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織田信長~乱世の奸雄~


馬揃えの信長


織田信長


日本中世における革命児。
その先見性、独創性、国際性は言うに及ばず、その圧倒的なカリスマ性においても、同時代の戦国大名をはるかに凌駕するものがあります。
のちの秀吉や家康でさえ、信長を超えることはできなかった。


『江~姫たちの戦国~』では、なんとも中途半端な信長に成り下がっていますが、その信長とも、来週でお別れリラックマ34「泣く」
せめて最後に、彼の残した功績を書き残したいと思います。



○信長の政治手腕

信長といえば「戦に次ぐ戦」、屍の山を乗り越えて歩んできたようなイメージを持たれがちですが、実はそうではない。
彼は常に明確な政治戦略をもち、それを達成する上で不可避な場合にのみ軍事を用いた。
信長にとって、政治戦略と軍事戦略は常に一体であったのです。

信長の行動を時期的に大きく3つに分けると、彼の政治手腕が明確に発揮されるのは、中期から後期にかけてであろうと思われます。

初期=尾張・美濃を統一し、自国の領土を確定するまで
中期=畿内に支配権を浸透させるまで
後期=畿内から全土支配に向けて動き出してから、本能寺の変に到るまで


その政治手腕を一言で表すと、

「中央突破」


他の戦国大名が、自国とその周辺の鎮圧にのみ腐心していた時代にあって、信長は、自国の尾張・美濃を固めると一足飛びに当時の日本の最重要地である京・畿内の制圧にかかります。
その行動は迅速かつ有無を言わさぬもので、伝統ある土地に土足でずかずかと上がり込んできた信長によって畿内のパワーバランスは崩され、周辺の軋轢(あつれき)を生み出し、2度に渡る反信長包囲網を築かれる危機に見舞われるのですが、信長は果断な行動力と綿密な政治戦略、計算された軍事戦略によってこれを撃破、一気に日本最大の大名にのし上がってゆくのです。
この行動の芯にあるものこそ、「天下布武」の政治構想だったことは言うまでもありません。



○信長の軍事戦略


信長以前の戦国大名が、似たり寄ったりの合戦をしていた中にあって、信長はそれらを尻目に「鉄砲の大量使用」「兵農分離」などの新戦略を次々に編み出してゆきます。
一挺が非常に高価で、兵器としての有効性も未知数であった鉄砲を、補助的な役割でなく初めて主戦力として用いた。これが「鉄砲の大量使用」
さらに、農業従事者を戦時の時だけ兵士として用いる従来の方法を廃止し、農業に従事しない職業軍人としての武士集団、つまり「プロの兵士集団」を組織した。これが「兵農分離」

いずれも他の大名がマネの出来なかったことです。
この軍事革命の背景には、信長組織の特異性にありました。

一般の戦国大名は、大名と家臣団が会議を開き、全員の合意によって結論を導く「集団指導体制」を取っていたのに対し、信長はそのカリスマ性と恐怖政治より、完全なトップダウンの組織を作り上げます。
すわなち、

信長による独裁体制


畿内制圧後、信長はこの組織を最大限に利用し、各武将を駒のように各地に派遣し、それぞれの方面の制圧・従属に当たらせます。
北陸の上杉氏には柴田勝家、関東の北条氏には滝川一益、近畿の反乱分子には明智光秀、中国の毛利氏には羽柴秀吉…信長が自ら兵を率いるのでなく、自分の意のままに動く武将をいわば「自分の分身」として使う。
信長自身は、京や安土で全体の総指揮をとるのです。
これが、後期に行われた

「方面別撃破作戦」


信長軍最大版図500
(画像をクリックすると3倍に拡大します)


「一方を攻撃するときはもう片方とは同盟を結ぶ」という従来のセオリーを破り、全方位に軍隊を送り、一気に全土統一を図ろうとする。
この行動の凄まじさは、信長の「天下布武」にかける執念をみるようです。
本能寺の変直前、まさに信長は全土に向けてその牙を向けたところだったのです。



