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ホントウの「馬関の奇跡」


以前の記事「馬関の奇跡」へのプレリュードでも約束していたとおり、史実としての馬関海峡の戦いを解説したいと思います。


兵は詭道なり

第39話で高杉晋作が「神出鬼没で敵を悩まし、常に詭道をもって勝利する。これが、われらの戦い方じゃ!」と言っていましたが、この言葉にも通じる、有名な孫子の言葉です。
「孫子」とは、古代中国・春秋戦国時代の兵学家・孫武・孫臏のことで、現代でいう「軍事的戦術家・戦略家」に当たると思います。
日本がまだ縄文・弥生時代に、このような体系的な兵法が完成していたこと自体、驚くほかありません。
その意味は「戦争とは、戦術こそ命である」ということ。

今回は、孫子の言葉の中でも有名な「風林火山」をもとに、高杉晋作の「小倉口の戦い」を振り返ってみたいと思います。
「NHKその時歴史が動いた 第142回 高杉晋作、50倍の敵を制す必勝戦略 ~幕末長州・奇跡の逆転劇~」を参考に、記事にしたものです。



【小倉口の戦い】場所

慶応2(1866)年6月、幕府は第2次長州征伐軍を、4方面から長州に派遣します。
その中で、最大の激戦地と予想されたのが、馬関海峡(関門海峡)の戦線。
長州の息の根を止めるためには、関門海峡の制海権を制圧する必要がある。
そのため、幕府側が最重要視した戦いです。
小倉城を拠点に、九州諸藩の5万の兵力を集中させます。
対する、下関の長州軍は1千。
まさに、高杉晋作は、海峡をはさんで50万の敵と対峙することになったのです。


実は、高杉は、幕府軍到着の半年前から、関門海峡の正確な測量を行なっていました。
そして、幕府軍が到着したのちは、相手方にスパイを潜り込ませ、情報収集に努めます。
「情報を制するものが戦を制す」
戦争における最重要課題を、彼はすでに知っていました。


スパイにより、幕府軍攻撃の日取りを把握した高杉は、すぐに手を打ちます。
幕府の総指令部に「ぐずぐずしていないで、早く攻めてきなさい」と挑発の手紙を送り迎撃姿勢を見せながら、その裏をかき、幕府攻撃予定日の一日前に、先手で田野浦を奇襲。
ここに保管されていた、長州上陸用に幕府が用意していた船艇約200隻を焼き払い、幕府の下関上陸を阻止します。

【小倉口の戦い】田ノ浦


そしてすぐに下関に撤退。
まさに、

【風】疾(はや)きこと、風の如く



この報告に業を煮やした幕府は、当時の日本の最強戦艦「富士山丸」を小倉に派遣します。
長州の軍艦を圧倒する火力で下関に艦砲射撃を行ない、一気に陥落させる作戦を立てたのです。


【小倉口の戦い】富士山300丸


この富士山丸をもっとも警戒したのが、他ならぬ高杉晋作。
彼は、この日本最強の軍艦をも奇襲によって攻略します。
長州兵を乗せた小舟を商船に偽装させ、民間の船だと油断させて至近距離まで近づいたところで隠していた砲弾を浴びせ、撃沈させることはできなかったものの、戦闘不能状態に陥らせるのです。

この機に、関門海峡を渡り幕府に打撃を与えた長州軍。
しかしここでも、総攻撃はせず、すぐに軍を引き上げさせます。
あくまで高杉の狙いは、一時的な勝利でなく、50倍の敵を打ち払うことにあったのです。

【林】徐(しず)かなること、林の如く



ここで、幕府は九州諸藩の中で最も装備が充実している、熊本藩を小倉の最前線に配備します。
「まともに戦って勝てる相手ではない」
そう踏んだ高杉は、これまでの奇襲戦とは打って変わって、持久戦を選択します。

【山】動かざること、山の如く


膠着状態は、約半月に渡ったといいます。

そのうち、幕府内では厭戦気分が出てきます。
九州諸藩が、兵糧がもたないことなどを理由に、自国への撤兵を願い出るようになるのです。

この情報をつかんだ高杉は、ついに、総攻撃を決意します。
小倉城と目と鼻の先(約7km先)の赤坂に進軍。

【火】侵掠(しんりゃく)すること、火の如く

【小倉口の戦い】赤坂


しかし、正面攻撃は失敗。
赤坂攻略はならず、長州軍は足止めを食らいます。
さすがの高杉といえど、正攻法での攻略は不可能だったのです。
それほど、50倍の兵力差は大きな壁だったといえます。


