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「賤ヶ岳の戦い」前夜(1) ~柴田勝家の包囲作戦~


天正10年、中旬。
信長が「我こそが【天】下を【正】す」と宣言し、朝廷に圧力をかけ元号を【天正】と改めてより、10年余り。
元号に導かれるように、天下の形勢は、信長によってほとんど収束しかかっていた。
その当時の誰もが、そう思っていた。
もちろん羽柴秀吉も、柴田勝家も…

そこに起こった、突然の激震。
6月2日未明、本能寺の変。


地殻変動


信長横死の使者が各地に届くと、信長の遺臣たちは浮き足立ち、にわかに活動を始めます。
自国へ逃げ帰るもの、浮き足立ったまま敵方に敗北するもの、膠着状態を続けるもの…


その中、初動を制したのは、羽柴秀吉でした。
電光石火のごとく京へ舞い戻ると、そのままの勢いで謀反人・光秀を討ち、右往左往していた全国の武将を驚かせます。
つづく清洲会議でも柴田勝家の主張を破り、筆頭家老の立場を事実上陥落させます。
本能寺の変が起こった6月2日以降、信長遺領内では秀吉ペースでものごとが流れていったのです。


さらに自らの地位を固めるべく、行動をエスカレートさせてゆく秀吉。
筆頭家老の誇りにかけて、秀吉の台頭を阻止せねばならない勝家。
今回と次回の2回に渡って、両者が賤ヶ岳で干戈を交えるまでの動きを追ってみたいと思います。

※)山崎の合戦のように3回に延びることは、今回はないと思います…たぶんリラックマ4「汗」


________________________________________________________


最初に行動を起こしたのは、秀吉でした。
清洲会議から3ヶ月あまり後の10月11日から1週間にわたり、京の紫野大徳寺で壮大な法要を営みます。
勝家や市はもちろん、信孝・信雄も参加しない、秀吉主催の信長の葬儀。
「信長の後継者はオレひとりだ」と言わんばかりの威圧です。


大徳寺法要


この情報は、当然、近日中に越前の勝家の元にも届くであろう。
それも見越した上の行動です。


「柴田殿、あなた方が越前の田舎でのんびりしている間に、
 信長公の葬儀はこの秀吉が滞りなく執り行ないましたので、ご安心下さい。
 なぜ自分たちを呼ばなかったのか?これは奇異なことを申される。
 信長公の正当な後継者である三法師さまの擁立に反対されたあなたですから、
 葬儀にお呼び立てするまでもないと思いましたので」
リラックマ41「うっしっし」

秀吉の明らかな挑発です。



彼は家康のように、時勢が動くのをじっと待つことのできる人間ではない。
まず露骨な動きを見せ、相手の出方を待つ。その出方で、相手の覚悟のほどを見極める。然る後、次の手を打つ。
そうして、情勢を自分の手元に引き寄せてゆく。

「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」

お得意の秀吉流が、ここでも発揮されます。



勝家・信孝は、この秀吉の徴発に乗ってしまいます。



いや、徴発に乗るのは悪いことではない。
秀吉が先に行動を起こしたということは、「このままでは埒があかない」と秀吉がしびれを切らしたとも受け取れるわけで、秀吉の焦りがそこにあるという考え方もできるのです。
乗るなら乗るで、「これくらいの行動を奴らは起こすだろう」という秀吉の予想をはるかに超えた迅速な行動をすればよい。
たとえば、秀吉が中国大返しにより光秀の予想をはるかに上回る速度で京へ帰還し、光秀を討ったのと同じように、勝家も秀吉の常識を超える行動を起こせば、この後の展開は全く別のものになっていたはずです。
それができなかったことが、勝家の未来を決定づけてしまうのです。



勝家は考えます。


勝家アップ(賤ヶ岳前夜)


時期は冬に差し掛かっていました。
ここで自分が無理をして出陣するまでもなく、圧倒的な軍事力で威圧すれば、秀吉は縮み上がって、何もできないに違いない。
そのように思いを巡らせた彼は、岐阜城の織田信孝・伊勢長島城の滝川一益と連携する作戦を取ります。
即ち、秀吉がもし近江にまで進出してきた時には、長浜城で防ぎ、南北で挟撃する。


勝家による秀吉包囲網500


さらに勝家は、中国の毛利氏や四国の長宗我部氏、そして当時毛利氏にかくまわれていた足利義昭も引っ張り出して、近畿の秀吉に対する、大掛かりな包囲網を築こうとしていた。
かつて、足利義昭が行った「反信長包囲網」を勝家はまねたのです。

しかしそのためには、時がかかる。
勝家は、長浜城にいる養子・勝豊に命じ、時間稼ぎのためにとりあえずの和睦を秀吉と結ぶように指令を出します。
和睦を結んで冬の間の時間稼ぎをしつつ、各地に書状を送り、包囲網を完成させる。
春になれば信孝・一益らと共に一気挙兵し秀吉を包囲、降伏させるつもりでした。
秀吉との交渉に赴いた人間に、あの前田利家も入っていました。



秀吉は、この和睦の申し出に対し、なぜかアッサリと受諾します。
勝家は、右手に刀を構えたまま、左手で握手を交わす。
秀吉も然り。


あとは、春を待つのみ。
勝家は、冬の越前でゆっくりと冬眠をしていれば良かったはずでした。
清洲会議で長浜城を獲得した利権が、ここで活きてきます。
越前から京へ向かう要衝である長浜城さえ押さえておけば、京の秀吉の喉元に短剣を突きつけたに等しい。
彼は、京より東には一歩も動けず、袋小路に陥るはず。

勝家の図面通りに線が引かれ、勝家の設計図通りに包囲網が完成する予定でした。
長浜城さえ、落ちていなければ…
握手を交わした時、すでに秀吉の刀は振り下ろされていたことを、勝家は知りませんでした。

________________________________________________________

3ヶ月あまり前、清洲会議のこと。


後継者争いで負けた勝家は、嫌がらせのように、長浜城を甥の佐久間盛に譲るよう秀吉に迫ります。
秀吉がこの提案を拒否すれば有無を言わさず斬るつもりで、会議の障子ひとつ挟んだ向かいには、当人の佐久間盛政が刀を抜いて待っていたとも言われています。

それ知ってか知らずか、秀吉は、あっさり長浜城を譲ります。
「ただ、信長の後継者同様、ここでも筋を通し、勝家の子(養子)である勝豊に譲るべきである」と秀吉は条件を加えます。
「その程度のことは、仕方がない」と勝家は受け入れるのですが…


秀吉は、この時点で、将来を見越していたのではないでしょうか。


佐久間盛政は、甥ではあるが、武勇に優れ、勝家がもっとも信頼していた武将のひとりでした。
彼が長浜城に入れば「難攻不落」、倍の軍をもってしても落とすことは難しい。
対して、柴田勝豊は、形の上では自らの子ではあるが、病弱のため、長期の戦に耐えられるとは思えない。
その病弱さ故に、勝家は冷遇し、義父の彼とは不仲であったとされています。



そこまで考えて、秀吉が勝豊を推薦したとすれば…
この後の展開を知っている自分とすれば、秀吉がひどく不気味に移ります。
「一体彼は、清洲会議の段階で、どこまで予測していたのだ」と…


次回に続く。





(主な参考資料)
その時歴史が動いた「羽柴秀吉・なぞの敵前退却」~賤ヶ岳の合戦・勝利の秘策~(2001年)

戦国合戦大全 (下巻) (歴史群像シリーズ (51))



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