○信長の経済センス


このような、矢継ぎ早に繰り出される政治行動・軍事行動を可能にしたのは、信長が安定した経済基盤を築き上げ、潤沢な資金を使える立場にあったからでもあります。
信長が経済を非常に重視していたことは、次のエピソードでも分かります。

永祿12年、入京を果たし将軍職を得た足利義昭から、褒美として副将軍就任を勧められたのですが、それを断り、堺・大津・草津を直轄地にしたいと申し出て許されています。
堺・大津・草津は、畿内における物流の拠点となっていた土地。そこを押さえることにより、畿内の経済的実利を信長はすべて吸い上げようとしたのです。


高位を辞退して経済上の実利を得ることは、なかなか普通の武将にできることではありません。
信長の経済政策で有名なものといえば、

楽市・楽座


「座」と呼ばれる特権業者を解散させ、誰でも自由に商売ができるようにしたもので、現代でいう「規制緩和」です。
経済を発展させるには、補助金を出すとか、税を安くするとか、何かそういった「投資」をしないといけないんだ、という風潮は今日でもありますが、一銭もお金を使わずに経済を活性化させる方法がある。それが、さまざまな規制を緩和させることなのです。規制緩和は諸刃の剣のような側面がありその運用には非常な勇気がいるのですが、信長は実行した。

同時に、信長はインフラ整備にも力を入れます。
ふつう、戦国大名は、敵からの侵入を警戒して、道は細く曲がりくねらせ、川には橋をかけず、幾重にも関所を設けていました。
信長は、すべてその逆をいきます。道は太くまっすぐにし、主要は川には橋を架け、関所を撤廃したのです。外敵への防御より、商人の往来を活発にし、冥加金上納(=税収)を増やした方が得策だと考えていたからに違いありません。

経済を制するものが、乱世の熾烈なパワーゲームを制することを、信長はすでに見抜いていたのでしょう。

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古代中国史の「三国志」をご存知の方は分かるかと思いますが、信長は、曹操孟徳と同じタイプの人間だと僕は思います。

その行動原理が、非常に似ている。
田舎の一武将に過ぎなかった曹操ですが、帝を擁して、いち早く中国の中心地を支配下におき、屯田制という軍制改革を行った。また、迅速な周辺地域の平定のため好んでリスクを取り、周囲との同盟を拒んだため幾度も包囲網を築かれ、絶体絶命のピンチに陥るが、その度に粘り強く周囲の敵を片付けてゆき、気がつけば最大の勢力を誇るようになってゆく。
三国志の時代は西暦200年前後で、制度の運用などの単純な比較はできないのですが、大きく見たときに、類似点が非常に多い。


その曹操を評した有名な言葉があります。


「治世の能臣、乱世の奸雄」


「そなたは、平和な世の中では有能な官僚になるだろうが、乱世では奸雄となろう」

「奸雄」とは、英雄とは違います。私利私欲を投げうってでも人々の幸せのために信念を貫く英雄と違い、奸雄とは、どんな汚い手段を用いようが、どれだけ多くの人を不幸に貶めようが、自らの野望のためには一切を省みない。そういった人物です。
王道でなく、覇道をゆく。まさに、信長にも当てはまる言葉です。



その信長の最期は、ご承知の通り、実にあっけないものでした。
次回の『江』は、いよいよ「本能寺の変」
「乱世の奸雄」にふさわしい散りざまを期待しているのですが…どうなることやらリラックマ32「…」

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※今週は「続・龍馬伝」はお休みします。
 すごく忙しかった上に、この記事にものすごく時間がかかってしまったからです。
 スミマセン…
リラックマ20「すまん」



(主な参考資料)
一冊でわかるイラストでわかる図解戦国史(SEIBIDO MOOK)
戦国合戦大全 (上巻) (歴史群像シリーズ (50))
戦国合戦大全 (下巻) (歴史群像シリーズ (51))



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