで何から何まで進めてゆこうという大久保や岩倉に警鐘を鳴らし、民の身になって物事を考えてみるべきである、と訴えます。
その上で、慶喜を許すことは、新政府が及び腰になっていることを意味するのでなく、旧幕藩体制の利害を超えた新しい国家を真剣に作ろうとしていることを全土に示すことになる、と、寛容論を説くのです。

弁別さわやかな木戸の前に、大久保・岩倉は黙するより他ありませんでした。
彼の意見が通り、ここに、新政府の基本方針が決定するのです。


降伏条件2.(300)

________________________________________________________

家臣「徳川討伐はいかがなさいますか」
藩主「まだ、時期尚早である」

関ヶ原で破れて以来、長州・萩の片田舎に押し込められていた毛利家。
その後、毎年の正月で、家臣と藩主の間で討幕の機をうかがうことが慣習となっていたという逸話があります。
話の真偽は不明ですが、言い換えれば、それだけ長州藩が徳川家への恨みを募らせていた表れではないかと僕は思うのです。


幕末期、吉田松陰の松下村塾で教えを受けた門下生たちが、長州を勇躍させるべく試みるも、「八月十八日の政変」「下関戦争」「池田屋事件」「禁門の変」と、立て続けに起きた事件により、長州は半壊状態となります。
薩長同盟がなければ、第2次長州征伐で、おそらくは全壊していたでしょう。
いずれの事件も、徳川幕府によって、長州はいたぶられ続けてきたのです。
長州人にとって、幕府への恨みは、彼らの心のほとんどを占めるほど堆積していたに違いありません。


その思いを胸に、長州藩は不死鳥のように蘇った。
禁門の変からわずか4年。どん底にあった長州人の誰が、自分の生きている間に維新が実現することを予期し得たでしょう。



日本中の誰よりも徳川家を憎んでいた長州藩。
しかし、その恨みのままに慶喜を殺せば、江戸の旧幕府軍との戦闘が再発し、事態は、鳥羽伏見の戦い以前にまで戻ってしまいます。
もはや、歴史の針を逆行させることはできない。
長州代表である木戸孝允が慶喜寛容を貫いたことは、長州の中で、260年間の途方もない恨み以上に、新しい日本を望むエネルギーが勝っていた証拠ではないでしょうか。



いずれにせよ、それを言葉に出して表した木戸の英断であると思います。
この決断により、維新の後戻りは免れ、江戸城無血開城は最終局面を迎えるのです。





(主な参考資料)
その時歴史が動いた「勝海舟」~江戸城無血開城はなぜ実現したか~(2003年)
幕末史(半藤一利著)
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)



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