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続・龍馬伝 (7)慶喜の決心


龍馬伝第4部タイトル(雲の


鳥羽伏見の戦いで、薩長軍により掲げられた「錦の御旗」
誰よりもショックを受けたのは、他ならぬ将軍・慶喜だったのかも知れません。
水戸黄門の印籠で有名な、諸藩がひれ伏す「葵の御紋」も、「菊花紋章」にはかなわぬと、戦場で戦っている部下を置いて江戸へ逃げ帰ってしまいます。

「葵の御紋」と「菊花紋章」3


総大将が逃げたのではどうにもなりません。
残された幕府軍は無念さを噛みしめつつも、大坂の沖に停泊していた幕府の軍艦に乗れるだけ乗り込み、静かに大坂を後にしたのでした。


【第7回】慶喜の決心


さて、江戸に帰った慶喜は、勝海舟を呼び出します。
徳川慶喜と勝海舟といえば、以前から何かと反りが合わない者同士。慶喜はどちらかというと彼のことを煙たがっていた節があった。
その彼を呼び今後の対応を協議するというのですから、慶喜もそうとう精神的にも追いつめられていたのではないでしょうか。
勝が見たのは、以前の強気でイケイケの慶喜でなく、度重なる災難によりすっかり意気消沈、自信喪失していた慶喜でした。
そんな慶喜に、勝は名前の通り「活!」を入れます。
彼は、慶喜の判断ミスを鋭く突き、もはや徳川家の取るべき道はひとつしかないと説くのです。
勝は言います。


もし仮に、大坂城で籠城戦を続けていたなら、状況は今と全く変わっていたはずです。
大坂城は難攻不落、その地の利は、大坂の陣で証明済み。
その上、徳川家による再建で、その強固さは、西日本のカナメとして冠たる地位を誇るものである。
京にいる薩長連合軍が5千かどうか知らないが、たとえ5万の兵をもってしても、かの名城が落ちることはない。

無傷の幕府海軍が大坂の沖より制海権を支配している以上、薩長からの迅速な援軍は望めないのです。
江戸からも援軍を寄越しますが、それを待つまでもなく、薩長は京に引き上げざるを得ないでしょう。
あなたは、兵法の何たるかもご存じないのですか。




そして、彼の行動を痛烈な言葉で批判するのです。


慶喜に活をいれる勝(赤字)


反撃の機会はもはや失われ、この上は、恭順より他に徳川家が存続する道はないと結論づけるのです。


勝の言葉を静かに聞いていた慶喜。
やがて、こう言ったと言われています。


勝の助言を聞き入れる慶喜




幕臣強硬派の小栗忠順、また、松平容保ら会津・桑名に近い人間は徹底抗戦を主張しましたが、慶喜は、あくまで恭順の姿勢を貫きます。
「もはや勝利の術はなく、新政府への恭順のみが残された唯一の策である」という勝の意見に同意したのです。
それは、慶喜が大坂を脱出するときに、胸に抱いていた想いと重なるものでもありました。


1月23日。
慶喜は次の人事を発表します。

勝海舟を、「陸軍総裁」に命じる。
大久保一翁を、「会計総裁」に命じる。


平たく言えば、新政府軍に対する幕府軍の方針一切を勝に任せ、幕府内部の細々としたことの一切を大久保に任せる、という人事です。
慶喜はこの時、完全に心を決めたのでしょう。
江戸のことを2人に託した慶喜は、江戸城を出て、上野寛永寺(徳川家の菩提寺)に蟄居、孤独な謹慎生活に入ります。
この段階で、慶喜は、歴史の表舞台から姿を消したといって良いと思います。


自らの代で、260年の徳川幕府を終焉させてしまった慶喜。
彼はこの時、どんな思いであったのか。
度重なる政変に疲れ切った慶喜の顔が眼に浮かぶような気がします。





一方の徹底抗戦派の考えは、どうであったのか。
小栗忠順は、以下のような策を立てていたと言われています。


薩長ら背恩の徒は、アリのように長蛇の行列隊形をつくって東海道を東へ東へと進んでくるであろう。
箱根を越えると、あとは関東平野を突っ切れば江戸はすぐそば。
賊徒にとっても、どうしても後ろより前に目が向くのは必然で、そこを狙う。
行進部隊がある程度箱根の山を越えたところで、アリの行列を真ん中で踏みつけるように、日本最強の幕府海軍が駿河湾から海岸線近くに強襲、東海道に向かって艦砲射撃を行い、前列縦隊の退路を遮断する。
同時に、幕府陸軍エースのフランス式歩兵砲隊・騎兵砲隊で前面から一斉射撃を行い、殲滅させる。

一方で、幕府海軍の一部を使って陸軍兵士を大坂に揚陸、京都に奇襲をかける。
江戸遠征のため護衛の少ない京都御所を制圧し、天皇を奪い返すのです。


官軍といえど、恐るるに足らず。
所詮、天皇をいわば人質として朝廷を味方につけ、錦旗を掲げているだけの存在に過ぎない。
大義は、我らにあるのです。



箱根決戦策500
(クリックすると3倍に拡大します)


この奇策というべき案が通っていたら、戊辰戦争はどうなっていたのか。
おそらくは、江戸遠征部隊は指揮系統を完全に乱され、散り散りになって西へ逃げ帰っていたでしょう。
同時にそれは、戦局の膠着化を意味します。
薩長は謀略でもってすぐにでも天皇を奪い返すと、京と江戸を極とした2大勢力が東海・北陸を挟んで向かい合い、戦争は泥沼化、出口の見えない内乱があと10年は続いていたかも知れません。



結果的には、慶喜は最後まで主戦論に耳を貸しませんでした。
小栗は職を罷免され、松平容保・定敬兄弟は江戸城を退出するよう命じられます。
慶喜の命ですが、勝海舟の意志が絡んでいたことは間違いないと思います。

勝はさらに、新選組を「甲陽鎮撫隊」と名前を変えさせ、体良く江戸から追い出します。
主戦派のほかの幕臣が江戸城を去ることも黙認します。
幕府海軍副総裁の榎本武揚には、とりあえずは全軍艦を江戸湾で静かに停泊しておいてもらいたいと依頼します。




「主戦派を追い出し、江戸城が恭順する土台づくりを行う」
慶喜にすべてを任された勝が、江戸城総攻撃までの残された時間をつかって進めていたのは、そういったことでした。

実際、新政府軍は、江戸城にジリジリと近づいていたのです。





(主な参考資料)
戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書 (455))
戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える (中公新書)



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