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「賤ヶ岳の戦い」前夜(2) ~長浜城陥落~


始めに:

このような時に記事を更新するのは不謹慎かとも思い、悩みました。
が、無事な我々ができることは、被災者の安否を気遣うのはもちろんですが、元気な人から一日も早く通常の経済活動に復帰して、これからの日本の復興に貢献することだと思い直しました。
そのような考えから、明日の『江』がもし放送されればその感想も含め、ブログ上でも実生活上でも、いつまでもオロオロしているだけでなく、いつも通りにやっていこうと思います。
ただ、今週の『続・龍馬伝』は、申し訳ありませんが、お休みをいただきたいと思います。

ブログ読者様はじめ、被災者様、皆様のご無事をお祈り申し上げます。

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冬の長浜城500


たまたま、冬の長浜城をネットで見つけました。
天守が復元されたとはいえ、賤ヶ岳前夜の長浜城もこのような風景だったのかなぁ…と思って眺めるのは、なかなか乙なものです。
ちなみに、長浜の「長」は信長の「長」
当時「今浜」と言われていたこの地に、浅井長政を攻略した褒美として、城の建設を許されたのが約10年前。
秀吉が生涯初めて「一城の主」になった、感慨深い城でもあります。

秀吉が、本当の意味で信長に認められた象徴となったこの城から、今日の話を始めたいと思います。
賤ヶ岳の戦い、その前夜の2回目です。

※)なんだか、始まり方が『その時歴史が動いた』っぽくなってしまった…リラックマ4「汗」

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その情報が勝家の元に届いたのは、秀吉との和睦が成立して、そう日も経っていない時のことでした。


長浜城、陥落


秀吉は、和睦成立のわずか2日後に長浜城を取り囲み、長浜城城主・柴田勝豊(かつとよ)を自陣側へと寝返らせてしまったのです。

勝家にとっては、まったく想定外のことでした。
彼は、勝豊の不安な心理を全く理解していなかったのです。
そこに、秀吉のつけ入るスキがありました。


「長浜城はこの秀吉がつくった城。城の抜け道も弱点も、すべて心得ている。
 この雪では勝家殿の援軍も頼めず、総攻撃をかければ、落城は時間の問題。
 あなたひとりを遠く離れた長浜の地に送り、わが子を見殺しにした義父の勝家殿を
 これ以上立てる義理もないでしょう。
 あなた方の命はもちろん、地位や今後の生計など一切はこの秀吉が保証いたします
 ので、あとは、私めにすべてを任せてもらえませんか」



秀吉は、勝豊の心の隙間に、巧妙に入り込んだのです。




元来「城」は、敵に攻められても落ちないようにできているものです。
それでも城を落とそうとすれば、防御側の3倍の犠牲を払って総攻めを行うか、城を丸々軍勢で取り囲み、籠城戦を行うか。
いずれも、攻撃側が相当の負担を強いることになります。

もうひとつ、城を落とす方法があります。
それは城そのものを落とすのでなく、その城の城主の心を落とすこと。即ち「寝返り工作」です。
時間も兵力も必要なく、無傷のまま城を手に入れられる、理想的な手段。
「人たらしの名人」秀吉は、この方法の天才であった。

「城でなく、心を落とす」

彼はほとんど天賦の才によって、そのことが分かっていたのかも知れません。



佐久間盛政にはそういった隙はないが、勝豊には心の隙間がある。
秀吉がこういった事態まで想定した上で、清洲会議で長浜城を佐久間盛政でなく柴田勝豊に譲るよう提案したとすれば、恐ろしいまでの読みであると言わざるを得ません。




「長浜城」のもつ意味は、この当時の双方にとって最重要でした。
北ノ庄城の勝家と、京の秀吉。
お互いの軍事線上のちょうど中間点に、長浜城は位置します。


長浜の重要性300


すなわち、勝家が秀吉討伐の兵を挙げるにしろ、秀吉が勝家討伐の兵を挙げるにしろ、長浜城が拠点となるのです。
この城を制した側が、地理的には絶対的に優位に立つ。
特に信孝・一益を味方に付けている勝家からすれば、この城があるが故に秀吉を畿内の限られた範囲に押し止めておくことができ、包囲網を確乎たるものにできたはずでした。
長浜城の陥落により、勝家の包囲網戦略は、根本から見直しを余儀なくされます。




