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浅井戦記(1)「反旗の章」


浅井戦記



『江』第1話が、あまりにもハイスピードで歴史を通り抜けてしまったので、正直、訳が分からなかった人も多かったと思います。
もちろん、今回の大河ドラマはそもそも歴史の本流を追ってゆくドラマでないのでそれでいいのかも知れませんが…

となれば、戦国史の本流はこのブログで綴ってゆくしかなさそうですね。


まずは、第1部で強烈な印象を残して散っていた、浅井長政。
彼の戦火の記録をたどってみましょう。
題して、

『浅井戦記』


※この連載のため、勝手ながら今週は「続・龍馬伝」は休ませてもらいます。


3回シリーズでお届けします。
今回は、その第1章。




【1】反旗の章


第1話を見て、何となく釈然とせず、疑問に思った人も多いと思うんです。

「なぜ浅井長政は、わざわざ信長を裏切ったの?
勢いのある信長に付いていった方が良かったんじゃないの?」



「天下の覇者・信長に戦いを挑むとは、身の程知らずの愚か者め」
信長のこの後の活躍を知っている我々は、ついついそう思ってしまいます。

…しかし、この当時の信長は、必ずしもそうではなかった。
彼の天下取りは危険な綱渡りの連続でしたが、この頃の信長も、非常に細い綱を渡ろうとしていたのです。
周囲から見ていても、危なっかしくてしょうがない。
ちょっとでも計画が狂えば、一気に奈落の谷間に落ちてゆく危険に満ちている。

それを象徴するのが、この言葉。
この当時(元亀(げんき)元年~4年)の信長4年間の争いを指し、

元亀争乱


と言われています。
その争乱の導火線に火をつけたのが、今回の主人公「浅井長政」

まずは、下の地図を見て下さい。
当時の近畿圏内の勢力図です。


姉川周辺図500
(地図をクリックすると3倍に拡大します)



ドラマであったように、信長は足利義昭をたくみに利用して上洛、つまり京へ上ります。
信長の本拠地である美濃・尾張と、京への連絡路となったのが北近江を支配していた浅井長政。
信長は政略結婚によって浅井氏を味方に付けると、さっそく、行動を開始します。
畿内制覇の最大の障害になるであろう朝倉氏を討つべく、京から朝倉の本拠である一乗谷を目指し、突如、軍を動員させるのです。
※上の地図では赤色の矢印です


この討伐軍、朝倉氏当主・朝倉義景(よしかげ)にとっては、寝耳に水のできごとでした。
信長は「足利義昭公に代わって反逆者を成敗する」と言っていますが、それはタテマエで、実際は理由なき武力行使。
浅井長政にとっては、朝倉氏は3代に渡って兄貴分として浅井氏を支えてくれた恩人です。
その朝倉が、今まさに討たれようとしている。



浅井側には、朝倉側から「旧知の誼(よしみ)で助けてほしい」という使いが当然、来ていたと思います。
このままでは、朝倉が攻め滅ぼされるのは必然。
そうなれば、恩に背くばかりか、浅井の領地は信長によって包囲されてしまいます。


浅井長政の胸中には、おそらくはこれ以上ない葛藤があったろうと思います。


市のことを考えれば、当然、同盟関係は維持しておきたい。
しかし、朝倉氏をも制した信長に対し、浅井家が生き残る道はあるのか。
やがて、いわれのない難癖を付けられて、信長自身に滅ぼされることはないのか。



何ら敵対行為を取っていなかった朝倉に対し討伐軍を出した信長を、長政は不気味に感じたに違いない。
周囲を見渡せば、当時の信長には、東西に多くの反抗勢力がいました。
※上の地図の白枠部分です


彼らと手を組めば、信長勢を畿内から駆逐することはそんなに難しいことではない。そうなれば、畿内をすべて敵に回してまで攻め上ってくるほどの冒険は、さしもの信長でもできまい。


さらに、朝倉氏を攻めている今が絶好の機会。


今ならば、朝倉と浅井の兵で、信長をはさみうちにできる可能性がある。




長政は、決断します。
信長の背後を突くべく、兵を動かすのですが…


信長の行動は、浅井の予想を超えた迅速なものでした。
斥候により、「浅井、離反す」の報が伝わるや否や、軍を反転させ、京へ撤退します。
※上の図のピンクの矢印です
朝倉軍の追撃がゆるかったこともあり、撤退戦にも関わらず、ダメージはあまり受けませんでした。

ちなみにこの時、市が兄信長の危機を知らせようとして、袋にあずきを詰めて両端をひもでしばり、陣中見舞いと称して信長陣に送った。それを見た信長は、自分が袋のねずみになりつつあるという意味を悟り、浅井の裏切りをいち早く知ったというエピソードがありますが…
おそらくは後世での創作だと思われます。



________________________________________________________

浅井長政は、この時、信長を討つ千載一遇の機会を逃し、それが結果的には、自身を滅ぼす伏線になってしまいます。
なぜ彼は、挙兵をもう少し遅らせなかったのでしょうか?
たとえば、信長が木ノ芽峠あたりまで到達し、いよいよ一乗谷をうかがうというところまで粘った上で行動を起こせば、南北で信長を完全に挟撃できたはずです。
それこそ本当に「袋のねずみ」で、信長を殺すこともできたはず。


浅井と朝倉の挟撃500


理由は、以下のようなものでしょう。
朝倉義景という人間が、名門にありがちな、肝の座らない男で、信長を自陣深くまで誘い込むだけの度胸がなかった。
浅井長政も、怯える朝倉を説得して挟撃作戦を遂行させるだけの説得力・実行力がなかった。
もしくは、仮にそう考えていたとしても、それを斥候に気づかせるような浅井の陣立てのまずさがあったのかも知れません。
結果的には、中途半端なところで信長に気づかれ、逃亡を許すことになります。



…が、信長にとって危機が完全に去ったわけではありません。
この後、足利義昭を盟主として、大規模な信長包囲網を作り上げることに成功するのです。
次回「包囲の章」お楽しみください!




(主な参考資料)
一冊でわかるイラストでわかる図解戦国史(SEIBIDO MOOK)
戦国合戦大全 (上巻) (歴史群像シリーズ (50))



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