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まぼろしの安土城(1)立地


安土城の外観


「あのようなお城…初めてにございます」リラックマ50「ビックリ!」

第2話で、城下町を散策していた浅井三姉妹が、度肝を抜かれた城郭。



安土城の外観2


信長が「天下布武」の旗印のもと、その構想実現の拠点として建てられた城です。
燦然と輝く安土城の天守閣。
その下方には城下町が広がり、楽市・楽座で人々が活況を呈し、ルイス・フロイスら宣教師も訪れ、異国の香りも漂う。
この地こそ、信長が天下の首都と構想した地だったのです。



安土城は、本能寺の変のあと、原因不明の出火によって灰燼に帰し、現在は跡形もありません。
現代の私達からすれば、資料によってのみその存在がうかがい知れる、まさに「幻の城」
だからこそ、ロマンを掻き立てられる城でもあります。

全3回に渡って、安土城の秘密をひもとく今回の企画。
第1回目は、安土城の立地から、信長の意志をひもときたいと思います。




信長は、あまたある地域の中で、なぜこの安土の地を選んだのか。
そこには、標高400メートル以上の観音寺山の上に築城する防衛上の理由以外にも、信長の天下統一への野望がうかがい知れる、絶妙な位置にあったという立地条件が関係しているのです。
信長の構想を知るためにも、下の地図をご覧下さい。


安土城地理条件2(GE)500
(地図をクリックすると3倍に拡大します)


安土城がほぼ完成したのが、天正7年(1579年)。
地図で見ればよく分かるのですが、当時の信長勢力圏の中心に位置していることが分かると思います。
言い換えれば、将来の侵攻予定地への中心地でもあります。
これがまず、最大の理由。

たとえば、岐阜-敦賀-茨木の中心。
「岐阜」は、信長の本国(美濃・尾張)の本拠地とも言うべき地。
「敦賀」は、北陸侵攻の拠点となるべき地。
「茨木」は、畿内から中国侵攻への拠点となるべき地。
これらはすべて75km圏内にあります。
さらに、100km圏内まで広げると、大坂を通って「堺」、岐阜を通って「清須」と、信長の重要拠点を結び、つまりは、前述したように、信長の当時の勢力圏の中心地であると同時に、侵攻予定地への中心地でもあることが分かると思います。




二点目は、「中山道」のすぐそばにあるということ。
現在の感覚では分かりにくいのですが、鉄道もアスファルトの舗装道路もトンネルも何もなかった当時、西国-京-東国へと大軍を運べる道は、この中山道しかありませんでした。


中山道500


安土は、中山道のすぐ脇を通る要衝。
東西へ軍隊を素早く東にも西にも送ることができると同時に、万が一、信長軍が本国へ敗退するという事態に陥った時でも、安土の地で中山道を封鎖することによって、西国から岐阜への侵入を防ぐことができる。
これがもう一点です。




三点目は、京へのアクセスの良さが挙げられます。
信長が特に重視したのが湖上交通で、当時は琵琶湖に面していた(現在は埋め立てが進んでいますが…)安土からは湖の道と直結していて、そこから舟で坂本へ行き、さらに馬で比叡山を越えれば、その日のうちに京に入ることができました。


安土から京へのアクセス2(GE)500


京の都を、中国の巨大統一王朝「漢帝国」の首都・洛陽にたとえ、京に入ることを「上洛」と言っていた当時ですから、京へのアクセスは信長の天下統一事業として欠くことのできない要素だったのです。




安土の地を選んだ、信長の着眼点の鋭さ。
それは、現状を良とせず、常に「天下布武」を中心に据えていたところから発想したものであったことが分かると思います。





(主な参考資料)
一冊でわかるイラストでわかる図解戦国史(SEIBIDO MOOK)
戦国合戦大全 (下巻) (歴史群像シリーズ (51))



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