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「四境戦争」の全体像


前回のホントウの「馬関の奇跡」では、高杉晋作が活躍した「小倉口の戦い」のみをクローズアップして取り上げました。


しかし、もちろん実際は四境戦争の「四境」すべてが長州藩にとって大事な戦いであり、これらすべてを制したからこそ、長州に幕府軍(諸藩連合軍)を一歩も踏み入らせなかった。


幕末の大きなターニングポイントとなった、1866年6月8日~9月4日の第2次長州征伐。
今回は、のこりの3ケ所の戦いについても、同時に見てゆきたいと思います。
まずは下の図を見てもらえれば、幕府軍の配置関係が非常によく分かると思います。


四境戦争500

「渡る世間は愚痴ばかり」様より拝借しました)



最初に戦端が開かれたのが

大島口の戦い
(6月8日~13日)

長州側 : 丙寅丸(高杉晋作)・第2奇兵隊など
幕府側 : 幕府海軍・幕府陸軍・伊予松山藩など



もともと兵を配備していなかった周防大島に、幕府側が軍艦・富士山丸を中心に砲撃を開始、同時に歩兵が上陸し、大島を完全に占領してしまいます。

第38話のラストで幕府の大島占領のシーンが描かれ、大島が陥落したという報告に対して高杉晋作が「大島は渡してもええ。戦いはこれからじゃ」と言っていましたが、実は、もともと、少ない兵力を分散させすぎるのを防ぐため、長州側は大島方面には防衛の兵を配備しておらず、大島は捨て駒にするつもりだったのです。

しかし、さらに長州内部に攻め込もうとする幕府軍に対して、士気高揚のため一矢報いるべきという声が高まり、その4日後、高杉晋作が軍艦・丙寅丸を率いて夜中に奇襲を加え幕府軍を混乱させます。
さらに翌日大島に上陸、大島を幕府から奪い返すことに成功するのです。


富士山丸(ふじやままる)

アメリカ製で、四境戦争のわずか1年前に幕府が購入した軍艦。
日本一高い「富士山」を名前に冠しているところからも、その期待の高さや立場が分かろうというものです。
幕府側の主力艦で、大きさ、火力では当時の最強の名をほしいままにしていましたが、戦場では大きな活躍の機会のないまま、明治の夜を迎えてしまった悲しき船でもあります。


丙寅丸(へいいんまる)

四境戦争の直前、長州に行った高杉が、グラバーから藩の許可無く独断で購入した軍艦。
富士山丸の約半分の全長と小型ながら、最新のアームストロング砲3門を配備し、この大島口の夜襲のほか小倉口の戦いでは田野浦の奇襲にも用いられるなど、四境戦争の勝利に大きく貢献しました。
第37話ラストで、高杉がイギリス留学の夢をあきらめ「藩にもろうた1000両で、軍艦を買いたい。大至急進めてくれ。その船で、僕は長州へ帰るんじゃ」と言っていましたが、この時に購入したのが丙寅丸。
この船は、高杉の果たせぬ夢を乗せた船でもあったのです。





次に戦端が開かれたのが、

芸州口の戦い
(6月14日~25日)

長州側 : 膺懲(ようちょう)隊(志道聞多)・御楯隊(品川弥二郎)など
幕府側 : 紀伊藩・彦根藩・越後高田藩・赤石藩など



大島口の戦いに決着がついた翌日の14日、長州藩と安芸藩の境界線である小瀬川を渡ってきた彦根藩に対し、待ち構えていた長州藩がミニエー銃で応戦。対する彦根藩は刀や槍の旧装備のため瞬く間に銃撃の餌食になり、退散します。

彦根藩を撃退後、進撃を試みる長州藩。
そこに立ちふさがったのが長州とほぼ同等の装備をもった紀州藩。
装備に加え、藩主である徳川茂承(もちつぐ)自身が兵を率いていることの士気の高さもあり、長州藩と紀州藩は両軍にらみ合いのまま膠着状態に陥ります。

つまり、この戦場は四境戦争唯一の「引き分け」となった戦場なのです。





次の戦場は、

石州口の戦い
(6月16日~18日)

長州側 : 大村益次郎・清末藩(長州藩の支藩)・南園隊など
幕府側 : 浜田藩・紀伊藩・因幡藩・津和野藩など



6月16日。
今までの戦場とは違い、長州藩から先に攻撃を仕掛けています。
最初に戦闘を交わすはずの津和野藩は軍を引き、長州軍を素通りさせます。
長年親交の深い長州藩と津和野藩、何らかの密約があったのでしょう。

