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孝明天皇毒殺説


さっそくですが…
この人、知っていますか…??


孝明天皇


「龍馬伝」に登場する歴史上重要な人物の中で、もっとも登場シーンが少ないことで有名(?)です。
たぶん、ドラマ内でしゃべったこともないと思います。
しかも、常に御簾(みす)の後ろにいて、姿もよく見えない。

第121代天皇 孝明天皇

セリフを覚える必要もなく、いろんな表情を作らなくてもいい。
ついでに、御簾ごしなので、ルックスもゴマかせそう。
「これくらいの役なら、オレでもできるよ」と…
俳優さん(阿部翔平さん)には失礼ながら、ついついそう思ってしまう自分がいますリラックマ10「飽きた」



前回のナレーションでなかったのですが、
清風亭会談の半~1ヶ月前の12月25日、当時の天皇・孝明天皇が亡くなります。

公式には「痘瘡(とうそう=天然痘)による死」となっていますが、
当時から囁かれていたのが、

毒殺説


当時の記録では、
12月12日から14日にかけて孝明天皇は高熱を発し、15日に医者の診断により、痘瘡の兆候がはっきりします。
ところが21日、症状は軽く、もう快方に向かっていると診断され、全快を祝う祝宴を27日に催すことが発表されます。
それが25日、突然死んでしまうのです。
しかも「痘瘡によって崩御された」と発表がなされたのは29日で、死後4日間についてはこれという資料がありません。記録が残っていないのです。
この「空白の4日間」について、毒殺(おそらくはヒ素)の証拠をすべて抹殺するのに4日を要した、と見る説です。

________________________________________________________

この真偽はともかく、こういう噂が出てくることそのものが、孝明天皇がもつ政治的影響力の大きさを物語っています。

実は、徳川幕府が始まって以降の天皇は、「禁中並公家諸法度」によって政治に口を出すことを禁じられ、内政について言えば「お人形」的存在でした。
その慣例を破ったのが孝明天皇。「大の異人ギライ」であったというのはよく言われる話ですが、これは、天皇に限らず当時の日本人が普通に思うことですし、ましてや初代神武天皇から同じ血統を継いできた(とされている)日本人のシンボル天皇としては、開国に傾くことの方が異常な行為であると思います。

孝明天皇の特徴は、自分の主張である「攘夷」を朝廷の総意とするため朝廷内の反対派を失脚させたり、幕府に攘夷実行を迫ったりする、その行動力にあります。


※孝明天皇の詳しい活動についてはこちらをどうぞ。
 孝明天皇と朝廷・幕府の関わりについて、事細かに書かれています。

  



もうひとつ、孝明天皇の政治的影響力。こちらがより重要です。
そのような政治活動を行っていた孝明天皇ですが、自分が幕府の代わりに政権を担おうという気は毛頭ありませんでした。そして、徳川幕府を見限って、他の勢力(具体的には倒幕派諸藩)に近づくということもしなかった。
あくまで、朝廷の権威のもとで徳川幕府が政治を行う今(その当時)の仕組みの存続を求めていた。

和宮降嫁に代表される「公武合体」を支持していたんですね。



毒殺説はこういう背景から出ています。

強い意志をもつ孝明が天皇の椅子に座っている限り、公武合体が推進され、その結果、幕府の力は朝廷の権威によって安定し、倒幕は困難になっていまう。
孝明を消すことで公武合体の動きを根底から崩し、倒幕運動を加速させる。
こう考えた者(黒幕としては、薩長倒幕側と連携していた公家の岩倉具視あたり)の仕業ではないのか。



ともかく、孝明天皇は死去。
慶喜は幕府支持の大きな柱を失い、公武合体は失敗します。
幕府の衰退・崩壊がいよいよ現実味を帯びてくるのです。



孝明天皇の後を継いだのが、睦仁親王(むつひとしんのう)(※のちの明治天皇)。
当時わずか14才。
倒幕派は、この幼い明治天皇をかつぎ出し、結果的に武力倒幕に成功するのです。



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