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続・龍馬伝 (11)無血開城への道~(起)西郷・山岡会談~


龍馬伝第4部タイトル(雲の



東山道総督府の別働隊が甲陽鎮撫隊と激突して「甲州勝沼の戦い」が起ころうとしてしたその時。
東海道鎮撫隊はいよいよ駿河(現在の静岡県)の地を踏みます。
江戸までおよそ150キロ。
箱根の山さえ越えれば江戸城は射程圏内という、ギリギリのライン。


江戸城総攻撃へのカウントダ



慶応4年3月5日。
東征大総督(=徳川討伐軍の名目上の総司令官)である有栖川宮が駿府入り。
徳川家発祥の地である駿河は、徳川打倒の新政府軍によって埋め尽くされ、あとは徳川の本拠地である、江戸を攻めるのみ。

翌日、東征軍の会議が開かれ、重要事項が決定します。
江戸城総攻撃の日付、現代でいうD-デイです。

3月15日


この日が、江戸が血の海になる日となるか否か。
4月11日の江戸城無血開城までの道のりを「起・承・転・結」に沿って書いてゆきたいと思います。


【第11回】無血開城への道(起)
     ~西郷・山岡会談~



この情報は、江戸城の勝海舟の元にも入ります。
勝は、動きます。

今まで、江戸城内の抗戦勢力を城外に出し、無慈悲に切り捨てたのは、この時のためであった。
恭順路線の断行、抗戦派に対する仕打ちなどから、勝を恨む人間は江戸城内に数多くいた。
命を狙われ、彼を狙った暗殺事件(発砲事件)まで起きているのです。

そこまでの覚悟を決めて彼がこだわったのは、江戸城を巡る武力衝突の回避。
その意志を、西郷まで伝えなればすべては始まりません。
彼は、自らの思いを、一通の書状にしたためます。


勝海舟の手紙2



この書状を、何としてでも西郷の元に届けねばならない。
勝は、ひとりの人物にこの大事を託します。


山岡鉄舟(新選組!)
(『新選組!』より)


勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される人物。
その本性は、剣術の達人にして、性根の座った乱暴者。
勝海舟は、高橋泥舟の勧めでこの男を紹介され、この時初めて対面するわけですが、見た瞬間に「この男はデキる、今回の役目にピッタリだ」と思ったそうです。

何しろ、単身、江戸討伐軍15万の本隊に乗り込み、実質的な総大将である西郷隆盛と直談判をするのです。
よほど肝の座った人間でなければ、できることではありません。


山岡鉄舟33才。
この血気盛んな侍は、勝の使命を自分の命と心得、堂々と敵中を通過し、3月9日、西郷と面会するのです。
場所は、駿府にある松崎屋という料亭。



西郷・山岡会談


山岡鉄舟は、この時、涙ながらに幕府の立場を述べたと言われています。

「あなた方は官軍である。今や、我々は賊軍である。
 それを我々は非難するつもりはない。
 しかし、その正義を振りかざして、あなたがやろうとしていることは何であるか。
 あなた方は、徳川家を力でねじ伏せ、慶喜様をひっとらえ、
 お殿様が首を斬られるか、切腹させられるか、それをいい気で眺めるのだろうが、
 我々幕臣にとって、そんなことは許すことはできないのである。
 たとえば島津侯がそういう立場になったとき、西郷さん、あなたは黙ってにこにこ
 見ていられますか」



「自分たちの立場を我が身に引き当てて考えてほしい」と、切々と訴えたのです。
その上で、西郷の立場もよく理解し、お互いの折り合うところで降伏条件を出してくれないか、とお願いするのです。


西郷は、そもそも情の厚い漢(おとこ)です。
今や東征軍の総指揮官となり、その立場上、鉄の仮面をかぶっていますが、しかし彼の内側には、情に厚く正義を貫く薩摩の血が色濃く流れている。
死を覚悟してただひとり敵陣に乗り込んできた。それも己のためでなく、徳川家のために。
殺気立った敵陣に徳川の人間が乗り込んできたとなれば、問答無用でいつ斬り殺されてもおかしくはなかったのです。




翌10日の夜、勝の元に山岡が帰ってきます。
馬を乗り継ぎ、必死の思いで駆けてきたのでしょう。
手には、西郷からの降伏条件が握られていました。


巻物(最初の降伏条件)300


________________________________________________________


勝海舟が、そこまでして江戸城総攻撃を防ぎたかったのは、なぜなのでしょうか。
江戸に帰った慶喜に恭順を勧めてからの一連の流れだけを見ると、慶喜と徳川家を救うために勝は尽力したように思われがちですが、それだけではない。
彼には、もっと大きな『国家構想』というものがあったのです。


それを理解するためには、8年前まで時を遡らねばなりません。
咸臨丸で、勝は初めてアメリカの地を踏み、そこで、彼の思想を大転換させる政治形態を目の当たりにします。
すなわち、国民による選挙によって選ばれる大統領と、民衆のためになされる政治。
勝は、目を見開かれます。
「これこそが、理想的な国家のありようだ」


藩が国家そのものであった世の中にあって、彼の頭の中には、藩や将軍の区別は吹っ飛び、「日本国民」のための「新国家像」が常に意識されていたのです。
現在の尺度でいうと、日本が…中国が…アメリカが…といがみ合うのでなく、「地球全体の利益」というグローバルな視点を持っていた、ということに匹敵します。
この時代にいち早く「国民国家」という概念を形成していたのは、勝海舟ひとりであったと言われています。



『江戸城無血開城』は、自分のためでもなければ、将軍・慶喜のためでもない、もちろん薩長のためでもなければ新政府のためでもない。
彼の言葉を借りれば

「天下の公道」

のために、その理想的な国家づくりのために、彼は命を賭けたのです。




(主な参考資料)
その時歴史が動いた「勝海舟」~江戸城無血開城はなぜ実現したか~(2003年)
幕末史(半藤一利著)
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)



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