< 2017年09月 |  12345678910111213141516171819202122232425262728293031 | 2017年11月 >
ホーム  > スポンサー広告 > 後藤流・大政奉還(2) > 龍馬伝関係 > 後藤流・大政奉還(2)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

後藤流・大政奉還(2)


大政奉還は、いろんな人の努力の結果、成し遂げられたものです。
龍馬ひとりの手柄でなく、後藤象二郎ひとりの手柄でもないのですが…
今までは、どうしても龍馬がクローズアップされてきましたので、彼の影に隠れて歴史の陽の目をみなかった後藤象二郎にスポットを当てる「後藤流・大政奉還」その第2弾です。


後藤から龍馬への手紙(背景


これは、龍馬の手紙に対する後藤象二郎の返信です。


龍馬からの手紙については、ドラマ中でもありましたね。
なかなかいい場面でした。


龍馬からの手紙を読む後藤(



龍馬の手紙が「あなたは生きて帰らないでしょう」や「将軍を討ち、死後会いましょう」など、彼らしい、激烈な内容であるのに対し、後藤からの手紙は「後日挙兵するつもりで生きて帰ることもありうる」と、あくまで冷静に述べているのがおもしろいところですね。



この時期、両者に会った幕臣の永井尚志(ながい・なおむね)は、ふたりをこう評しています。
はじめ、後藤象二郎に会い、

「確実正直な人物」

と評し、その後、龍馬に会い、

「後藤よりいっそう高大で、話す内容も面白い」

と評しています。

どちらが上か下かということでなく、大政奉還の是非と幕府の置かれている現実を堅実に話した後藤と、大政奉還による新国家構想をぶちまけた龍馬の姿、彷彿としませんか?


________________________________________________________

さて、10月3日に大政奉還の建白書を提出した後藤象二郎。
その後、板倉勝静(老中首座)や永井尚志(若年寄格)など、幕府の重臣と面会し、説得を重ねます。
しかし、ハイそうですかと一足飛びにはいかない。

そこで重ねて龍馬が永井尚志を訪ね、説得を行うのです。
永井が両者を評した言葉は、この時の印象から出ています。


ちなみに、この永井尚志なる人物。


永井尚志


「若年寄」という役職は、幕府の中でも老中に次ぐ身分ですね。「年齢の割に老けている人」という意味ではありませんので、ご注意(?)です。交渉力を買われ出世していった人物ですね。
慶喜の信任も厚く、彼を動かせるかどうかが大政奉還の可否を占ったということです。
彼自身も賢明な人で、討幕派の勢いを封じるためにも、大政奉還を受け入れるのが良策だと考えていた節があったようです。実際に後藤や龍馬と会って、彼らの構想力の高さを知り、建白受諾を決意したのだと思います。
彼を動かしたことにより、内々でのGOサインは出ていたということでしょう。



【10月12日】
慶喜は、松平春嶽や尾張藩の徳川慶勝らを呼び、大政奉還に関する意見を聞きます。
そして、建白を受け入れることを99%決意したようです。
それを松平容保(京都守護職)、松平定敬(京都所司代)らにも伝えます。
この決断は、永井尚志を通じて後藤象二郎にも伝わっていたということです。
この時点で、後藤象二郎は大政奉還の決定をほぼ確定的にします。


【10月13日】
京にいる諸藩の重臣40名余りを二条城に呼び、慶喜は彼らから意見を聞きます。
居並ぶ参列者のほとんどは寝耳に水で、意見を述べるものはありません。
そこで、老中首座の板倉勝静の指示により、薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎らが意見を述べるのですが…
申し合わせの通り、諸藩代表格の薩摩藩が建白受諾に賛成したことで、あえて反論する諸藩はひとつもなかったということです。

後藤は下城後すぐに龍馬に手紙を書き、建白書が受け入れられたことを伝えます。
それを知った龍馬は感極まり涙を流したと記録に残っています。
※決して「日本の夜明けぜよォ~!!!」と叫んだわけではありませんので、あしからず。


【10月14日】
慶喜が朝廷に政権を返上。
奇しくも、西郷や大久保らの工作によって討幕の密勅が出された同じ日でした。
密勅のことは何も知らない慶喜でしたが、ギリギリセーフで間に合ったわけです。
翌日、朝廷から返事が来て、正式に大政が奉還されます。





このようにみると、後藤象二郎はドラマであるような熱血漢というよりむしろ、冷静沈着な敏腕政治家というイメージですね。
前述の手紙も、このような背景からみると、

何も知らず大政奉還なされるかどうかをイーブンでみていた龍馬の必死さ

に対して、

ほぼ勝利を手中にしつつあった後藤の余裕

のような側面もみえて、興味深いですね。






(主な参考資料)
龍馬のすべて(平尾道雄著・高知新聞社)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)
[図解]坂本龍馬の行動学



ブログ記事一覧へ>>



ワンクリックの応援お願いします

関連記事

2010/11/25(Thu)10:20

TV-Rockerさんこんにちは!
実は今回の「大政奉還」はわたしにとっては期待したほどの回ではなくちょっと拍子抜けだったのですが、TV-Rockerさんのこの記事を読んでいるうちにだんだん感極まってきました!
そして歴史というものが史実というよりは生身の人間の感情の交差だからこそどんどんはまってしまうというのを今また体感してしまいました!
彼らに会っていなくてもじわじわそのときのシーンが甦ってくる感じです。でも今回はドラマよりTV-Rockerさんの記事でジーンときました!
今日の夜もう一度ドラマのほう鑑賞しようと思います。

