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「清風亭会談」お互いの狙い


「清風亭会談」

後藤象二郎と坂本龍馬の歴史的会談。
「清風亭」は、実は大浦慶のお店なんですよね。


この会談は、後藤象二郎からのたっての願いで実現したということです。
では、後藤象二郎の狙いはどこにあったのか?また、それに応じた坂本龍馬の狙いはどこにあったのか?
その部分を、少し掘り下げて考えてみます。

それを知るためには、「政治面」と「ビジネス面(財政面)」の両面からみる必要があると思います。
今日はまず、「政治面」から見てゆきましょう。


※今回の記事は少し退屈する内容だと思いますが、これ以降の幕末の流れを知る上では非常に重要な内容ですので、できればじっくりと読んでもらいたいと思います。
幕末末期は、「政策論の争い」でもあったわけですから。




政治面の思惑の一致


(1)後藤象二郎の思惑


後藤象二郎が龍馬に近づきたがっている理由は、ドラマでも流されていましたね。


潮が満ちてきた


山内容堂(=土佐藩)が

「薩長に近づきたい」

だから、その橋渡しをせよ、と。
その理由は「慶喜がどう頑張ろうと、もう昔の幕府を取り戻すことはできない」
そう言いながら、金の杯でお酒をぐいぐい呑んでましたが…
「瀕死の幕府を見限って、薩長側につきたいのだ」と言わんばかりです。
だいたい「そろそろ潮が満ちてきた」って、もう間もなく満潮になる=幕府が終焉を迎える、ということを言いたいんですよね…??

この部分は史実的には危険な描写ですね。
なぜなら、土佐藩は徳川恩顧の藩であり、加えて山内容堂と慶喜は互いの信頼も厚く、慶喜を完全に裏切って倒幕に与することは考えられない。
事実、この後の歴史を見ても、容堂は薩長の討幕や慶喜への厳しい処分に対し、最後まで反対を唱えていました。


土佐藩がそれまで取っていた立場は

公武合体論

と言い、朝廷の権威(公)を幕府の権力(武)と結びつけて幕府を立て直そうじゃないか、という考え方です。
この考えのもと生み出されたのが和宮降嫁(孝明天皇の妹である和宮が将軍徳川家茂のお嫁さんになることにより、血のつながりで朝廷と幕府の結びつきを強める政略結婚)であり、一橋慶喜も推進し実現はされたのですが、第2次長州征伐の失敗による幕府の求心力の急激な低下、和宮の嫁ぎ先である家茂の死去、孝明天皇の死去とトリプルパンチをこの時期に喰らい、この考え方は行き詰ってしまうんですね。

そこで困った容堂公。

どこまでも今の幕府に一途な会津藩や桑名藩の立場には立ちたくなかった。
(だって、幕府と道連れで死ぬのヤだもん… by容堂公)
ただし、徳川家の排除(討幕)にも反対したい。
(だって、慶喜様と徳川家は裏切れないでしょ… by容堂公)

とにかく、自分の政治的発言力を高めるため、現在もっとも勢いのある薩長両藩に近づこうとした。
その後のことは、おいおい考えてゆこうじゃないか。
これがホンネであり、具体的な政策(つまり、公武合体論に代わる新たな藩論)はこの段階では持ちあわせていなかったのだと思います。



(2)坂本龍馬の思惑


彼の政治理念は、はっきりしています。
第4部からクローズアップされた言葉でいうと、

大政奉還

この意味を、ドラマでは「幕府が朝廷に政権を返上する」とだけ解釈されていましたが、これでは説明不足です。

少し考えてみて下さい。
たとえば、幕府が朝廷に政権を返したとして、その後どうなるのでしょうか?
政権をもらった朝廷が、天皇を中心として政治の実務を行うのでしょうか?
これはほぼ不可能ですよね。
なぜなら朝廷は、徳川幕府成立後260年間(正確に言えば、鎌倉の武家政権成立後ずっと)政治の世界からは遠ざけられていましたから。
そんな、政治のノウハウも何も知らない朝廷が単独で政治を行うことなんてできるわけがない。