しかし、ここで自滅を選ぶ高杉ではありませんでした。
敗れたにもかかわらず、下関に撤退せず赤坂の間近に砲台を築き、いつでも総攻撃ができる構えをつくり、幕府軍を精神的に揺さぶります。
その不気味な行動に怯える幕府側。
ついに、将軍家茂の死去をきっかけに、幕府の総司令官が江戸に撤退、それを知った九州諸藩もおのおのの判断で国元に帰り、幕府軍は総崩れになります。


そして…
小倉藩も、自らの城である小倉城に火をつけ撤退。ここに、小倉口の戦いは集結するのです。
戦争勃発の約2ヶ月後のことでした。

【小倉口の戦い】小倉300城炎




高杉晋作の巧みな作戦の前に、文字通り「自滅」した幕府軍。
決して、三味線片手に楽勝ムードで勝利したわけではなかったのですリラックマ29「…汗」


高杉晋作は結核のため最前線で指揮を振るうことは叶わなかったのですが、それでも、下関の本陣で状況を分析し、常に的確な判断を前線に下しました。
高杉の病気のことは、おそらくはトップシークレットとして、長州軍の中でも最高機密として扱われたでしょうから、ほとんどの前線の兵士は知る由もなかったでしょうが…

死を目前にしてなお、長州を勝利に導いた、稀代の英雄・高杉晋作。
小倉で戦った長州の兵士たちがのちに高杉の結核のことを知ったときに、こう思ったに違いない。
「小倉口の戦いは、高杉晋作によって獲られた奇跡の勝利だったのではなかったか」

これこそが、ホントウの「馬関の奇跡」ではないかと、僕は信じています。





(その後)

ただ、ドラマ内でも高杉晋作が言っていたように「今回は、守りの戦だったから勝てた」のであり、第2次長州征伐の防衛戦に勝利したとはいえ、薩長両藩だけで江戸幕府を攻め滅ぼすのは、この段階では夢物語です。
これを実現させるため、今後、薩長両藩は、幕府に不満を持つ他の藩を次々と取り込もうとするのです。



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幕末・維新は偉人揃い!

2010/09/30(Thu)00:04

背景よくわかりました!
改めて幕末は偉人揃いだったんだなと感じます、
今度”ヒストリア”は”逃げの小五郎”と題して放送だとか。
龍馬伝でも池田屋の事件後、瓦礫の中で龍馬さんと再会したりしてましたね。
しかし長生き出来た分、勝先生がやはり一番の偉人だったんでしょうか。
いろいろドラマの批判もあるようですが、
わたし的には、こちらの名場面集と解説を見せていただいて、
みんなかっこいいなあ、とミーハー的に楽しんでます♪

名前:shimasuke (URL) 編集

Re: 幕末・維新は偉人揃い!

2010/09/30(Thu)02:11

「偉人・英雄」は、その人がもって生まれたものだけでなく、時代が生むものだと、幕末史を勉強すると改めて思いますよね。

ヒストリアは僕も大好きな番組で、必ず見ています。
「逃げの小五郎」という言葉は少しコケにしたような言葉でもあり、逆にいうと、常に命を付け狙われていた桂小五郎が暗殺をまぬがれた証でもあるように思います。
この言葉を本人が聞いたとすれば、案外「その通り」と喜んだのではないでしょうか?

勝先生は、人物的には一番欠点のない人という印象を受けます。
彼が幕府の内部におらず、薩長側についていたら、維新はもっと短期に決着したかも知れませんね。
おっしゃる通り、ある意味で「一番の偉人」という評価は的を射ていると僕も思います。


まあ、このドラマは…
腹の立つこともありますけど、歴史を勉強した上で見たら、そこそこ異色ながら楽しめますよね。
ただ、何も知らずにこのドラマを史実のように錯覚して見る人がいた場合、そういう人に対する影響が恐ろしいのと思うのですが…僕の杞憂でしょうかね?

名前:TV-Rocker (URL編集

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