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龍馬の蝦夷地開拓計画


この時期の龍馬を語る上で非常におもしろいエピソードだと思いますので、ひとつ、記事にしてみました。

坂本龍馬と北海道。
実は、関係が深いんですね。


【1】 蝦夷地移住計画

龍馬が北海道(当時は蝦夷地)に興味をもつようになったのは、いつの頃からでしょうか。
脱藩後、勝海舟に出逢い海軍操練所に入って、勝の手伝いをしているうちに、そのような幅広い視野を得たのでしょうか。
とにかく、1864年6月初旬、京都・摂津の浪人を幕府の軍艦「黒龍丸」に乗せて蝦夷地を目指す計画を勝海舟に提案しています。蝦夷へ移住し、開拓事業を起こすのが目的でした。

しかし…
その直後、池田屋事件が発生。
龍馬に蝦夷地開拓の話をしていたといわれる北添佶磨(きたぞえ・きつま)や、神戸海軍操練所の塾生であった望月亀弥太が池田屋事件に含まれていたことから、勝海舟に迷惑がかかると判断した龍馬は蝦夷地移住を断念したとされています。
亀弥太の件はもちろんですが、この蝦夷計画を断念せざるを得なかったことは、龍馬にとってはさぞ無念だったと思いますよね。




次のチャンスは、前回の池田屋事件の約2年後、第2次長州征伐が終了したころに訪れます。
この時期、亀山社中のリーダーであった龍馬は、大きな転機を迎えます。
薩長同盟・第2次長州征伐のあと、大きな目標を失った亀山社中。
ユニオン号は長州藩に返し、ワイルウェフ号は沈没。

追い詰められた龍馬が、まさに「最大のピンチを最大のチャンスに変える」起死回生の策を、薩摩藩士の五代友厚(ごだい・ともあつ)らと練り上げていたのです。

その手始めが、

【2】 蝦夷地開拓計画

まずは、活動の命である船舶の入手をしなければならない。
龍馬はプロシア商人チョルチーと交渉し「大極丸」という船を手に入れます。
後述する船の支払い問題を抱えながらも、大極丸は動き出すのです。

この時、龍馬の頭の中にあったのは、次のような計画でした。

(1)蝦夷地開拓により、さまざまな資源開発を行う…石炭・林業・農業・漁業など、当時はまだほとんど手付かずであった産業を起こせると考えた。
(2)大阪で商業活動をしていたメンバーと合同で(陸奥陽之助や高松太郎ら)、大阪に営業拠点を置き、蝦夷地の資源開発で得た物産を「蝦夷-大坂-馬関-長崎」の物流に乗せる。

物資運搬ルート

卓越した計画ですよね。
何より、蝦夷地に早くから注目していた龍馬の着眼点がすごい。
常識的には、船を手に入れて物流で儲けようと思ったら「江戸-大坂ライン」や「馬関-大坂ライン」あたりの主要航路で既存の物流競争に勝とうと思うようなものですが。

これぞ坂本龍馬の真骨頂、という気がします。


ただし…この計画は暗礁に乗り上げます。
大極丸の代金を、龍馬は近江商人から借り受ける予定でいたのですが、何やかんやと借用を引き伸ばされたりして、結局お金は工面できず、大極丸は差し押さえられ運行不可能になってしまいます。
(計画があまりにも奇想天外で、商人の理解を得られなかったのが主な原因です)

船がなければ、すべては机上の空論になってしまいます。
次の手として、亀山社中が船乗りをリース(人材派遣)していた大洲藩(今の愛媛県あたり)所有の「いろは丸」の賃貸契約を進めてゆくのですが…
海援隊になったあと、ようやく契約が成り、いろは丸が亀山社中を運行するという初航海で、例の「いろは丸事件」が起き、この船もワイルウェフ号同様、亀山社中の手に渡ったとたん沈没してしまいます。
何とも不幸というか…「何かにタタられているのでは??」と思ってしまうほどの災難ぶりです。



しかし、龍馬はまだ終わりません。
実は、この蝦夷地開拓計画とほぼ同時期に、龍馬と五代、そして長州藩士の広沢真臣(ひろさわ・さねおみ)と共同で練っていたもうひとつの計画があります。
「清風亭会談」お互いの狙い(2)でも少し述べた、

