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賤ヶ岳の戦い(1)~築城合戦~


始めに、言っておきます。
今までは密かに思っていましたが、さすがに言い出せませんでしたが。
でも、今回の『江』を見て、確信しました。

『江~なんとかの戦国』
あれは、大河ドラマではありません。海外ホームドラマです。アグリー・ベティです。
セリフが現代風で不自然なのは、あれは吹替え版だからです。
あんなの、放送するだけ時間の無駄です。

うちのブログで更新しているドラマ解説をそのまま脚本にした方が、よっぽど大河ドラマらしくなります。


『わががま女どもの戦国』は、うちの解説のための画像を提供してくれたらそれで十分。
それ以上、余計なことしないでくれ。視聴者を混乱させないでくれ。


ああ、思っていることを言ってしまった…
いや、言っていいんです。
その分、「このブログの記事だけは正統性を守り抜かねばならない!」と自分にプレッシャーをかけることにもつながるのですから。

今回も「賤ヶ岳の戦い」の全体像が全く見えないまま終わってしまい、よほど地理と歴史が好きな人間でなければ、キツネにつままれたような思いがしたのではないかと思います。
自分の使命としては、そのキツネを取っ捕まえて、真実を暴くこと。
今回も、「賤ヶ岳の戦い」その真実を暴きたいと思いますので、お付き合い下さいませ。

________________________________________________________

天正11年2月28日。
残雪の中、柴田勝家の先鋒隊が出発します。
その後、陸続と軍勢を派遣してゆき、3月9日、勝家本隊も北ノ庄城を出発。
総勢2万の軍勢が、北国街道を南下してゆきます。


勝家、出陣


一方の秀吉。
3月11日に丹羽長秀らを先遣隊として派遣すると、自分自身は長浜城に入り、軍を整えます。
その後、北国街道を北上。
勝家の軍勢を上回る、総勢3万の軍勢です。


両者は、賤ヶ岳付近で対峙。
戦国史上有数の駆け引きが交わされた戦いが、始まろうとしていました。
計3回の予定で、ドラマでは語られなかった両者の「戦略」に比重を置いて、書いてゆきたいと思います。






賤ヶ岳の戦い図500
(今後の戦局の流れの上でも重要な地図になっています)


自分が越前に閉じ込められていた間に、秀吉によって畿内をかき回された勝家。
清洲会議から越前に帰る前と比べても、明らかに状況は悪化している。
それでも、柴田勝家は、練り上げていました。
必勝の戦略を。


数では勝る秀吉軍に対して、単独での決戦は避ける。
秀吉に対してプレッシャーをかけ、滝川一益を包囲している秀吉軍をこちらに引きつけ、まずは窮地の一益を救う。
その後は持久戦に持ち込み、信孝・一益と連携を取りながら、じっくりと秀吉軍を締め上げる。

相手方の動揺してきた頃合いを見計らって、反旗を翻した信孝・一益が挙兵。
同時に北国街道の秀吉軍に総攻撃をかけ撃破、最終的には長浜城を奪還する。



その機会が訪れるまでは、2ヶ月でも3ヶ月でも、待ち続けなければなりません。
彼は、将来の総攻撃に備え、付近の山々に多数の砦を築いてゆきます。





対する秀吉も、長浜城の防衛こそ最重要であると考えていました。
北国街道を突破され長浜平野に勝家軍の侵入を許してしまったが最後。
清洲会議ののちにコツコツと作り上げてきた優位性を一気に失い、天下取りの駒を清洲会議まで戻すことになってしまう。


北国街道を完全に封鎖し、いかなる場合でも勝家軍の侵入を許さない。
戦好きの勝家は、いずれ必ず攻めて来る。
その部隊を各個撃破し、最後に勝家自身を越前に敗退させる。
それまで、別働隊により一益の動きを何とか封じ込めておく。



秀吉は北国街道を遮るように横一列に柵を設け、両端の山々にも砦を構築してゆきます。
これが第1防御ライン。
続いて、賤ヶ岳を迂回して尾根沿いに兵を進めてくることも考え、さらに後方にも砦を作ります。
これが第2防御ライン。
2重の防衛線を引いて、アリ一匹通さぬ防衛陣地を構築してゆくのです。





両者が、それぞれの思惑を胸に、砦を築いてゆく。
両軍合わせ、大小様々な20余りの砦が戦場に密集し、さながら「築城合戦」の様相を呈してきます。
同時にそれは、攻めるに難く守るに易しい、持久戦となることを意味します。


賤ヶ岳の戦い図アップ500
(最初の地図の、両軍がぶつかる場所を拡大したものです)




4月4日。
まず動いたのは、勝家勢でした。
相手の出方を探るため、勝家自ら兵を率いて、秀吉防御柵に攻撃を仕掛けます。
しかし秀吉勢は柵から出ようとはせず、堅固な柵の内側から鉄砲の連続放火を浴びせるのみ。
一方的に兵力を損耗させる勝家勢。
秀吉の覚悟をみた勝家は早々に兵を引くと、その後は同じ愚を犯そうとしませんでした。


ここから、両者の我慢比べが始まるのです。
そして…思わぬところで、戦局が動くことになります。
(つづく)


________________________________________________________

8年前、信長存命中のこと。
信長がその戦略眼の真髄を見せた戦いがありました。

長篠の戦い


ここで信長は、攻撃側であるにも関わらず、着陣するなり、なぜか無数の柵を作らせます。
いぶかしむ家臣たち。
しかし戦の最終局面、敵が総攻撃をかけてきた時に信長はこの柵によって相手の攻撃を食い止め、鉄砲の数段撃ちによる集中砲火を浴びせることで柵を最大限に利用します。
およそ9時間にも渡ってほぼ一方的に攻撃を加えられた武田勝頼軍は壊滅に近い打撃を与えられ、潰走。
対して信長軍の損害は皆無に等しく、信長のパーフェクトゲームとなったのです。

この戦に、秀吉も参加していました。
神業のような信長の采配を間近に見て、秀吉は信長の軍事的才能を肌で感じたことでしょう。

秀吉は柵の構築・防衛にあたって、軽はずみな行動を書状で強く戒めています。
「柵の外へは、たとえ兵一人であろうと出てはならない」
地形を利用した柵を構築し、相手の攻撃を防ぐ。
安全な場所から砲撃を加え、時間はかかっても確実に相手の戦力を削ぎ落とす。
最小限の損失で最大限の効果を生むこの戦法を、秀吉なりに信長から学び、それがこの場で活かされたのです。





(主な参考資料)
その時歴史が動いた「羽柴秀吉・なぞの敵前退却」~賤ヶ岳の合戦・勝利の秘策~(2001年)

戦国合戦大全 (下巻) (歴史群像シリーズ (51))



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