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浅井戦記(2)「包囲の章」


浅井戦記


【2】包囲の章


京に戻った信長は、裏切り者の浅井長政に対し、復讐戦を決意します。
京から岐阜城に戻ると、徳川の援軍も加え、当時としては大規模な3万の部隊を編成。
浅井氏の本拠地・小谷城に向けて出陣します。
前回の敗戦からわずか2ヶ月のち。この行動の早さが、信長の気質を表しています。

一方の浅井長政も、今度こそ信長を仕留めるべく、総力戦を決意。
朝倉氏の援軍と合わせおよそ1万8千。
数では信長・家康連合軍に劣りますが、地の利は浅井側にあります。


気が急いていた信長は、一気に浅井の本拠地である小谷(おだに)城を攻めますが、琵琶湖からみて400メートル以上の山上に築かれた浅井家の名城は、さすがに難攻不落。
攻略を断念した信長は、小谷城の周囲を落としてゆく作戦に切り替えます。

その方針のもと、横山城を攻める信長連合軍ですが…
その夜、闇にまぎれて、朝倉・浅井連合軍は、信長・家康連合軍と姉川を隔てた対岸に陣を敷くのです。

正面衝突。
数で劣る朝倉・浅井連合軍でしたが、浅井長政は、ただ城にこもって嵐が過ぎ去るのを待つような男ではなかったということです。
総大将は朝倉景健(かげたけ)ですが、朝倉側も姉川の対岸に引きずり込み、長政は乾坤一擲の勝負に出ます。
今度こそ、信長の首を取る覚悟でした。


姉川の戦い地図


そして…両軍は姉川で激突。
いよいよ、雌雄を決する時がきました。


姉川の戦い


半日に渡った戦でしたが、数で劣る朝倉・浅井連合軍は徐々に後退してゆきます。
浅井軍は善戦しましたが、朝倉軍がそもそも当主の朝倉義景が出陣していないなど士気に欠けたこともあり、連合軍としての力を発揮できませんでした。
敗退した朝倉・浅井軍は1800人近い死者を出し(これも当時としては異例の多さです)、姉川は血で川が赤く染まったと言われています。


それでも、浅井長政の息の根を止めることができない信長。
戦闘で勝ったものの、彼らを征服するだけの力は当時の彼にはありませんでした。




この動乱の中…ひとりの権力者が、信長との対決を決心します。
信長打倒の狼煙(のろし)を上げた、この男。


足利義昭アップ


信長にいいように使われ、上京後、利用価値がなくなればあからさまに見くびられていた義昭。
ついに、彼の堪忍袋の緒が切れます。

彼は、将軍として、各地の支配者に信長打倒の檄文を送りつけます。


当然、この檄文は浅井長政の元にも届き、迷わず彼は反信長の意志を鮮明にします。
その他、朝倉義景、三好三人衆、石山本願寺、比叡山延暦寺が決起、六角義賢と松永久秀は信長支配下にあったのですが、反旗を翻します。
石山本願寺は、雑賀や伊勢長島の門徒に檄文を送り、包囲はさらに拡大します。
さらには、あの武田信玄までもが加わり、反信長の旗は、彼の勢力圏を柵で囲い込むように次々と広がってゆくのです。


「腐っても鯛」とは、よく言ったもの。
「腐っても将軍」で、彼が各地に送った檄文の効果は絶大でした。
ここに、近畿・中部を舞台にした大規模な信長包囲網が完成するのです。



信長包囲網(GoogleEarth)500
(地図をクリックすると3倍に拡大します)


上の図でいう白枠の勢力が、信長包囲網の参加勢力です。
信長・家康連合を隙なく囲っているのがよく分かると思います。
歴史上、

『第一次信長包囲網』

と言われているものです。



信長は当初の作戦通り、摂津(現在の大阪府北部)の三好三人衆を攻めるのですが、石山本願寺が信長攻撃に加勢します。
信長が摂津でぐずぐずしていると、朝倉・浅井連合軍が琵琶湖の西側から南下して、比叡山の山上から信長の背後を突く気配を見せる。
信長が本拠地の岐阜にとって返そうとすると、六角義賢が反旗を翻し、岐阜への道を遮断します。さらに、長島の一向一揆が蜂起し、伊勢ルートをも遮断。
信長は、本国の美濃・尾張との連絡路を断ち切られ、畿内で完全に孤立します。

さらに、浅井軍が京の鳥羽伏見にまで侵入、三好三人衆の一派も京付近の山城で騒ぎ立てる。
京支配の崩壊を恐れた信長は、ついに摂津陣を引き払い、京へ戻るのです。


元亀元年の年末。
姉川の戦いから、はや半年が経とうとしていました。



四面楚歌の信長。
本国からの援軍も望めず、四方八方を敵に囲まれ、逃げ場はどこにもない。
朝倉・浅井の両軍は比叡山に布陣し、いつでも京をうかがえる陣構えをしている。
浅井長政の悲願を達成する瞬間が訪れた…ように見えました。


信長包囲網(京の包囲網)




しかし、ここで、浅井長政は信長総攻撃に踏みきれませんでした。
兄貴分である朝倉義景が、決断できなかったことが最大の原因です。
さすがに浅井軍だけでは、京の信長軍を壊滅させることはできません。

千載一遇の機会を、浅井長政はまたもや逃してしまうことになります。
前回同様、朝倉義景の優柔不断さ(=肝の細さ)と、浅井長政の説得力のなさが仇となりました。



さて、このまま黙って死を待つ信長ではありません。
軍事力が通じなければ、政治力で局面を打開するのが信長流。
まず、六角義賢を説得し、単独和睦して本国との連絡路を確保すると、時の正親町(おおぎまち)天皇に仲介してもらい、最大の障壁である朝倉・浅井と停戦します。
浅井長政は歯がゆい思いをしたでしょうが、信長が京から身を引くそぶりを見せ辞を低くしたことに加え、天皇の斡旋となると受けざるを得ませんでした。
信長の政治手腕の勝利です。


信長包囲網(崩壊1)500



元亀2年。

信長の反転攻勢が始まります。
浅井長政との和睦を一方的に破棄し、南近江の根拠地である佐和山城を攻め落とします。
5月には長島一向宗を攻撃、9月に比叡山を焼き討ち。京を背後から突かれる憂いを断ち切ります。


信長包囲網(崩壊2)500



元亀3年。

いよいよ、元亀争乱の元凶である浅井長政を討つべく、小谷城を包囲。
さらに、朝倉の援軍を防ぐ砦を築き、浅井勢を完全に孤立させます。
長政はこの時、死をも覚悟したかも知れません。


戦局は、信長優位に傾きつつありましたが…



ここで、ついに、巨人が動きます。
武田信玄が満を持して、京に向けて大軍勢を進行させるのです。
彼の動向が、崩れかけていた信長包囲網の運命を決するのですが…
次回最終章「滅亡の章」に続く!

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おまけ。

今回の『歴史秘話ヒストリア』は、信長が美濃・尾張を支配するまで(つまり『江』が始まるまで)の物語でした。
有名な「桶狭間の戦い」、信長のトレードマークである「天下布武」など、おなじみの言葉が出てくるので、比較的見やすい内容でした。
なぜかホームページでは再放送予定がBS2しかありませんでしたが、今年から再放送枠が減らされたのでしょうか…??




(主な参考資料)
一冊でわかるイラストでわかる図解戦国史(SEIBIDO MOOK)
戦国合戦大全 (上巻) (歴史群像シリーズ (50))



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