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寺田屋のあった町・伏見のルーツ


※今日の昼、無事に退院しましたので、ブログも復帰します。
 もう元気です。このように走ることもできますリラックマ25「走る」のでご安心下さい。

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龍馬襲撃事件が起きた寺田屋のある町・伏見。
「龍馬伝」では、池田屋事件のあと京から神戸まで向かう時初めて寺田屋に立ち寄っています。
(史実では、以前に事件を起こした薩摩藩から寺田屋を紹介されたらしいです。当然、池田屋事件の見学のためにわざわざ京に行ったりはしていません)

現在、京都から神戸まで行くのに、市内南部の伏見区をわざわざ通る理由はないのですが…

現在の京都・伏見・神戸周辺


もともと「伏見」は京の都とは別の町として発展しました。
現在は京都市伏見区として京都市内の一部になっていますので、現在の感覚で理解すると京都の一部になってしまいますが、もともとは全く違う町だったのです。

その始まりは、

伏見城の城下町

最初に目を付けたのは、太閤・豊臣秀吉です。
彼は、天下統一・大阪城築城の後、京都南部の伏見山に壮大な城を築き、周辺に諸大名を始めとする武士たちや商工業者を住まわせて新しい城下町を作りました。これが伏見の始まりです。
伏見城が完成し、秀吉が住まいした最晩年の2年間は伏見が日本の政治の中心であり、歴史の教科書では「桃山時代」と習っている時代に当たります。

伏見城
  (伏見城の場所:下の図と一緒に見ると分かりやすいです)


実は、伏見の南には、巨椋池(おぐらいけ)という名前の、池とも湖ともとれる大きな水のたまり場がありました。
彼はこの巨椋池と周辺の河川を中心に大規模な治水工事を行ない、伏見周辺を水害から守るのと同時に、伏見から京都、大阪、奈良、滋賀へとつづく水の交通網を整備します。

巨椋池の図
  (秀吉による築堤工事:上の図の拡大図でもあります)

彼は、伏見を大坂と京都とを結ぶ要衝の地にしようと考えました。
この地こそ大阪発展の鍵を握る場所であると踏んだのでしょう。


商業・交通の要所

江戸時代には、参勤交代の交通の要所となります。
西国諸藩は参勤交代のさい、洛中(京の都)を通るのをさけ、伏見を経由して滋賀の大津に抜け、江戸に向かいました。「大津街道」と呼ばれているものです。
また水運を利用して、大小の舟が行き交い、商業の町としても栄えます。

つまり、陸上・水上の両面で、伏見は京都・大阪・滋賀の中継地点として発展を遂げてきたことが分かりますね。
西から京へ向かうにも東から京に向かうにも、伏見はその玄関口に当たるわけです。



幕末の政治闘争の裏舞台

幕末には、薩摩藩・長州藩ら諸藩がこの伏見に藩邸を構えていました。
京の都が幕末の政治闘争の表舞台になったことは言うまでもありませんが、京で政治の実権を握ろうとする諸藩にとっては、その京への入り口として、伏見もまた重要な地であったのです。


参考:
竜馬が駆けた町京都伏見
うしさんのおもしろ伏見の歴史
歴史館
水土の礎



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