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本能寺の変~光秀の王政復古~


本能寺の変2



「龍馬暗殺」が幕末最大のミステリーであるとすれば、「本能寺の変」は、戦国最大のミステリーと言えるのではないでしょうか。
首謀者がハッキリしているのにも関わらず、未だにその全貌は解明されていません。
本能寺の変後、明智光秀がわずか10日余りで絶命したことが真相究明を困難にしている最大の原因とも言えますが、ともかくもナゾの多いこの事件は、今日まで諸説紛々し、結論が確定することはもはや絶望的な状況です。

今回は、このミステリーについて、自分なりの意見を述べたいと思います。



「時は今 雨が下しる 五月哉」
(ときはいま あめがしたしる さつきかな)



5月28日。
光秀が、本能寺の変のわずか4日前に詠んだ句です。
とめどなく降り続ける五月雨(=梅雨)の情景が浮かんできますよね。
でも、あまりにもありきたりっぽい気も…リラックマ18「もやもや」

実は、この句が有名なのは、理由があります。
この頃には、光秀は謀反の決意を固めていて、その隠された意志を句に詠んだというものです。
その意味はさまざまに解釈されますが、僕自身は、光秀の言動や人間性を考えたときに、一般的に言われている「土岐氏であるこの光秀が、天下に号令する日が来たのだ」という野望説よりも、「雨(=天)が下しる」を「天下を治る(=しる)」と読む説を採ります。
「然るべき人物が、天下を治める世が到来したのだ」

「天下を治る(=治める)」人物とは、言い換えれば

「治天の君」


「治天の君」(ちてんのきみ)とは、武家・公家・寺家などの権門の上に立つ上皇や法皇のこと。上皇・法皇は朝廷から選び出される人物ですので、光秀は、朝廷権威による政治の復活を願った。
すなわち、

王政復古


光秀はもともとは室町幕府の将軍家に仕え、朝廷との関わりも深かったようです。都の人々と交わり高い教養を身につけた彼が、朝廷や幕府の権威がないがしろにされている戦国の現状を見かねて、世の混乱を収め、秩序を回復したいと願うようになったと考えるのは、ごく自然な流れではないでしょうか。
そして、その結論として「王政復古」を願うようになったというのも、十分に考えられることなのです。

※ちなみに「王政復古」と聞くと、このブログの読者である皆さんは、幕末の岩倉具視らの王政復古の宣言を思い起こされると思いますが、この言葉は、何も岩倉や大久保の専売特許ではありません。
言葉の意味から言うと、「王政(=朝廷による政治の主権)を復古する(=取り戻す)」ということですから、かなり広い解釈が可能な、極めてシンボリックな言葉です。
光秀自身は当然このような言葉遣いはしていませんが、僕は、彼が『「朝廷の権威」のもとに「武家の頂点を極めた者が実際の政治を執り行う」』という形の王政復古を目指していたのではないか、と推測します。
つまりは、権威と権力が分散され、秩序に満ちた世の中。





光秀アップ(王政復古)


「王政復古」の具現者は、誰か。
光秀はやがて、統治能力のない足利義昭を見限り、信長に急接近します。
信長が武家を統一し、朝廷の権威のもとに日本がひとつになれば、ふたたびこの国に秩序がよみがえる。
そう光秀は信じ、信長に誠心誠意仕えてきたのではないか。
光秀の屋敷の床の間には、信長直筆の書が飾られていたといいます。それほど彼は、信長を心から慕い、信長という人間に、秩序回復の救世主としての期待を寄せていたのだと思います。





信長アップ(王政復古)


…だが、信長の真意は、秩序回復ではなかった。
彼は旧来の制度をすべて破壊し、全く新しい国家像を心に描いていた。
それは、「天下布武」の記事でも触れたように、権力分散型でなく、権力集中型の国家像です。
国際性豊かであった信長は、南蛮文化に傾倒するにつれ、ヨーロッパ先進文明を吸収し、日本を生まれ変わらせるためにも、信長を中心とする中央集権化がもっとも近道だと考えたのではないでしょうか。

そのための手段。
それは、自身が神になり、朝廷の権威をも従属させること。
その行為は、光秀の思想とは相入れぬものであり、王政復古を目指す光秀にとって、信長は単なる「破壊者」にしか映らなかったに違いない。



人としての道をわきまえ、領民にも慕われていた誠実の士・光秀。
明智光秀という人物は、信長に冷たく当たられたとか、武士の面目を汚されたとか、自分が天下を治めるべきなんだとか、そういった個人的な怨恨や野望だけで国家の大事を決する行動を起こすような、度量の小さな人間ではなかったと僕は思います。
是が非でも信長を討たねばならぬような、彼の中にある明確な「正義」が、裏切り者として後世まで汚名を残すことも覚悟の上での、あのような行為に及んだのでないか。


光秀と信長。
目指すべき国家像の齟齬。



これが「本能寺の変」の最大の原因ではないかと、僕は見ています。

________________________________________________________
追記:

乱世の奸雄の記事で、僕は信長を曹操に譬えましたが、その例でいうと、光秀は劉備玄徳のタイプに属するのではないか。
劉備は、漢王朝を復興し、皇帝の権威の元で覇者が政治を行うことを願った。漢王朝を廃し、覇者が皇帝になればいいという曹操の考え方とは、相容れないものがあったのです。
この考え方の違いがふたりの袂を分かつように、信長と光秀の対立は、ある意味必然であったと僕には思われます。




(主な参考資料)
NHK「その時歴史が動いた」 本能寺の変 信長暗殺!~闇に消えた真犯人~「戦国編」 [DVD]
戦国合戦大全 (下巻) (歴史群像シリーズ (51))



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