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清洲会議~秀吉の根回し戦術~


前回の記事で、江に地図が出ないことを批判しましたが、今回は出ましたね。
信長に関わった有力大名の居城として出されたのですが…


各城の地図

超アバウトです。

「なんとか城」と囲ってある付近に城があるのでしょうが…
見る人によって、少なく見積もっても10キロ程度の誤差は簡単に出そうです。
「場所なんて、そんなものテキトーでいいのよ。ドラマをしっかり堪能してくれよ」
と言わんばかりですが…
いや、そのドラマの内容が一番テキトーだから視聴者は困ってるのよリラックマ18「もやもや」




…さて、気を取り直して、今回の主題に入ります。
記事を分けるいい場所がなかったので、少し長くなりましたが、お付き合い下さいませ。



山崎の戦いから2週間後。
かつての信長の重臣が集まって、会議が開かれました。


清洲会議


信長のかつての本拠地である清洲城で行われたので「清洲会議」です。
ちなみにこの清洲城、上の超アバウトな地図では分かりにくいのですが、尾張の本拠地だから、てっきり現在の名古屋市にあるのかと思いきや、そうではありません。

清洲城と名古屋城の位置関係3

当時、名古屋という町は存在していませんでした。
1610年頃から、主には豊臣勢力に対する防衛上の理由から、徳川家康の命により、尾張の拠点を清須城から名古屋城に、城下町ごとゴッソリと移転したのです(Wikipedia「清洲越し」参照
「清洲に巣食う信長の影響力を排除する」という裏の意味もあったのでしょうか?
それにしても、家康は思い切ったことをしたものです。
昨年は名古屋が誕生してちょうど400年ということで「名古屋開府400年祭」が催されたようです。



少し脱線しました。本題に戻ります。

さて、その会議に集まったのは、上の画像にあるように、わずか4人。
もうひとり、参加予定であった滝川一益(たきがわ・かずます)は、関東にて北条氏に敗れ、会議に参加するどころではありませんでした。この時点で、彼は出世レースから脱落します。
会議の議題は

跡目相続
(信長の跡取りを誰にするか)

遺領分配
(信長がかつて治めていた土地を誰にどう分配するか)


つまり、信長の遺産相続のようなものです。
当人の問題であるはずの信雄・信孝兄弟は、お互いにいがみ合っていることなどを理由に会議には参加できず、蚊帳の外。
この段階で、遺産相続の決定権は、この4人に絞られたことになります。


その結果は、ドラマでもあったように、信長の孫である三法師を推した秀吉の独り勝ちとなります。
…が、そこには、秀吉の泥臭い政治劇が隠されていたのです。
今日のテーマは、

秀吉の根回し戦術


「根回し」とか「根回し政治」というコトバを聞くと、我々はどうしても胡散臭いイメージを持ってしまいがちですが、本来、政治というのはそういうものなのだと思います。
オバマ大統領が保険制度改革の法案を通せたのも、根回しの力。
民衆党は、根回しがまるでヘタなので、ひとつの法案も通すことができず、約束を全然果たさないから、国民のイライラは募るばかり。
「根回しのできない人間には政治家は務まらない」
これはある意味、真理のような気もします。


秀吉は、それが巧みであったが故に、天下を取れたとも言える。
今回は、清洲会議での秀吉の行動を追いながら、彼の根回しの巧みさを見てゆきたいと思います。

________________________________________________________

今後の説明文の中で重要ですので、まず信長の家系図を見て下さい。
(分かりやすくするため、跡継ぎに関係ない部分は除いています)

信長家系図300


それを踏まえて…


そもそも清洲会議の主催を提案したのは、秀吉ではありません。
柴田勝家です。

嫡男(ちゃくなん=跡取りとなる長男のこと)の信忠が本能寺で亡くなった以上、跡取りの候補は次男・信雄か三男・信孝のいずれかであると、勝家は考えていた。
いや、勝家だけでなく、信長の跡取りに注目するほとんどの人間は、この2人に注目していたのは間違いありません。
柴田勝家は、2人のうち三男・信孝と組み、自分が主催した清洲会議で、信孝自身を後継者に推そうと策を練ります。
信孝は前の記事でも書いたように、山崎の戦いで名目上ではあるが総大将として戦い、光秀に勝利した人物です。
その優位は、信雄を凌ぐのに十分であろう。

さらに、会議に参加するであろう丹羽長秀は信孝の副将として山崎に参陣し、同じく会議参加者の池田恒興、羽柴秀吉も彼の下で山崎の合戦を戦い、勝利した。
彼の擁立に反対する大義名分はどこにもないはずだ。
もし秀吉がかんしゃくを起こして信雄を擁立したとしても、丹羽・池田両氏が賛成するはずがない。
そのように、勝家としては、必勝の戦略をもって会議に臨んだはずです。



しかし、秀吉は、勝家の想像を絶する、とんでもない秘策を練っていました。
それは、当時まだ3才の三法師の擁立。
元服の年齢である15才に達していないばかりか、世の中のことなんて何も分からない3才という年齢を考えて、勝家はじめほとんどの武将は常識的に三法師を跡取りの候補から外していました。
秀吉は、その盲点というか、隙間を突いたのです。

