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「倒幕」から「討幕」へ


第43話の始まりは、なかなか良かったですね。
「四侯会議」と「龍馬の京都行き」を上手く重ねていました。






さて、その

四侯会議

これは一体何なのか?


結論から言うと、薩摩藩が武力を用いずに政治の実権を握ることのできた最後のチャンスであり、この機会を逃した薩摩藩は、もはや武力倒幕しか道はないと結論づけることになるのです


発端は、薩摩藩の事実上のトップである島津久光(久光は藩主の父親という立場ですが、実権は彼が握っていました)が、3000人余りの兵を率いて突如、京にやってきます。
理由はこうです。
将軍に就任したばかりの慶喜が、外国との通商条約で先延ばしになっていた兵庫港の開港を独断で許可したそうだが、これはけしからん。
朝廷の許可をいただいてから兵庫は開港すべきである。
そのへんのところ、キチンと話し合おうじゃないか、ということでした。


兵庫開港がどうのこうのというよりも、久光は、この機会を待っていたのだと思います。
彼は「日本の重要事項を幕府が独断で決めた」ことに反対したかったのです。
彼が言いたかったのは、つまり、こういうことです。
時代は移り変わったのだ。
この期に及んで、幕府が政治の実権を牛耳るのはもうやめにしないか。
と言っても、自分に政権を渡せと言っているのではないんだ。
慶喜が膝を屈し、諸藩と同じ立場となり、徳川と諸藩の代表者、そういった人々の合議によって政治を行うべきではないか。

そういうことで、ドラマでもあったように、
土佐藩前藩主・山内容堂
宇和島藩前藩主・伊達宗城
越前藩前藩主・松平春嶽
という、当時の日本の実力者を呼んで、慶喜の前で会議を行ないます。
これが世にいう「四侯会議」です。


四侯会議

※四侯として、当時の改革派雄藩の代表者が集まりました。



ここで慶喜が折れて、
「そうだな。これからは、幕府が勝手に決めるのでなく、大事なことはすべてみんなと相談をして多数決で決めよう」
と言っていたら、その後の日本の歴史は全く変わっていたでしょう。

つまり、政治の体系が

徳川と雄藩による合議制


という形になっていた。
当然、薩摩としては幕府の専制政治を倒した(=倒幕)と同様の結果で、あえて武力を行使し余計な混乱を招く必要もありません。
この後は政局の中で、徐々に自分たちの発言力を高めてゆけばいい話で、彼らの関心事は武力行使でなく、政治抗争に向けられてゆくと思われます。



しかし、歴史はそうはならなかった。
久光のもうひとつの議題に挙げていた「長州藩の処分問題」と、当初の議題である「兵庫開港問題」のどちらを先に話しあうか、という第一歩から、久光と慶喜は対立します。
久光としては、自分が会議のイニシアチブ(主導権)を取ることにより、相対的に将軍慶喜の政治的発言力を低下させ、薩摩主導の合議にもってゆく狙いがあったのだろうと思われます。
だからこそ、ここで慶喜にあえて反論し、彼が折れるのを待っていた。
しかしながら…慶喜は折れませんでした。
逆に、久光と議論を戦わせる。
1対1の議論になれば、抜群に弁が立ち、頭の回転もピカイチの慶喜に、久光は歯が立ちません。
雄弁家の慶喜が、議論で久光を封殺し、四侯会議はあえなく解散してしまいます。


その結果を見届けた西郷隆盛と大久保利通は、もはや話し合いで慶喜を説得させることは不可能だ、こうなった以上は武力をもって幕府を討つしかない、と藩論が完全に固まります。
すわなち、


「倒幕」から「討幕」(=武力倒幕)へ


その後、彼らは小松帯刀邸に土佐藩の中岡慎太郎、乾退助(いぬい・たいすけ=のちの板垣退助)ら武力倒幕派を呼んで会合を開き、最終的には薩摩と土佐の討幕同盟を結ぶことに成功します。いわゆる「薩土盟約」です。
さらに、薩摩藩主の弟・島津備後(びんご)が1500の兵を率いて上洛、久光と交代。
久光が率いてきた兵3000と合わせて4500を京都に常駐させるのです。
あとは、朝敵となっていた長州藩の罪が許されて京に兵を連れてくることができさえすれば、京の幕府軍に対抗しうる兵力を揃えることができる。そう薩摩は踏みます。
そして、その機会を、虎視眈々と狙ってゆきます。


ここまで、事態は緊迫してゆくのです。


________________________________________________________
※補足(蛇足?)

四侯会議の中途で山内容堂が土佐に帰ったのは、口腔の病気のため会議に支障をきたすという理由だったそうです。そのあたり、ドラマ中でも、不自然なくらい口の中を痛そうにしていました。
このあたりの細かい描写は「龍馬伝」でたまにあり、たとえば前将軍家茂が亡くなったのは糖尿病からくる心臓麻痺だったと言われるぐらい、甘いモノが好きな将軍でした。そのあたりも、彼が出てくるたびにお菓子をぱくぱく食べているシーンが出ていたことで表現されていましたね。
以上、蛇足でした。



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