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続・龍馬伝 (8)赤報隊


龍馬伝第4部タイトル(雲の


江戸で徳川家臣団が「恭順か、抗戦か」で揺れていた最中のこと。

京の新政府は、江戸攻略への準備を着々と進めてゆきました。
江戸を含む東日本鎮圧部隊として、ひとつの独立組織を生み出すのです。


『総督府』


日本統一のために東日本に送り込まれた、いわば独立武装集団です。
大総督=(=総司令官)に有栖川宮が就任。
皇族最大の実力者として、新政府の総裁(=今でいう総理大臣)と兼務します。


有栖川宮熾仁親王(篤姫33話2


ただ、これは形式上のこと。
現場レベルでの指揮権は、その下の参謀がとることになります。
参謀のひとりに、あの西郷隆盛もいました。


総督府は

「東海道」(太平洋側を通り、江戸に向かうルート)
「東山道(中山道)」(内陸部を通り、江戸に向かうルート)
「北陸道」(日本海側を進むルート)
「奥州」(東北地方の諸藩の鎮圧のため、仙台へ向かう)

にそれぞれ鎮撫使を立て、攻略に乗り出します。
ちなみに、総督(兼鎮撫使)・副総督は、実力に関わらず公家が就任する決まりになっていました。


鎮撫隊の3街道500
(画像をクリックすると3倍に拡大します)



この総督府には、東征に関する極めて大きな権限が与えられていました。
軍令、軍政に関わる一切の権限はもちろん、諸大名の進退、領地の処分、年貢半減の布告、窮民の救助など民政一般に関わることまで、すべて総督府が独自に決裁できたのです。
つまり、ほとんど新政府から独立した組織であるわけです。

その副総督以上を皇族や公家で固める。
すなわち、この総督府は

「正規官軍」(=天皇直属の軍隊)

であることを世間一般に印象づける狙いがあったと思われます。
総勢5万。鳥羽伏見の戦いの時の10倍もの大軍勢でした。


正規官軍として独立した総督府ですが、新政府とは参与・参謀レベルでつながっていました。
すわなち、新政府参与の岩倉具視・大久保利通らと、総督府参謀の西郷隆盛らは意志疎通を図り、彼らが両組織の実権を握っていたのです。
「新政府」と「総督府」は、異体を装いながらも一心でつながっており、新国家建設と反乱分子討伐を不退転の決意で行う「双頭の鷲」と位置づけられていたのです。


________________________________________________________

前置きが長くなりました。
今日の主題はここからです。


【第8回】赤報隊


前々回の記事「新政府、東へ」を思い出して下さい。
…といっても、もうほとんど記憶から消えていると思いますが、新政府は「慶喜追討令」にもとづき、江戸に先発隊を派遣していました。
前述の各方面鎮撫隊が出発する前の話です。
そのひとつが、


『赤報隊』


リーダーは相楽総三。意志強固で、生粋の暴れ者。
江戸では浪人どもを使って乱暴狼藉を働きましたが、今回は正規軍です。
そして、江戸に続き、今回も西郷の命令によるものです。
部隊名の由来は「赤心(=ウソ偽りのない、純粋な心)を以って国恩に報いる」という立派なもの。
※1987年の朝日新聞社襲撃事件で犯行声明を出したのも「赤報隊」を名乗っていますが、おそらくは同じ由来で名前が付けられたのだと思います。…が、今回の「赤報隊」と全く関係ありませんので、あしからず。

金剛輪寺で結成された赤報隊は、江戸に向かって進発します。
行く先々の村々で「年貢半減令」を掲げ、農民の指示を取りつけていました。
年貢半減令の布告については、もちろん、総督府の許可を得ています。


赤報隊のルート500



…ところが、進発からわずか10日後、赤報隊が鵜沼に到着した頃、思いがけない命令が総督府から届きます。
「赤報隊が軍用資金を集めるために強盗同様のことをしているといううわさがある。
 事情徴収のために赤報隊は進軍をやめ、相楽は赤報隊を引き連れ京へ帰還せよ」
というものでした。

相楽にとっては身に覚えのないこと。
総督府の真意を測りかねながらも、「ここで進軍をやめれば、今までの苦労は水泡に帰す。東征の成否は迅速な進軍によってのみ決す」と、命令を無視して東山道を突き進みます。
新しい時代を切り拓く先駆け、「草莽の志士」としての誇りを持っていたからこその決意の行動でした。

目指すは、碓氷峠(うすいとうげ)。
ここを突破できれば、北陸道の部隊と東山道の部隊が合流でき、関東を下れば江戸を射程圏内に収めることができる。
進軍から1ヶ月のち、ついに赤報隊は碓氷峠を攻略。
「草莽の志士」としての使命を果たしたのです。




…だが、赤報隊の命はそれまででした。
「総督府の命令を無視し、官軍の名を語り好き放題を行う許すまじき行為」として相楽に出頭命令が下され、下諏訪まで引き返した相楽とその幹部は、この地で東山道総督府により捕縛されます。
そして、1度の取り調べも行われないまま、2日1晩寒風と氷雨の下に放置されたあげく、処刑されてしまいます。
相楽ら赤報隊には

「ニセ官軍」

のレッテルが貼られ、「年貢半減令」など彼らが布告したことの一切は新政府と無関係であると断じられ、赤報隊は新政府内からその姿を消すことになるのです。

________________________________________________________

この事件の裏にあるものは、何であるのか。
現在は、総督府の謀略によるものであることが分かっています。

当初、総督府は東征を成功させるためには年貢半減もやむなしと考えていました。
庶民の指示を取りつけた上でないと、強力な幕府軍や佐幕諸藩には対抗できないと考えていたのです。
しかし、東征に先立って行われた西日本の制圧が思いのほかスムーズに進んだことや、東征の莫大な費用を捻出するだけの資金がまだまだ不足しているという財政難などから、この命令を密かに抹消します。

年貢半減を触れ回っていた赤報隊をすぐに引き返させる予定だったのですが、意に反して彼らは進軍を続けたため、命令無視を口実に偽官軍の烙印を押し、有無をいわさず処刑、口封じを行ったのです。



当時、朝廷を中心とする新しい力によって世の中が大きく変わることを

「御一新」

と呼び、それこそ相楽ら各地在野の武士や庶民、農民に到るまで、多くの人々が「年貢半減令」に御一新の夢を見、これから暮らしが良くなることだけを信じ、希望としていた。
それらの夢は、新政府-総督府の都合によって、赤報隊と共に切り捨てられたのです。



捕縛されたまま氷雨にさらされ、同士が声を枯らして無実を訴える中、相楽はひとり目を閉じて無言の端座を続けていたと言われています。
このとき、相楽の胸中にあったものは、何であったのか。
無念さと同時にあったのは、もし自分が捨石となることで新しい国が生まれるならそれもまた良し、それこそ真に草莽の士として赤心をもって国に報いることになる、という想いだったのかも知れません。


現在、相楽総三の名誉は回復されています。






(主な参考資料)
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)
戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書 (455))
戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える (中公新書)



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