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山崎の合戦(2)~秀吉の人心掌握術~


『江~姫たちの戦国』で不満な点は多々あるのですが、そのひとつが、

「地図を出さないこと」

同じ戦国時代の大河ドラマと比べても、「風林火山」は武田軍の侵攻ルートを地図上で確認してくれていたので、聞き慣れない地名が多いにもかかわらず、非常に分かりやすかった。
今回は、備中高松も伊賀も山崎も、まったく地図が出てこない。
これでは、一般の人が見てもイメージできないでしょ?
僕は大阪の人間なので、まだ地名で推測はできますが、たとえば関東の人が見ても「備中高松って、香川の高松市あたり?」と誤解をする人もいるでしょうし、山崎も、ウイスキー好きの人なら「あ、サントリーの山崎工場のあるところね」って分かるかと思いますが、これも普通の人には馴染みが薄い地名です。
まあ伊賀は、伊賀忍者のイメージで山奥っぽい感じはするでしょうが…

江のアップばかり映してないで、ほんの数秒くらい地図だしてよ。
それとも、今年の大河ドラマは戦国史の予習をした人しか見てはいけないのか??





まあまあ、不満はそのへんにして、「山崎の合戦」第2回に進みましょう。
今回は、

秀吉の人心掌握術


「人たらしの名人」と言われた秀吉。
中国地方への攻略戦では、黒田官兵衛が秀吉の人柄に惚れ込んで協力を得、宇喜多直家を味方に引き入れることにも成功しています。
各地で軍を増強しつつ進軍し、備中高松城を包囲した時には、そういった協力者も含め軍勢は2万に達していたと言われています。

その時、本能寺で大事件が勃発。
信長は死んだのか、生き延びたのか。
情報は錯綜し、畿内のすべての武将が「一寸先は闇」、暗中模索の中で、秀吉は様々な手練手管を使い、ほとんどの勢力を親秀吉派になびかせることを成功するのです。

今回は、彼の最大の特徴である「人心掌握」の一端を見てゆきたいと思います。

________________________________________________________

秀吉は、毛利との和睦を締結させると、備中高松城城主・清水宗治の切腹を見届けたのち、すぐに光秀との軍事行動に移ります。

「誰よりも早く京へ入り、光秀を討ち果たす」
このことが後々、天下取りには大きなアドバンテージとなることを、秀吉はすでに見抜いてい-た。
光秀との決戦をそれほどまでに重要視していたという点では、信長の各地方方面軍の中では、秀吉が随一だったでしょう。
事実、秀吉のみが戦線を離脱し、光秀の決戦に臨むことになるのですから。


中国大返しルート
(「戦国疾風伝・二人の軍師~秀吉に天下を獲らせた男たち」(テレビ東京系2011年)より)


すべて合わせると200キロ。
姫路での2日間の休憩を含め、わずか6日間での強行軍です。
馬に乗れる一部の武将以外ほとんどは徒歩で走破したことを考えると、軍隊の移動としては異常な速度です。
飛脚が走るとはワケが違うのですから。
のちの世に

中国大返し

として語り継がれるこの進軍劇の裏には、信長急死の情報が届いた直後から準備を進め、武具・武器など行軍を遅らせるもの一切を舟で運び、兵士は丸腰の軽装で走り抜けたという戦略が効いています。
決して、精神論だけで達成できたことではないのです。



さて、秀吉は、行軍を続けながら、対光秀に向けて戦略を練り続けます。
秀吉は、もともと戦がそんなに得手ではない。
寡兵(=少ない兵)ながら戦略を駆使しして乾坤一擲の勝負を拾うよりむしろ、圧倒的な大軍で相手の意気をくじき、勝利をもぎ取るタイプの人間です。
戦の不確定要素をできるだけゼロに近づけたいという、合理主義者だったのかも知れません。
とにかく秀吉の脳裏に強烈に意識されたのは「兵力を最大まで増やす」こと。
彼は、

「主君・信長公の仇討ち」

というスローガンを掲げ、光秀との決戦に向かいます。


まず到着したのが

【姫路】

ここで秀吉は、城内の金銀をすべて将兵に分け与え、士気を奮い立たせます。
同時に、部下への精神的なケアも忘れませんでした。
秀吉配下には、直属軍以外にも、中国攻略の応援として信長から付けられた武将がいます。
たとえば、堀秀政。

