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慶喜伝(2) ~二心殿編~


のちの幕府最後の将軍

一橋慶喜

将軍になる以前から、江戸幕府の行く末に最大の影響を与えることのできた人物。
前回から、慶喜が徳川幕府に与えた功罪を検証しています。
今日は、
「罪の回」



彼は実は、裏では「ニシン殿」とも呼ばれていたそうです。

ニシン2


ではなく、

二心殿

(つまらなくてスミマセン・・・)

心がふたつある、つまり、言うことがコロコロ変わるという意味です。
一国の代表でありながら、方針・発言がブレる。
これはよくありません。
(どこかの国の総理みたいです)


※最初に言っておきます。
今日は政治の話が中心ですので、ちょっと分かりにくいかもです。




たとえば、長州藩・薩摩藩がまだ攘夷に燃えていた頃、薩摩藩の島津久光の要求により、一橋慶喜と松平春嶽のコンビによる幕政改革が行われたことがありました。(1862年文久の改革:詳しくはWikipedia参照)
この頃に勝麟太郎は軍艦奉行並に抜擢されています。
ここで朝廷から、幕府として攘夷か開国か、意見を求められたときのことです。
春嶽と慶喜の事前の相談では、「開国と言っても朝廷や諸藩はどうせ納得しないだろうから、ここはとりあえず攘夷と言っておこう」となっていたそうです。
しかし会議場で、慶喜は突然、
「幕府とか小さいことを言う前に、日本の将来のために開国だ」
と、隠していたホンネ(?)をぶちまけ、春嶽との取り決めを台無しにしてします。
しかしあとで、「やっぱり攘夷だ、開国では朝廷が納得しないだろうから」と言ってみる。
補佐する周りの人間からしたら、迷惑な話です。

※「普天間は県外に移転します」「いや、現実的にはやっぱり無理でした」と言うことがコロコロ変わる総理大臣、日本にもいましたね。



まだあります。
時代は進み、攘夷が実行不可能であることに諸藩が気付き始めた頃のこと。
慶喜・春嶽に島津久光・山内容堂・伊達宗城・松平容保を加えた6人が国家を代表し、その合議によって国の方針を決める、という新たな試みが行われます。(1864年参預会議:詳しくはWikipedia参照)
この時も、横浜を開港して開国を進めるべきだという久光・春嶽・容堂・宗城に対して、ホンネでは開国論者であるはずの(?)慶喜はなぜか攘夷論をぶちまけ、会議を紛糾させ、参預会議を解体させてしまいます。
この裏には、「久光の言いなりになっていたら、やがて彼らに幕府を乗っ取られるぞ」という老中どもの魔のささやきがあったようですが、そんな言葉に右往左往していたら、国の代表は務まりません。

※このあたりも、影の実力者にどうしても影響を受けてしまう、あの総理を思い出します。



ここから先は「龍馬伝」より先行してしまうのですが・・・

第2次長州征伐も、総指揮官として意気込み、フランスからもらったナポレオン3世の軍服を着て写真まで取っておきながら、「やっぱりやめた」と軍を解散してしまう。
龍馬の死後、鳥羽伏見の戦いでは戦うと言っておいて佐幕派を焚きつけておきながら、形成が不利になるや「やっぱむりだ」と江戸に帰ってしまう。



以上、僕の意見としては、

慶喜が、結果的には幕府の崩壊を早めた。
彼は家康にはなれなかった。


家康なら、この難局をどう乗り切ったのでしょう?
方針を打ち出すまでは慎重に振舞うでしょうが、幕府としての方針を打ち出したあとは、少なくともブレることはなかったと思います。



こんな記事、本人が見たら怒る(傷つく?泣く?)でしょうねリラックマ34「泣く」

ハト慶喜



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