【3】 馬関商社設立計画

これが達成されれば、当面の危機などふっとんでしますという、ある意味オソロシイ計画です。
『商社示談箇条書』なる議定書がまとまったのですが、それを簡単に言うと、

(1)亀山社中の本拠を馬関に移し、薩摩・長州と合弁で新商社「馬関商社」を設立する。
(2)馬関海峡を封鎖し、この海峡を通るすべての船舶をチェックする権利を持つ。
(3)ガラス張り会計を徹底し、得た利益は商社・薩摩藩・長州藩で均等に分配する。


下の画像は現在の関門海峡ですが、現在のみならず、当時から「九州-大阪」を結ぶ重要な航路であったのです。

現在の関門海峡400


ここを封鎖する目的は2つあり、

(1)馬関海峡の仲介手数料などで莫大な利益を得る
(2)西日本経済の中心である大坂へ入る物資をコントロールすることにより、幕府の西日本経済への影響力を著しく弱め、自分たちが西日本経済のキーマンに取って代わる


「窮鼠猫を噛む」とはこのことで、一発大逆転の恐ろしい計画です。
ただ、この計画を実行するためには、馬関海峡を実効支配していた長州藩の許可を得なければなりません。
いかに、利益が得られると言っても…
いかに、倒幕を後押しすると言われても…
本来、みんなの海であるはずの馬関海峡を完全に封鎖することは、それによって生計を立てている諸藩全てを敵に回すことになります。
長州藩もさすがにこの計画には二の足を踏んでしまい…藩上層部の反対により、計画が実行に移されることはありませんでした。
薩長両藩と組んで馬関を拠点に合弁商社を設立するところまでは妥当で、実現可能性もあったと思いますが、封鎖まで考えるとなると…龍馬も焦っていたのか、少しムチャな面もあった、とは思いますね。




この後、亀山社中は海援隊となります。
土佐藩の力を借りて一気に大政奉還を進めるチャンスと見たのか、龍馬は船中八策・大政奉還と、政治活動の道を邁進します。
大政奉還後、龍馬が作った人事案に龍馬本人の名前がないことを尋ねた西郷に対し、龍馬が言ったとされるセリフは有名です。
「 世界の海援隊でもやりますかいのう」
これは、龍馬が、日本の政治が安定した暁には、ずぅ~っと持ち続けていた「総合商社」実現への夢があり、当然その中には、蝦夷地開拓なども含まれていたのではないかと。
そう僕は信じています。



________________________________________________________
追記

今回の記事を書いてゆく中で、率直に思ったこと。

坂本龍馬は確かに英雄です。
ただ、あえて欠点を挙げるとすれば、彼は少し急ぎすぎたのではないか。
今回の記事でも、たとえば、お金が揃う前に大極丸を購入したり、長州藩や亀山社中の状況が整わないうちに馬関封鎖を立案したり。
もう少し、地に足の着いた活動をしても良かったのではないか。
そう思ってしまいます。


もうひとつは、欲張り過ぎた。
政治にしても経済にしても、やりたいことが多すぎた。

彼の頭の中で、政治改革と、経済活動は、おそらく一体のものだったと思われます。
政治を改革する先に、経済活動の変化がある。
経済活動を変えてゆく先に、政治の変革がある。
どちらが優先ということでなく、彼の中ではひとつのものであった。
だから両方同時に成し遂げようとした。

だが、周囲の人はそれが分からない。
たとえば、後藤象二郎は、大政奉還など政治改革には同意するが、経済活動は理解出来ない。
岩崎弥太郎は、貿易業など経済には賛成できるが、政治改革の意味が分からない。
少し極端かもしれませんが、たとえばそういった調子で、一方は理解できても、彼の全体像を理解できる人は、もしかしたら彼の周りにひとりもいなかったのではないか。

そのことが、結果的に彼を孤独にし、暗殺へと向かわせた。
こう思ってしまう自分がいます。




(主な参考資料)
坂本龍馬と海援隊―日本を変えた男のビジネス魂 (講談社文庫)
ryomadna.net「困窮する商社経営、亀山社中解散の危機」
北海道坂本龍馬記念館「龍馬が目指した蝦夷地開拓」




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