次に当たったのが浜田藩・福山藩。
ここでは銃撃戦となりますが、幕府側が旧式のゲーペル銃なのにに対して、長州側は最新のミニエー銃を配備しています。
射程距離を比較すると、ゲーペル銃が300mなのに対し、ミニエー銃は800m。
この射程距離の優位性を利用して、長州は、幕府の射程の届かないところから長州の狙撃隊が一斉射撃を行なう「アウトレンジ戦法」を徹底して行ないます。
この戦法は、理想的には味方の損害をゼロにして敵を攻撃することができる、非常に有用な戦法です。
現在に到るまで、さまざまな戦場で用いられています。

この作戦を遂行したのが、長州の兵学者・大村益次郎
長州藩の軍制改革を行い、西洋式の軍備を長州にもたらした立役者です。
のちの戊辰戦争でも活躍し、明治政府での陸軍の事実上の創設者と言われている人です。
(1977年の大河ドラマ「花神」の主人公でもあります)


勢いにのって侵攻を続けた長州藩、ついにこの方面の幕府軍を完全に撤退させてしまいます。
18日のことでした。


※長州が購入した武器について

この戦争に備え長州藩が薩摩藩・亀山社中を通して購入した武器は「ミニエー銃4300丁・ゲーペル銃3000丁」と言われています。
これをそのまま四境戦争に当てはめると、前線の長州兵4000人全員に最新のミニエー銃が支給される。
残りのゲーペル銃は、万が一四境の戦線が突破された時の最後の砦として、山口城・萩城を防衛する兵士に配備されたのではないか。
そう考えると、長州4000人といえど、実際の動員可能兵数の中でも訓練を積んだエリートクラスの4000と見るべき(長州の国土から考えて、4000人の兵士が最大人数とは考えにくい)で、士気・技量・装備その他を考えても、寄せ集めの15万幕府とは桁違いであったことが、このことからも推測されます。





上の「石州口の戦い」とほぼ同時に戦端が切られれたのが、

小倉口の戦い
(6月16日~9月4日)

長州側 : 丙寅丸(高杉晋作)・奇兵隊(山県狂介)・乙丑丸(坂本龍馬)など
幕府側 : 総督:小笠原長行・小倉藩・肥後藩・熊本藩など


この戦いについては、前回のホントウの「馬関の奇跡」で詳しく解説しましたので、あえてここでは触れません。
ただ、前回は龍馬の乙丑(いっちゅう)丸(=旧ユニオン号)については全く触れてなかったので、その点を解説しておきます。
乙丑丸は田野浦奇襲と同時に出撃し、門司から田野浦に砲撃を行ないます。
高杉の乗る丙寅丸の砲撃と合わせ、2方面から長州上陸用の船艇を攻撃することにより、極めて短時間の間に田野浦の幕府側船艇を沈めることに貢献しています。


小倉口の戦い

「今日は何の日?徒然日記」様より拝借しました)


しかし、前回の記事でも述べたように、馬関海峡は幕府側が最重要視した戦場。
ここでは他の戦線のように早期決着とはならず、高杉にとっては苦しい戦いとなりましたが、最後は将軍・家茂の死をきっかけに幕府軍を撤退されることに成功しています。





以上、四境戦争を振り返ると、

・幕府の旧装備の軍隊の限界と、西洋式軍備の幕開け
・幕府を中心とする佐幕派と、薩長を中心とする倒幕派の力関係の逆転

を象徴する戦いであったと総括することができると思います。





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2010/10/02(Sat)13:10

はじめまして。
「龍馬伝」で、こちらにたどり着き、ちょくちょくおじゃまして、1ヶ月になります。
今は、他県在住ですが、長州出身、高杉びいきのものです。
今回もわかりやすい説明、ありがとうございました。

「龍馬伝」の高杉は・・・
これまでになくかっこいい高杉をずっと見ていたい!という気持ちの反面、引いてしまうセリフも多くて。
史実をちょっと知ることで、バランス取ってる感じです。
これからも、楽しみにしています。

名前:saku (URL) 編集

Re: タイトルなし

2010/10/02(Sat)21:13

はじめまして。
コメントありがとうございます!

出身が長州なら、それは、思い入れも人一倍ありますよね。

「史実を知ることで、バランスを取っている」という感覚、僕もとてもよく分かります。
高杉晋作も、史実を知ることで、威勢よく啖呵を切るだけの男でなく、戦術的にも卓越したものをもっているし、実は外交交渉の力もあるという見方でドラマを見れますしね。
これは、他の出演者すべてに言えることだと思います。

これからもよろしくお願いします。

名前:TV-Rocker (URL) 編集

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