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「イカルス号事件」始末記


「いろは丸」に続き、「始末記」第2弾。

特に今回の「龍馬伝」は、史実を大幅に変えてきましたので、実際はどうだったのか、そこんとこ、しっかり知っておいてもらいたいと思います。ちょっと記事長いですけどね。
まあでも、「史実はドラマよりも奇なり」で、実際の歴史事実の方が面白いこともよくなることですので…リラックマ44「ひらめき2」

(※)分かりやすくするため、「雨の逃亡者」予告での記事を一部再掲しています。



(1)「イカルス号事件」勃発

1867年7月7日深夜2時ごろ。
龍馬が「夕顔丸」船上で後藤に「船中八策」を示した約1ヶ月後のできごとです。

丸山の繁華街でイギリス軍艦イカルス号の水夫2人が泥酔して道路に寝ていたところ、何者かに殺害されたという事件が発生します。


英国水夫殺害


これより先の5月にアメリカ商船の水夫が殺され、同じく7月始めにも西洋人が雇っていた中国人3人が斬られるという事件が起こっていましたが、いずれも犯人は捕まっていませんでした。
そこに今度は、イギリス海軍の水兵が殺されるという事件。
度重なる外国人殺害事件に、事態は予想以上に大きくなってゆきます。


(2)海援隊隊士、容疑者に


ちょうど長崎にイギリス公使パークスが来ていたことから、事件はさらに複雑になります。
パークスが得た目撃情報によると、犯人が持っていた提灯(ちょうちん)の紋が土佐藩のものに似ている。さらに、現場の近くの料理屋に海援隊の隊士が来ていたという情報も寄せられます。


さらに、以前から海援隊に目をつけていた長崎奉行が、このような情報をパークスに流します。

事件後、土佐藩の帆船「横笛丸」と砲船「若紫丸」が相次いで長崎を出港した。
その後「横笛丸」のみが翌日に長崎に戻ってきた。
実は、海援隊の隊士の1人が、事件の夜に、停泊中の「横笛丸」に密かに乗り込んだという噂がある。
おそらく、長崎脱出のため港を出たあとで「若紫丸」に乗り換えたに違いない。
これは、真犯人をかくまうため海援隊と土佐藩が仕組んだ工作と推定される。
(本によっては、これをパークスの推理とするものもあります)


海援隊隊士の土佐脱出


イギリス公使パークスは、こういった情報から、犯人は海援隊隊士・土佐藩士・もしくはそれに関わる者のいずれかに違いないと決め込みます。
始め、パークスは長崎で土佐藩出張所の代表として、岩崎弥太郎と面会します。
岩崎はパークスの主張に対し、真っ向から反論、会議は決裂します。
パークスは土佐藩に直接乗り込み、直談判を申し入れます。
土佐藩とイギリス公使パークス。
事態は、両者の談判に持ち越されます。


(3)夕顔丸での談判


土佐藩代表として、山内容堂は後藤象二郎を選任。
後藤とパークス、それに幕府側の代表者も加え、第1回目の談判が開かれます。
場所は、土佐沖に停泊してある「夕顔丸」(龍馬が船中八策を披露したあの船です)の船内。

実は最初、パークスは日本人をナメてかかっていて、後藤をにらみつけて机を叩き、床を踏み鳴らして罵声を浴びせかけます。
「今までの東洋人は、こうすればたいがい言うことを聞くようになる」という、彼の今までの経験があったのです。

しかし、そういった芝居が通じる相手ではありませんでした。
静かにそれを眺めていた後藤。
「あなたは交渉のために来られたのか、恫喝のために来られたのか、どちらなんですか?
 適切な交渉がなされないのでなければ、私たちは談判を中止せざるを得ません」
イギリスという強国の公使を相手にしての初めての交渉にして、この冷静さ。
後藤の肝の太さを示すいいエピソードだと思います。

彼のこの言葉に、パークスは態度を改めます。
「無礼な態度を取り、申し訳ない」
そう前置きをして、ようやくキチンとした談判に入るのです。


後日、通訳アーネスト・サトウは彼の書物の中で、この時のことをこう述べています。
「後藤は今までに私たちが会った日本人の中で最もすぐれた人物であったから、パークスは彼を非常に気に入った。私が思うに、後藤以上の人物は西郷ぐらいではなかったか」


