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続・龍馬伝 (9)大坂行幸


龍馬伝第4部タイトル(雲の



昨年、奈良で「平城遷都1300年祭」が開催されました。
平城京に都が移され、1300年も経ったのですね。
※「せんとくん」というマスコット(あんまり可愛くない)が一時、問題になりました。

そののち、京の平安京に都が移り、以来1000年の長きにわたって京が天皇の御所でありつづけたのです。

せんとくんのセリフ

________________________________________________________


【第9回】大坂行幸


慶応4年1月下旬、京都。
東征総督府が編成されつつあり、新政府のほとんどの人間が「江戸へ、江戸へ」と幕府打倒に向けて慌ただしく動き回っている中、新政府内にあってひとり静かに思いを巡らせている人物がいました。


建白書の大久保利通


彼はこの時、近代国家の青写真を孤独に練っていたのです。




1月23日。
新政府に対し、大久保は思いもよらない建白書を提出します。


『大坂遷都建白書』


建白書には、こうありました。


大阪遷都建白書2



これに対し、保守派の公家は、猛反発。
「1000年不動であった玉座を動かせば、国が混乱するのは必死。
 大久保の案は、甘い言葉で天皇を大坂に誘拐し権力を牛耳ろうという、薩長の陰謀である」
と、激しい怒りをぶつけます。

朝廷に寄生して生きている公家衆にとっては、天皇こそ自らの生命線。
幕府から権力を取り戻すために薩長に味方したのに、今度はその薩長に、権力の象徴である天皇を横取りされたのでは、たまったものではありません。
彼らにしてみれば、泥棒(=幕府)から宝(=天皇)を守るために用心棒を雇ったのに、その用心棒(=薩長)に宝をかすめ取られるような心境だったのでしょう。


結果、公家衆の大反対により、大久保の案はわずか3日後に廃案になります。



公家の多くは、近代国家を目指して新政府側に付いたのでなく、ただ単に既得権益を守りたかっただけなのです。
近代化とか、改革とか、彼らにとってはどこ吹く風。自分の身の安全さえ保たれれば、それで良かったのです。

対して、大久保の「大坂遷都案」は、あくまで新国家構想を見据えたものでした。
彼の真の狙いは

「天皇の皇帝化」


討幕推進のために「玉を抱」き(「新政府、東へ」参照)、朝廷を利用した大久保ですが、彼は決して私利私欲のために天皇や朝廷を使ったのではなかった。

討幕が現実味を帯びてくるに従い、大久保の国家理念も現実味を帯びてきます。
大久保の理念。それは、日本が「富国強兵」によって近代化し、西洋諸国と肩を並べる強国になること。
そのためには、強力な「リーダーシップ」が必要不可欠であると、彼は強く思っていました。
つまりは「皇帝」です。

ヨーロッパ諸国のように、国民の前を姿を表し、政治・軍事を統括する存在。
帝王学を修め、政治・経済など幅広い知識をもち、諸外国と外交面で対等に渡り合い、三軍を統帥する君主。
その役割を、天皇に託そうと考えたのです。



常識にとらわれず、自由で新しい発想から生まれた、大久保の新国家構想。
その中心に、間違いなく天皇の存在がありました。



一方、大久保が上京して見た御所の内部は、すでに腐敗臭が漂っていた。
1000年のあいだ天皇に寄生してきたウジ虫ども(=公家衆)によって、朝廷は腐敗の極みに達している。
新生日本を夢見る彼には、そう見えたのです。

天皇の血は高貴なものであるが、周囲の血はすでに保身によって腐れ切っている。
このまま放置すれば、その腐った血が天皇の血統をも穢し、血流が体内を巡るがごとく、日本全土を保身という穢れた血が循環してしまう。そうなってからでは遅い。
手段はただ一つ。天皇を京から脱出させ、権威に群がるウジ虫どもから帝をお守りするしかない。
大久保の悲願が、そこにありました。




建白書が保守層により一蹴されても、大久保は諦めませんでした。
遷都が叶わずとも、天皇御自らがお変わりになれば、朝廷に風穴を開けることになるのではないか。
そう考えた大久保の第2案が、


『大坂行幸』


明治天皇は、生まれてより御所から1歩も出たことがない「箱入り天子」
そのような、御所という籠(かご)の中で飼いならされた小鳥でなく、世界を悠々と飛び回る鷹のような存在に明治天皇にはなってもらいたい。
そう大久保は考え、御所から足を踏み出し、広く大衆の前に姿を表す「行幸」を考え、承認されます。
つまりは、遷都さえ免れれば、公家衆はどうでもよかったのです。




大阪行幸に出発


雲ひとつない快晴の中、天皇は、大坂行幸に出発します。
明治天皇、当時17才。
御所から1歩も出たことのなかった天皇が、初めて京都を出て、一般の人の前に現れるのです。
沿道は、天皇をひと目見ようとする大衆によって埋め尽くされました。


大阪行幸絵図


若干17才の若き天皇が、初めて目にする外の世界。
明治天皇にとっては、生涯忘れられぬ思い出になったことでしょう。


行幸出発の2週間後のことでした。
京にいた大久保に、突如、大坂に来るよう命令が下ります。
「新政府で何かと努力してくれている者たちに直接会って、報告を聞きたい」という、明治天皇自らの意向によるものでした。

いち藩士が、直接天皇に謁見することは、異例のこと。
大久保は感涙にむせび、日記にもその時の感動を綴っています。
天皇に拝謁できたという名誉よりも、この行幸により、天皇が自らお変わりになられていることを大久保は感じ、そのことに感泣したのではないでしょうか。



大久保の妙案により陽の目をみた、明治天皇の大坂行幸。
のちの日清・日露戦争を決断し、激動の明治にあって力強いリーダーシップを取った明治天皇の原点は、ここにあったような気がします。
…しかし、大久保はこれで満足したわけではありません。
彼の最終的な目的は、あくまで遷都。
遷都こそ、近代日本の支柱であると彼は信念を持っていたのです。

その結末が大坂でなく、現代日本の首都・東京になった経緯について…これはまだ先のことですので、機会があれば記事にしたいと思います。





(主な参考資料)
その時歴史が動いた「幕末ニッポン・幻の遷都計画」~江戸か大坂か?大久保利通の大改革~(2003年)



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