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福沢諭吉の『やせガマンの説』


『痩我慢の説』

この妙なタイトルの持論を新聞に投稿したのは

福沢諭吉


そうです。僕たちが大好きな、あの福沢さんです。
間違っても、こんなバチ当たりなことをしてはいけませんリラックマ9「ガーン2」


スーパー万400
よーちゃんのちょっと一服コーナー様「お札有折り紙」より転載)




この説が投稿されたのは、幕末維新の興奮も過去となった明治24年のこと。


明治の人間である彼をなぜ幕末史に登場させるかというと、実は彼、幕臣の勝海舟・小栗忠順と不思議な接点を持っているんですね。
1860年、「日米修好通商条約」批准のためポーハタン号(小栗忠順らが乗船)と咸臨丸(勝海舟らが乗船)が太平洋を横断し、アメリカ西岸に到着します。
実は、この咸臨丸に、若き福沢諭吉も乗っていた。
当時、洋学者として江戸で多少は名を知られるようになっていた福沢諭吉を、幕府は咸臨丸に同乗させているのです。



この3人は、明治維新前後にかけて、特徴的な動きをします。

小栗忠順は、幕府を大改造して近代国家に立て直そうとした。
勝海舟は、西郷隆盛・横井小楠・坂本龍馬らと交わり、幕閣でありながら倒幕を影で支えたと言えなくもない。
福沢諭吉は、官には仕えず、しかし明治政府から無類の賢者として尊敬を受け、政府のよき助言者として活躍をした。


「徳川幕府」をひとつの大きな家に例えたなら、


家


小栗リフォーム業者
勝 解体屋
福沢「明治国家」という新築の家の設計アドバイザー


このように言えるのではないかと思います。


________________________________________________________


さて、『痩我慢の説』の中に、次のような文章があります。


「父母の大病に回復の望なしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるがごとし」


つまり、

「両親が不治の病にかかり死のうとしているとき、たとえ助からないと思っても、亡くなる寸前まで看病の限りをつくすのが人の情けというものではないか。
その行為がたとえ無理で無茶な行為=『痩我慢』であったとしても、人間は、痩我慢をすべき時はすべきである。
『痩我慢』こそが人や国家の道である」



このように、福沢は言っているのですね。



実はこの「父母の大病…」という言葉、彼のオリジナルではありません。

オリジナルは小栗忠順。
彼が、自分の信頼する部下である栗本鋤雲(くりもと・じょうん)にむかって言った言葉です。
福沢は明治になってから栗本鋤雲を通してこの言葉を知り、自分の言葉として使っているのです。



当時、小栗は栗本らと協力し、横須賀に大規模な造船所を作っていました。
表面的には、薩長倒幕派に対抗するための軍事施設です。
しかし一方、彼はこのようなことも言っているのです。

「横須賀造船所ができあがれば、たとえ幕府が亡んでも『土蔵付きの売家』という名誉を残すだろう」


小栗は、幕府の命がもはや風前の灯火であることを悟っていた。
その上で、たとえ幕府が滅んでも、徳川家の名誉は守ろうとした。
幕府が売家(=倒幕)となっても、あの造船所(ドック)があれば、
「幕府は将来役に立つ土蔵(=横須賀ドック)を残しておいてくれた。やはり幕府は将来に対する目利きがあったんだ、これは幕府に感謝せねば」
という、せめてもの名声は残るではないか。
そう彼は考えた。


小栗忠順の精神。
それは、余命いくばくもない幕府を最後のひとりになっても支え抜くこと。
幕府の名誉を最後のひとりになっても守り抜くこと。



その心意気が、福沢の心を捉えたのです。

幕府末期には将軍から全権を委ねられた身でありながら江戸城を明け渡し、幕閣でありながら徳川解体に加担するような真似をした勝に対して、
「あなたは、瀕死の両親を見捨てたのですよ」
と、瓦解寸前の幕府を大病を患う両親にかけて、勝と小栗の対応の違いを皮肉って言っているのです。



現在、勝海舟といえば、幕末維新の偉人のひとりに間違えなく数えられます。
彼を批判する人は稀ではないか。
「龍馬伝」も、典型的な勧善懲悪論で、勝も含め龍馬ら倒幕側を「善」、幕府側を「悪」と決めつけているフシがありあます。


しかし、幕府にも骨のある人間がいた。
江戸城無血開城にあたっても、彼は勝の意見を是とせず、徹底抗戦のプランを立てています。
のちに倒幕側がその計画を知った際「もしこの計画が実行されていれば、大変な血みどろの争いになっていただろう」と背筋が凍ったと言われるものです。
最後まで抵抗をする小栗に対し、明治政府は有無を言わさず彼を斬首しています。



小栗は、いわば大恩ある幕府に殉じたのです。
その考え方は極めて先進的で、抜群の経済センスをもつ彼ですが、その精神は、生粋の三河武士であった。

そこに、彼の「敗者の美学」もしくは「亡びの美学」をみるような思いがします。
もっとも武士らしい人間が死に、明治の世は明けることになるのです。





(主な参考資料)
「明治」という国家(司馬遼太郎)



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