第1回に続いて第2回の談判が開かれるも、結論は出ません。
パークスは、これまでの証拠から犯人は海援隊隊士の可能性が極めて高いと主張する。
一方、後藤は、パークスの主張は状況証拠を自分の描いたストーリーに合うように都合よく解釈しているだけで、客観的な正確さに欠けると主張する。
両者の主張は平行線をたどるのです。


(4)龍馬のアイディア、懸賞金


ここで龍馬の出番です。
彼は長崎に入ると、パークスが主張する海援隊隊士のアリバイを次々と立証し、談判を有利な展開に運んでゆきます。
ここで取った龍馬の行動が、面白い。
彼は、このように宣言するんです。

「我々海援隊も、犯人に対して怒りを覚える。
 イギリスが犯人を見つけたい気持ちは我々も同感である。
 そこで、犯人逮捕に我々も全力を尽くす。
 海援隊として犯人に1千両の懸賞金をかけることにした」


これを長崎の全域に布告します。


1千両という大金は、海援隊にとっても巨額の出費に違いない。
本来は奉行所がやるべき仕事に、なぜ懸賞金を出そうというのか。

この手法、実は、前回の「いろは丸事件」と同じなんです。
つまり、世論を味方につける。
この布告により、海援隊が犯人でないことを世間にアピールするのと同時に、「パークスの犯人逮捕に協力する」と言うことにより、世間の関心を海援隊でなく、どこかに隠れているはずの真犯人に向けさせる狙いがあるのですね。


しかし…
この後も真犯人は見つからず、長崎奉行やパークスの海援隊に対する容疑はしつように続くのですが、結局、証拠不十分で海援隊の疑惑はようやく晴れるのです。


(5)最後のとばっちり


さて、海援隊は晴れて無実の身になりました。
しかし、それで納得しないのが長崎奉行。
奉行所の捜査が間違っていたことを世間にさらけ出してしまったわけですから、海援隊に恥をかかされたと逆恨みします。
ついには、横笛丸が港を出航するときに奉行所の定める手続きを踏んでいないとクレームをつけ、関係者を呼び出します。
呼び出された4人のうちの1人が岩崎弥太郎。
彼は現実主義というか、こういう場合、アッサリ謝ってしまうんですね。
「すみません、たしかに手続きが不十分でした」と。
この時、弥太郎含め2名が謝り、2名は最後まで頭を下げませんでした。

のちに龍馬は、手紙の中でこう皮肉っています。
「ただいま戦争(イカルス号事件のこと)は事なく終わったが、岩崎弥太郎らは戦う気力も戦略もなく、ただただ敗走した」
そして、最後まで頭を下げなかった2名を「敵軍に一死を報いた」と評価しています。
事件を「戦争」を言っているところは龍馬らしいところです。
龍馬も合理主義ですが、こういう勝ち負けの話になると、サムライ魂が出てくるのか、こだわりをみせるんですね。
そのあたり、徹底した合理主義というか、商売魂のカタマリのような岩崎弥太郎との違いが表れていて、おもしろいところだと思います。


(6)後日談


犯人が見つからず、消化不良のまま終わった土佐・パークス談判。
明治政府になっても、パークスは土佐藩に対する犯人追求の手を緩めていません。
(けっこうしつこいですね、この人も)

パークスの要求に対し、明治新政府と土佐藩が血まなこになって犯人を探した結果、ようやく真犯人が見つかります。

筑前福岡藩士・金子才吉。


事件の晩、数名の友人と星祭りの見物に出かけた際、道ばたで泥酔しているイギリス人水夫2人を見て不快感を覚え、その場で斬り捨てた。
事件後、福岡藩に自首した後、自ら切腹しています。
福岡藩も、事件が国際問題に発展しているのをみて恐れをなし、その事実を隠していたのです。

真犯人が確定したのは、事件から1年あまりのちのことでした。



海援隊に冤罪をかけられた龍馬にとって、この事件は不慮の災難でした。
この間、土佐藩の大政奉還建白の準備は中断されてしまい、そうこうしているうちに、討幕派の挙兵計画はどんどん進み、先を越されてしまうのではないか。
龍馬の焦燥する姿は、この時期の手紙などにも現れているのです。






(主な参考資料)
龍馬のすべて(平尾道雄著・高知新聞社)
[図解]坂本龍馬の行動学(武村鏡村著・PHP研究所)




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