「幕府が政権を返上する」とは、それまでの徳川幕府の政治システム(幕藩体制と言います)を一度リセットするという意味で、新しい政治システムを作る前段階に過ぎないのです。
大事なのは、「返上された政権を誰が拾い、どのような形で政治を取ってゆくのか?」ということです。


「大政奉還」の核心

それは、このあとにあります。
政権を返上した徳川家は、もはや幕府ではなく、薩摩藩・長州藩など諸藩と同格になる。
その上で、今までの政治ノウハウのある徳川家、そして、有力な藩の代表を集め、徳川家と雄藩による連立政権を樹立する。
ここまで進めるのが「大政奉還」の真意です。



(3)両者の思惑の一致


もし龍馬が「幕府を倒し、徳川家は政治の世界から抹殺するんじゃぁ~!」的な意見を持っていたとすれば、意見の一致はあり得なかったのでしょう。
龍馬は勝海舟の流れを受け「大政奉還論」を主張する。
それが、公武合体論に変わる新たな藩論を模索していた後藤象二郎(=山内容堂=土佐)にすんなりと受け入れられた。
なぜなら、前述の大政奉還論を土佐藩が提唱し、それが達成されたなら、徳川を存続させた上で、諸藩の有力な一員として土佐藩も政治にも加わることができる。政治思想も何もなく薩長に近づいて媚を売るよりも、よほど力強く新しい世の中で土佐藩が政治の場で活躍できる。


大政奉還を後藤に伝える龍馬


清風亭会談の詳しい内容な明らかになっていませんが、おそらく、龍馬は、そこまで見越した上で、あえてこの場で「大政奉還論」をぶちまけたのではないか?
僕は、そう推測します。


ともかく、両者の考えは一致した。

これが「政治面」での思惑の一致です。



________________________________________________________

ここからはさらに突っ込みますので、今までの記事で興味を持った人は読んで下さい。


前述の「大政奉還論」を考え方をさらに進めた考え方を

公議政体論

と言います。
これは、以前のブログで坂本龍馬と中岡慎太郎の政治思想の違いについて書いた記事で触れたことにも関連しています。
つまり、徳川家と雄藩の連立政権です。
これだけなら、慶喜と有力藩主による「参預会議」や「四侯会議」、もしくは、徳川が政権を返上する「大政奉還」と変わらないのですが、「公議政体論」はイギリスの議会制度を習い、上院は徳川家を含めた有力諸侯や公家で構成し、下院は諸藩の志士で構成するという具体策まで踏み込みます。

最終的には、「船中八策」で龍馬はこの考えを後藤に伝え、後藤は納得し藩主・山内容堂に伝え、山内容堂が「土佐藩の代表意見(藩論)」として徳川慶喜に伝え、大政奉還が実現します。



では、この「大政奉還論」は、そもそも誰の発想なのか?


実は「大政奉還論」という考え方は、龍馬のオリジナルの考え方ではありません。


これに関連して、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に、おもしろい描写があります。
司馬遼太郎さんは、大政奉還について「どなたの創見ですか?」と問われた龍馬に「かの字とおの字さ」と答えさせているんですね。

 「か」の字=勝海舟
 「お」の字=大久保一翁

つまり、大政奉還論はこの2人のアイディアを貰ったのさ、と言っているのです。
「大久保一翁(いちおう)」とは、聞きなれない名前かもしれませんが、勝海舟と同時期に幕臣として活躍した人物で、勝海舟同様、幕府内にあって先進的な考えをもっていた極めて貴重な人材です。龍馬とも面識があります。(薩摩藩の大久保利通とは何の血縁関係もありません。念のため)
勝海舟は、龍馬に多大な影響を与えた、彼の師匠ですよね。

他にも、松平春嶽などもこの考え方を支持していたと言われています。


ですので、一般的に思われている「大政奉還を考え出したから龍馬は英雄だ」というのではなく、「いろんな人がいい方法だと思いながらも実行に移せなかった大政奉還を現実に実行したから龍馬は英雄だ」というのが正確な言い方だと僕は思います。




※次回は「ビジネス面(財政面)の両者の一致」を述べたいと思います。



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