姫路城でのこのようなエピソードが残されています。
秀吉は、堀秀政に会い、こう言います。
「自分は、母に会うため、先に風呂に入らせていただく。
 堀殿は、あとでゆっくり風呂をお使いいただけたら、ありがたい」
堀は旧信長組織内では秀吉より格下の武将でしたが、配下ではありません。
格下の自分に気を遣う秀吉の言葉に感激した彼は、秀吉と行動を共にすることを誓ったと言われています。
このような配慮を重ね、秀吉は直属軍に加え、元信長配下や中国攻略中に仲間に加えた武将たちを加え、総勢1万5千をそのまま従軍させることに成功するのです。



次に到着したのは

【尼崎】

備中高松で出した「信長公ご存命」の手紙、そして、姫路で出した「この秀吉は光秀との決戦のため中国地方を猛スピードで駆け抜け、明日には摂津に到着する」との手紙などで、光秀より秀吉に付いたほうが得だと考えた摂津の中川・高山・池田(合わせて1万)は、秀吉に協力を誓います。
細川(5千)・筒井(5千)は光秀に協力せず中立の立場をとったため、この段階で、秀吉と光秀の兵力差は逆転したことになります。

この時のエピソードです。
中川・高山・池田氏は、自分の子どもを人質として秀吉に差し出しました。
その時秀吉は「人質など、とんでもない。あなた方が裏切るなぞ私には到底思えない」と、新参の彼らを信用する器の大きさを見せ、彼らの信頼を勝ち得たと言われています。



最後に到着し、秀吉が本陣としたのが

【富田】

秀吉が待ちに待っていた人物と、ここで出会います。
本能寺の変で混乱していた、織田信孝と、丹羽長秀です。

織田信孝は、信長の三男にあたり、信長の跡取り候補のひとりでもありました。
この時の会見で、秀吉は「信長様のかたきは、自分が必ず取ります」と力強く信孝に伝え、信孝はその言葉に涙を流したと伝えられています。
彼を総大将とすることで、自分と同格の丹羽長秀の協力も取り付け、秀吉軍は、3万5千まで膨れ上がります。

秀吉の陣に、織田家の旗が掲げられます。
この時、秀吉は「自分こそが信長の改革を引き継ぐ正当な後継者である」ことを、全国の戦国大名に知らしめたのです。




そして、6月12日。
満を持した秀吉軍が、いよいよ山崎に進軍します。
両者の兵力は、秀吉軍およそ3万5千、光秀軍およそ1万5千。
いよいよ、決戦の瞬間が訪れます。

________________________________________________________

秀吉の人心掌握術の巧みさ。
彼がこれほど多くの人の心をつかむことに成功したのは、秀吉が、「人間」というものの本質をよく見抜いていたことが挙げられます。

人は、「情」と「利」で動く


「情」とは、感情・人情。
たとえば秀吉が大義として掲げた「主君・信長公の仇討ち」というスローガンは、旧信長配下の多くの将兵の心を打ち、彼らをして「秀吉に協力することこそが、自分の取るべき道だ」という信念を固めるのに大いに貢献したことでしょう。
さらに、各武将に対するさまざまな心遣いは、秀吉の人柄を惚れ込ませる大きな要因になったに違いありません。

「利」、つまり利益・損得も、秀吉は重視します。
自分が光秀より優位であることをこまめに訴えたり、姫路城では金銀を分け与えるなど、人々の出世欲や金銭欲を直接刺激することも秀吉は忘れてはいなかった。
「情」の体裁のみでは人は動かないことも彼は重々承知していたのです。


この、清濁併せ持つ秀吉の人心掌握の巧みさが、山崎合戦前の兵力差になって現れたのだと感じます。
さて、次回(?)は、いよいよ「山崎の決戦」です。

※)このシリーズは2回で終わる予定だったのですが、この回が予想以上に長くなったので、もう1回付け加えることにしました。
次回(最終回)は、「天王山の決戦」
いよいよ、山崎の合戦に入ってゆきます。
明日にでも、アップできたらいいんだけど…リラックマ3「うん。」




(主な参考資料)
その時歴史が動いた 「天下分け目の天王山」 ~秀吉・必勝の人心掌握術~(2000年)

戦国合戦大全 (下巻) (歴史群像シリーズ (51))



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