一方、長浜城を押さえ、行動の自由を得た秀吉。
いよいよ、包囲網の切り崩しにかかります。

彼は、亡き主君・信長と、自分とを重ね合わせていたのではないでしょうか。


信長包囲網の回想(秀吉)2
「浅井戦記(2)包囲の章」より画像を転用)


秀吉は、手頃な足元から徐々に固めてゆきます。
まず、畿内の有力武将である高山重友、中川清秀、筒井順慶らから人質を取り味方に抱き込むと、池田恒興や丹羽長秀ら山崎合戦の同士も抜け目なく自陣に引き入れ、畿内を固める。


次に狙うは、岐阜城の「織田信孝」

しかし彼は信長の実子、下手に攻撃をして旧信長家臣団の反感を買えば、苦労して三法師を立てた意味がなくなります。
そこで彼が利用したのが、この男。


織田信雄


「使えるものは何でも使う」
このあたりの合理主義は、信長の手法を見事に引き継いでいると感じます。

「信雄様のご意思により…」を旗印にして威圧した結果、岐阜城・信孝の周りの美濃では秀吉・信雄側に離反する者が続出し、頼みの戦力を失った信孝は秀吉に降伏せざるを得なくなります。


残るは滝川一益。
彼はさすが関東一円の攻略を信長より任された勇者らしく、はじめは、秀吉とほぼ互角の勝負を演じます。
しかし、所詮孤独の身。八方を味方につけた秀吉によって、一益は徐々に押されてゆき…



勝家は、雪山に囲まれた北ノ庄城で、これらの報告を受けていたに違いない。
自分が身動きの取れない間に、秀吉によって包囲網がズタズタに引き裂かれ、自らの計画が蹂躙されてゆくさまを見て、彼は気が狂わんばかりに怒ったことでしょう。


勝家のつぶやき


勝家は、こうつぶやいたと伝えられています。



天正11年2月28日。

「もう、これ以上待てぬ」

雪解けを待たずして、彼は決意します。
新暦(今の暦)で言うと4月下旬ですが、この年は大変な豪雪で、残雪も例年の比ではなかったといいます。
それでも、雪をかき分け、柴田勝家の軍勢が越前を出発します。


羽柴秀吉と、柴田勝家。
いよいよ、ふたりが干戈を交える時がやってきたのです。

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信長亡き後のふたりの行動は、いかにも対照的です。

勝家は、あくまで織田家が天下の中心として存在するものとして、織田家筆頭家老としての立場を最後まで崩さなかった。
彼は、秀吉をこの世から抹殺する気はなく、少し出しゃばり過ぎた後輩に接するように、筆頭家老の立場からお灸を据えてやろう、という程度のものであった。
一連の行動が、いつもの織田家敵対勢力に対する勝家の強攻策でなく、彼らしくない緩慢なものになっていたのは、そういった考え方があったからではないか、と思われます。

一方、秀吉はすでに天下を見据えていた。
彼は、信長のいなくなった織田家に見切りをつけ、自分が新しい時代を切り拓くという明確なビジョンを持っていた。そして、その障壁となるものは昔の大先輩であろうが何であろうが構わず斬るという覚悟をすでに決めていた。


旧来の体制に甘んじた勝家と、新時代を切り拓こうとした秀吉。
先に見据えるものが、あまりにも違いすぎた。
これが、賤ヶ岳に到るまでの両者の対応の違いを生み、結果的に、賤ヶ岳の勝敗を決した。
そのような思いがします。





(主な参考資料)
その時歴史が動いた「羽柴秀吉・なぞの敵前退却」~賤ヶ岳の合戦・勝利の秘策~(2001年)

戦国合戦大全 (下巻) (歴史群像シリーズ (51))



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