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慶喜伝(1) ~家康の再来編~


いよいよ第4部に突入する「龍馬伝」

第3部ラストの第38話で、中止になったはずの長州征伐が急に行われたので、面食らった人も多いかと思います。
「そこに到るまでの流れをもうちょっと丁寧に描いてくれないと…訳が分からないぜよ!」
そう思った人も多いのでは…
第37話と第38話にまたがる、この場面です。




ところが、これを、彼の性格を念頭に置いて描いたものだと考えれば、けっこう面白い。
威勢はいいのだが、言うことがコロコロ変わる。

のちの幕府最後の将軍

一橋慶喜

※「一橋(ひとつばし)」というのは、徳川本家に後継ぎがいなかった場合に立てられた「徳川御三卿」のひとつです。彼が正式に将軍を継いで「徳川慶喜」と改めることになります。

今回は、慶喜が徳川幕府に与えた功罪を検証してみたいと思います。
今日は、
「功の回」



彼を評した言葉として有名なのが、

「家康以来の英雄」

家康の再来・慶喜アカ

彼の英断ぶりを評した言葉です。




徳川家康

彼を知らない日本人はいないでしょう。
徳川幕府の礎を築いた、軍事的・政治的・経済的天才。
才に奢らず、織田・豊臣時代には甘んじて臣下の礼をとる、そのしたたかさ。
秀吉亡き後に策略をもって政権を奪取した、その非情さ。
なにより、徳川幕府が260年続いたという歴史的事実をもって、彼の卓越した先見性に頭が下がります。



その天才・家康のある部分を、確かに彼は引き継いでいた。

蛤御門の変(禁門の変)では、自ら幕府軍の先陣に立ち、京都御所に長州人を一歩も踏み込ませず、彼らの殲滅を果たしています。
また、第2次長州征伐においてはフランスの支援を受け、装備を一新する軍制改革を行い、敗色の濃い幕府軍の総指令部として自ら長州に向かう覚悟も見せていました。
実は、木戸孝允は彼が出てくることを相当警戒していたようです。「実に家康の再来を見るが如し」とは、木戸がのちに慶喜を評した言葉ですが、彼は慶喜の軍事的センスを見抜いていたとも言えます。
このあたりは「海道一の弓取り」(現在の中部地方一帯で一番の戦上手という意味)と言われた家康を彷彿させます。

朝廷に対しての発言力が強いのも彼の特徴です。
ペリーの来航以来、幕府はアメリカ、イギリス、オランダ、ロシア…と次々と講和条約を結んでゆきますが、それらはいずれも朝廷の許しを得ない、いわば幕府の独断で結ばれたものでした。朝廷のトップである孝明天皇は大の異人ギライで、天皇の許しを得るなんて到底不可能な状態だったのです。
その孝明天皇に対して、最終的には幕府が独断に交わしたすべての条約を認めさせることに成功するのです。
この時にとった彼の一世一代の大芝居が、
「要求が認められないのなら切腹いたすのみ。だが私が切腹すれば、徳川の家臣があなた方をどうされるのか、それは保証できません」
つまり、脅し??
朝廷、それも天皇に対してあからさまな統制に出たのは、家康の「禁中並公家諸法度」以来ではないでしょうか。



機を見て敏、その軍事的才能。
朝廷をも恐れぬ、その傍若無人。
そのあたりは、確かに家康の再来を予感させます。


しかし彼は、家康にはなれなかった。

彼は、家康のように、自らの意志を貫徹することができなかった。
それが彼の、ひいては江戸幕府の命取りになるのですが…これは、次回述べたいと思います。



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一橋は御三卿

2010/09/24(Fri)02:19

御三家は家康が、御三卿は吉宗が作った。
彼は水戸出身なので、元々は御三家なんですが。

名前:PLEiADES (URL) 編集

Re: 一橋は御三卿

2010/09/24(Fri)02:50

ありがとうございます。
…といいますか、いやはや、失礼しました。
早めに訂正できてよかったです。

これからもいろいろ教えてくださいね。

名前:TV-Rocker (URL編集

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