秀吉は、清洲会議の開催が決まった瞬間から、裏工作を始めます。



まず、三法師の身柄確保。
秀吉にとって掌中の珠ともいえる三法師は、当時、岐阜城にいました。
秀吉は配下の前田玄以を使って、この珠の子を岐阜城から清洲城にのがれさせます。
秀吉は清洲城でこの幼な子を迎え、完全に手なづけてしまうのです。


さらに、丹羽長秀・池田恒興の取り込みを行います。

まずは、丹羽長秀。
もともとは信孝派であった丹羽長秀に秀吉は勝家に気付かれぬように接触し、「あなたは山崎以来の信頼のできる戦友ゆえ、特別に打ち明けよう」と自らの秘策(三法師推戴案)を打ち明けると同時に、協力を打診します。
「あなたがこの秀吉側につくことが分かれば、池田どのは必ずこちらに傾くに違いない。
 そうなれば、我々が3対1で会議の主導権を握ることができる。そこで…」
秀吉お得意のひそひそ話。
決め手になったのは、「私の意見が通った暁には、協力の見返りとして、信長公の遺領のうち、勝家より多い若狭と近江2郡があなたのものになるよう手配しましょう」という、裏取引だったと言われています。

続いて、池田恒興。
秀吉は、丹羽長秀が自分の側についたことを伝え、揺さぶりをかけます。
「あなたが仮に柴田どのについたとしても、光秀討伐の功労者である私と丹羽どのが口をそろえて三法師を推せば、会議の流れがどうなるか、おのずと分かろうもの。
 それでもあなたが敗者の側につくとおっしゃるならば、私は止めはしない。よくよくお考えなされ」
丹羽長秀の口添えもあり、揺れる池田恒興は、最終的に秀吉への協力を約束します。


ここまでの根回しを行いながら、何事もなかったかのように、涼しい顔で秀吉は会議に臨むのです。

________________________________________________________

会議当日。
秀吉は、三法師を両手に抱いて出席します。
今後の会議の流れを予測した上での秀吉の演出であったことは、言うまでもありません。


会議は、柴原勝家の信孝推戴の主張から始まるのですが…
勝家の主張を「それでは筋が通らぬ」と批判した秀吉は、自らの意見を大上段に述べるのです。


三法師を推戴する秀吉


そこに、何食わぬ顔で丹羽長秀が意見を述べます。


丹羽長秀(清洲会議)


そうなんです。
信長の正室である濃姫との間には子がなかったため、信長の子はすべて側室との間にもうけた子なんですね。
それもあって、信長は、嫡男・信忠を跡継ぎと決めてから、信孝・信雄を養子に出し、他家を相続させていた。
当時の考え方を忠実に守ると、他家を継いだものに相続権はありません。

さらに、池田恒興が追い打ちをかけます。


池田恒興(清洲会議)


信長はすでに、家督を信忠に譲っていました。
その信忠の立場から考えると、彼の嫡男である三法師を跡継ぎにするのは筋が通っています。

なおも幼少を理由に渋る勝家に対し、秀吉は一喝。


無礼でござるぞ!(秀吉)


さらに、丹羽・池田両氏から、
「信長公の仇討ちの功労者は、羽柴どの。ここは羽柴秀吉どののご意見を通すのがもっともだと存ずる」
と山崎の合戦のことまで持ち出されては、北陸戦線を離れることのできなかった勝家には、もはや返す言葉を持ち合わせていませんでした。


裏取引のことはおくびにも出さず、何食わぬ顔でお互いの意思疎通を図った3名。
会議の出席者全員に反対されては、さすがの勝家も、信孝推挙を撤回せざるを得ません。
そして、自然の成り行きで、三法師が世継ぎと定まったのです。


すべては、秀吉の描いたシナリオ通り。
丹羽・池田両氏は、秀吉から手渡された台本通りセリフを述べ、秀吉脚本のドラマを見ているかのように、会議は進んでいったのです。
ひとり、台本のない勝家は右往左往するのみ。

こうなると、会議は完全に秀吉ペース。
その後の信長の遺領分配でも秀吉が会議をリードし、丹羽長秀・池田恒興は、当初の約束どおり、希望の地を手にいれます。
柴田勝家は、自分が戦で手にした越前の他に、秀吉の長浜城を手にしただけのカスのような成果しか手にできませんでした。
対して秀吉は、山城・丹波・河内、つまり京都と大坂という畿内の中心部を手に入れ、信長の遺領のおいしいところを独占します。



このように、秀吉の独り勝ちとなった清洲会議の結末。
それは決して偶然ではなく、秀吉の綿密な根回しの結果であり、会議が始まる前に、すでにその勝負は決していたとも言えます。
対して、完全に叩きのめされた柴田勝家。
彼はそのまま秀吉に臣従するような気性の持ち主ではありません。

両者の対立が、やがて「戦」という形になって表面化するのは、そう遠くないことでした・・・






(主な参考資料)

戦国合戦大全 (下巻) (歴史群像シリーズ (51))



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