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山崎の合戦(1)~秀吉の情報戦略術~


『江~姫たちの戦国』では、見事にスルーされてしまった「山崎の合戦」
しかしこの場面は戦国有数の名場面のひとつであり、そこには、現代にも通じる叡智が込められているのです。
今回は、羽柴秀吉を軸にしながら、2回に渡ってこの合戦を振り返ってみたいと思います。





本能寺の変が起きた天正10年6月2日未明。
はるか200キロかなたの中国地方では、羽柴秀吉と毛利勢が睨み合っていました。

「備中高松」

現在の岡山市北区。
香川県の高松市とは関係ありませんので、念のため。


備中高松



さて、今日のテーマは

秀吉の情報戦略術


秀吉は、ただ単に中国地方を力でねじ伏せていっただけではなかった。
いつ・どんなことがあっても即座に対応できるように、独自の情報ネットワークを構築していたのです。

「情報」と言っても、大きくふたつに分かれます。
「受信」と「送信」ですよね。
このふたつのネットワークを把握することが、すなわち情報を把握することなのです。


「受信網」

秀吉は、どんな些細な情報でも自分で勝手に判断せず、必ず上司に上げるよう徹底していました。
上司はその上司にさらに上げますから、最終的には秀吉にすべての報告が上がってくる。
たとえば、陣地に自分らとは関係ない使者がフラフラと迷いこんでも、「ここは秀吉様の陣地だ、用のない者は去れ!」と追い返すのでなく、いちおう留め置き、上司に報告する。
そういったことです。


「送信網」

ネットワークは、ひとつが不通となっても、もう一方でつながるように、幾重にも張り巡らせておくべきである。
これが秀吉の考え方でした。
当時、中国地方の交通の大動脈といえば山陽道。
しかし秀吉は、不測の事態でこの大動脈が使えなくなった場合を想定し、第2、第3のルートを日頃から整備していたのです。
たとえば、丹波地方の武将・夜久氏には「私の使者がそなたのところに来るかも知れないが、その時には融通をよろしく頼む」という手紙を送っています。
その所在地は、現在の兵庫県豊岡市のあたり。つまり、山陽道以外の山間の情報送信ルートも秀吉は平時から意識して構築していたことが分かります。

夜久氏へのルート300




これら情報ネットワークが、この土壇場で生かされるのです。

________________________________________________________


6月3日夜。
秀吉が構築していた受信網に、明智光秀から毛利輝元宛てに出された密使が引っかかります。
そこに書かれていたのは、秀吉を驚嘆させるに十分な内容でした。

「我、本能寺にて信長を討ち果たせり。
願わくば、我と共に立ち、秀吉を挟撃されたし」



歴史にifはありませんが、もし、この密使が無事に毛利方に届いていれば、この後の戦国史は大きく変わっていたでしょう。
秀吉は毛利・明智の連合軍に敗れ、光秀の天下が現実のものになっていたかも知れません。
密使を捕獲できたのは秀吉の強運ともいうべきですが、彼はこの幸運を活かし切る術を会得していた。

彼は、毛利輝元に宛てて手紙を送ります。
その時に彼は、あたかも信長が生きているかのような、毛利勢を揺さぶる巧妙な書き方をするのです。


秀吉の和睦条件(備中高松)j


毛利輝元が何より恐れていたのが、信長の参陣。
秀吉ひとりでさえ手こずっている上に、峻烈極まりない信長が本気になって軍を進めれば、我ら毛利勢は根絶やしにされるのではないか。
秀吉の手紙は「今が和睦のラストチャンスですよ」と甘い誘惑を輝元に投げかけ、輝元はまんまとこの提案に乗り、兵を引いてしまうのです。
秀吉は、主君・信長の幻影でもって、毛利の軍勢を足止めすることに成功したのです。

「死せる信長、生ける輝元を走らす」

といったところでしょうか。
※最近、三国志ネタが多いのは単なる偶然ですので…リラックマ4「汗」




6月5日。
秀吉が光秀との決戦に向かう前に、もうひとつ、なすべきことがありました。
戦が始まるまでに、できるだけ敵の兵力を削ぎ落とし、なおかつ、味方の兵力を増強させること。
光秀の直属軍が1万3千に対し、秀吉の直属軍は8千。
さらに、明智光秀は信長から近畿方面の平定を任されていた関係で、畿内に多くの武将を従属させていました。
その数、およそ2万。
この2万の兵のゆくえが、ふたりの決戦の鍵を握ることは明らかでした。
秀吉は、近畿方面軍として光秀の配下に就いていた細川(5千)・筒井(5千)・中川・高山・池田(合わせて1万)といった面々を切り崩すべく、彼らに手紙をしたためます。

近畿方面軍の配下300


ここでも秀吉は、卓越した情報操作を行います。


近畿方面軍への秀吉の手紙


信長の幻影をさらに利用し、光秀からの離反を促したのです。
この手紙を確実に届けるネットワークとして活躍したのが、前述した夜久氏の中国山間ルートでした。
この手紙は、1通ももれなく各武将のもとに届きます。
光秀が警戒網を張り巡らす山陽道ルートを迂回し、安全に自らの意志を伝えることに秀吉は成功したのです。

________________________________________________________

秀吉の情報戦略術。
それは、「情報化社会」と言われて久しい現代にも十分通ずる、その原理原則をしっかりと押さえたものであることが分かると思います。


「情報が、歴史を変える」


チュニジアが発端となり、エジプトのムバラクを政権を崩壊させた最近のニュースは「インターネット」の水平性(=多くの人が、一度に同じ情報を共有できる)を知らしめた歴史的な事件になりました。
つまり、情報操作が不可能になる時代に我々は突き進んでいるのです。

一方、情報操作が可能であった戦国の時代は、どうであったか。
これは即ち「情報を握るものが、権力を握る」
秀吉は、今から430年前、インターネットどころか電話も電報もない飛脚の時代に、このことをほとんど直感的に会得していたのだと思います。
巧みな情報操作により、自らの優位性を確立しつつある秀吉。



明智との決戦は、間近。
次回に続く。





(主な参考資料)
その時歴史が動いた 「天下分け目の天王山」 ~秀吉・必勝の人心掌握術~(2000年)

戦国合戦大全 (下巻) (歴史群像シリーズ (51))



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