後藤象二郎という人物・・・さすがに土佐藩の重役?沈着冷静なタイプだったんですね、実際の写真や青木!象二郎だといっつも汗だらだらで必死に頑張っている感じですが、こんなところも史実とドラマの違いでおもしろいです。

あぁ~いよいよ龍馬伝も終わっちゃう・・・泣
当分はDVDで浸ります・・・

名前:Miwakitz (URL編集

Re: タイトルなし

2010/11/26(Fri)02:38

>歴史というものが史実というよりは生身の人間の感情の交差だからこそどんどんはまってしまう

この部分、僕も非常に共感します。
歴史を勉強し、龍馬が、後藤象二郎が、永井尚志が、どんな覚悟で、どのように考え行動したのか、思い巡らすと、単に知識として大政奉還を知っている以上の感動が出てきますよね。

このブログを始めて、僕もつくづく実感しました。


後藤象二郎は、明治新政府になってからはあまり目立った活躍はできなかったようですから、龍馬と共に活動していたこの頃が、彼としても一番輝いていた時ではないでしょうか。
彼は、自分から率先して前に向かって道を切り開いてゆくというよりは、与えられた目標に対して精緻に実績を積み重ねてゆくタイプの人間だと僕はみました。
龍馬のように、彼を使い切る人材が明治にはもはやいなかったということですかね?

名前:TV-Rocker (URL編集

2010/11/27(Sat)18:30

TV-Rockerさん!「大政奉還」もう一度見直してみました。
やっぱり・・・物足りなかった・・・たぶん・・・龍馬が決死の手紙を書くあたりはいいとして全体に詰め込みすぎ?のせいで薄っぺらの印象・・・詰め込みだから長まわしも今回は少なくなってしまったし、編集でたくさん継ぎ足した感じ?を受けました。

ええじゃないかはビジュアル的にはよかったけれど、そこに龍馬、勝先生、新撰組が鉢合わせって無理ぃ~で一気にどっ白け!

TV-Rockerさんの記事を読んでなんとか盛り返しましたが最終回が近いってどんなドラマもたいへんなんですね、大概つまらなくなる・・・

歴史的な観点からほんとうはどうだったのか知りたいのですが、最後に慶喜に進言したのは象二郎だったのか小松帯刀だったのか、さたまたどちらでもなかったのか?

あと薩長のほんとうの思惑は??

自分で調べろ!といわれればそれまでなのですが、史実はともかくTV-Rockerさんはどう受け止めていますか?

名前:Miwakitz (URL編集

Re: タイトルなし

2010/11/28(Sun)17:03

今回は盛りだくさんすぎましたね。
勝麟太郎と新選組は、正直いらなかったと思います。なんかすごい唐突感ありましたし、あれだけ新選組の情けないシーン見せられたら、新選組のファンがかわいそう、と少し思ってしまいました。

ご質問に対してですが、

1.慶喜が決断に至った「進言」という意味では、永井尚志か松平春嶽あたりのアドバイスが効いたのではないかと思います。
 当然「朝廷に政権を返上したところで、実際の政権に慶喜公が関与する策はありますし、なにより討幕派の出鼻をくじくことになりますので、有利ですよ」という耳打ちもしたでしょうし。
 10月13日の後藤象二郎・小松帯刀の進言については、もともと薩摩藩をバックにして土佐藩から建白書が出されたのですから、この2名は建白受諾に賛成するに決まっています。ですので、まあ、他の諸藩を納得させる意味合いも含めた儀礼的なものとして進言させたのだと思います。

2.あと、薩長の思惑については、「鎧をまとった慶喜を討つより、幕府という鎧を脱いだ慶喜を討つほうが簡単だ」という意見から、実は大政奉還に賛成だったんだ、という説もあります。
 ただ僕は、戦において何より必要な大義名分を立てるという点から、大政奉還自体に不賛成で、建白書が出されたあとも慶喜が大政奉還を拒否することを願っていた、というドラマにあるような説を支持しています。
 実際、大政奉還後、戦の大義名分を作るのに、薩摩はずいぶんと苦労しています。この時すでに軍備も揃っていたので、名分があればいつでも兵を挙げられるわけですから。
 それに、全国の幕府軍・佐幕派諸藩を相手にするわけでなく、京都の幕府軍を蹴散らして京都御所を占拠すれば、官軍として政局をかなり動かせるわけですから、のちの鳥羽伏見の戦いを見ても、そういったことを最初から狙っていたと思います。
 大政奉還が受諾され、彼らは戦略も見直しを余儀なくされたと思います。

名前:TV-Rocker (URL編集

管理人のみ閲覧できます

2010/11/28(Sun)22:10

このコメントは管理人のみ閲覧できます

名前: () 編集

管理人のみ閲覧できます

2010/11/29(Mon)05:23

このコメントは管理人のみ閲覧できます

名前: () 編集

管理人のみ閲覧できます

2010/11/29(Mon)05:42

このコメントは管理人のみ閲覧できます

名前: () 編集

コメントの投稿

コメントの投稿
装飾
非公開コメント


トラックバック

トラックバックURL


▲page top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。