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続・龍馬伝 (6)新政府、東へ


龍馬伝第4部タイトル(雲の


『戊辰戦争』


戊辰の干支の年に開戦したのでそう呼ばれるわけですが、あんまり知名度ないですよね。
そもそも、戊辰戦争全体を扱ったドラマって、ないんじゃないかな。
「江戸城無血開城」のエピソードが強すぎて、内戦は防げたようなイメージを持っている人も多いと思う。
かく言う僕がそうでしたからリラックマ29「…汗」

…しかし実際は、無血開城から1年1ヶ月に渡って、この内戦は続きます。
結果論でいうと、双方合わせ18万の軍隊を動員し、7000人以上の戦死者を出している。
純粋な戦闘行為による戦死者数の比較では、日清戦争より多くの犠牲者を出していることになるのです。

長く、憂鬱な戦い。
西郷、土方、榎本らの、長く憂鬱な戦いが、これから始まるのです。


【第6回】新政府、東へ


幕末当時、天皇および朝廷を味方に付けることを、こう言っていました。

「玉を抱く」

「タマ」と読んではいけません。「ギョク」と読んでください。
もちろん天皇や皇族に対して「玉を抱きたいんだけど、いいかなぁ…?」みたいな言葉の使い方はしませんよ。
あくまでも内々で使われる言葉で、その言葉からは天皇(=玉)をまるでモノのように扱っている節すらみえます。
この割り切りが特にハッキリしていたのが西郷・大久保ら薩摩藩士で、だからこそ彼らは、朝廷公家衆をも手玉に取る、巧みな謀略を躊躇なく行うことができた。そして、朝廷を味方に付けることに成功した。

一方、勤王の想いが強かった徳川慶喜や松平容保は、そこまでの思い切った朝廷の抱え込みは憚られ、その結果、朝廷を敵に回し、最後は朝敵として処罰された。
こう見ることもできると思います。

もっとも勤王精神の薄い者が「勤王」を掲げ、もっとも勤王精神の強い者が「賊徒」のレッテルを貼られ討伐された。

戊辰戦争最大の矛盾。
歴史のひずみがここにも見えるのです。




ともかく、「玉を抱いた」薩長により、鳥羽伏見の戦いは彼らの勝利に終わりました。
公議政体派の松平春嶽や山内容堂は新政府内での発言力を落とし、新政府内は完全に「武力討幕」ムードで一色に染まってゆきます。
日和見だった公家衆も、「これは薩長に付いたほうが良さそうだ」と見るや否や手のひらを返したように彼らにすり寄り、

「薩長討幕派」=「新政府」=「朝廷」

と、これらが一体化し、ひとつの明確な方向に向かって動き出します。
一体化した組織、すなわち

「明治新政府」

は、ここから始まったと言ってもよいでしょう。



ひとまずは、京・大坂の支配権を手に入れた新政府。
それでも「金ない・人ない・組織ない」の3ない病にかかっていて、敗れたりとはいえ組織の層の厚さでは明治新政府をはるかに凌ぐ幕府に対し、どう渡り合ってゆけばよいのか?
新政府首脳は、さぞ頭を抱えたことでしょう。

朝廷を味方に付けていることは新政府の強力な支えとなりましたが、それを除いて唯一、新政府が幕府に勝っている点を挙げるとすれば、少人数ゆえの身の軽さだと僕は思います。
いつの時代でも、クーデターが成功するのは、巨大組織の力よりもクーデター側の行動の速度がそれを上回るときなのです。


「まず、金・人・組織を充実させ、幕府に対抗する力を持つことが重要である」
そう考えた明治新政府首脳は、全国の諸藩に呼びかけます。


帰順の意思確認


つまりは体裁の良い「脅し」
「オレたちに逆らったら朝敵となるが、それでも良いか」ということです。
同時に、近畿・中国・四国・九州に、貴重な戦力を有効に分散し、威圧の軍を送り込みます。

西郷・大久保の狙いは、まず西日本を新政府支配下として固めてしまうこと。
それにより、江戸進撃の際の後方の憂いを断ち切り、軍事的・経済的バックボーンを得ることによって、幕府軍との総力戦に備える。


戊辰戦争(西日本編)500
(画像をクリックすると3倍に拡大します)


西日本は、あっけないほど簡単に平定できました。
おそらくは、東日本に比べて徳川家への忠誠心が低いことや、権力に敏感に反応する風潮が古来からあった影響も大きいと思われます。
そして、一番大きかったのは、明治新政府の「反抗するものは朝敵として容赦しないが、従うものは地位を保証する」というお触れ。これが、西日本諸藩の心をつかんだのではないか。
その勢いに押されてかどうかは知れませんが、紀州・尾張・水戸の徳川御三家さえも、藩内での派閥抗争を経て新政府恭順への姿勢を打ち出します。
約1ヶ月で、西日本はほぼ新政府の掌中に置かれたのです。




ところで、明治新政府は、鳥羽伏見の戦い終了後の1月7日、

「慶喜追討令」

を出しています。
つまりは、徳川将軍・慶喜を、天皇に反逆する者として新政府が討伐する旨を、正式に天下に公表したのです。

公表したからには、実行せねばなりません。
この追討令に従って、1月15日、新政府は江戸に向けて先発隊を派遣します。
先発隊リーダーのひとりが、江戸出身の相楽総三(さがら・そうぞう)。
鳥羽伏見戦争のきっかけをつくった「薩摩藩邸焼き討ち事件」を誘発する江戸市内撹乱を行った中心人物です。
彼をリーダーとして、「赤報隊」が結成され、江戸に向けて進発します。
江戸に向かうまでに通過する諸藩を新政府側につける狙いもあり、「新政府が世を治めた暁には、年貢を半分にする」というスローガンをかかえていました。
もちろん、新政府の許可を得てあります。



西郷、大久保、岩倉らのクーデターが、日本全土を巻き込もうとしていました。
彼らにすれば、未知の大海原にボート一艘で漕ぎ出した心境だったかも知れません。

それでも、ボートは転覆するどころかいよいよその勢いを強め、目的地に向かって力強く進んでゆきます。
いよいよ、東へ。明治新政府が動き出したのです。





(主な参考資料)
戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書 (455))
戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える (中公新書)



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