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続・龍馬伝  (10)甲州勝沼の戦い


龍馬伝第4部タイトル(雲の





新選組行動



かつて、京の町で恐れられた屈指の剣客集団。
京の狭い路地での接近戦では絶対的な強さをもち、池田屋事件をはじめさまざまな粛清活動により、彼らの名は京どころか全国にとどろいていた。
「誠」の一字を染め抜いた旗。
その旗を見ると倒幕派はわれ先にと逃げ出す。
近藤、土方を中心に「泣く子も黙る、新選組」であったのです。

幕末末期の動乱は、その新選組を直撃します。
彼らも参陣した、鳥羽伏見の戦い。
そこでの惨敗は、もはや、彼らが美とする「刀」の時代は終わったことを象徴する戦いになりました。

新選組が初めて味わった、圧倒的な挫折感。
隊士の多くを失い、組織の存続すら危ぶまれます。
それでも彼らは再起を誓い、将軍・慶喜の後を追うようにして、幕府の軍艦で江戸へと逃れます。
近藤・土方らの胸のうちには、薩長への怒りの炎が渦巻いていました。

武士として、徹底抗戦する構えを見せる新選組。
今日は、彼らの、最後の戦いの物語です。


【第10回】甲州勝沼の戦い


江戸で、勝海舟は、悩んでいました。
慶喜から「陸軍総裁」に任命され、事実上の幕府陸軍最高司令官になった勝。
彼の悩みの種。それは、幕府内に多くの「不発弾」を抱えていたことでした。

<不発弾>

すなわち、慶喜が命じた恭順を不服とし、あくまで薩長連合軍への徹底抗戦を訴える者たち。
今は火の気がないので大人しくしているものの、薩長軍が江戸に到達すれば彼らの導火線に火が付き、万が一爆発すれば、抗戦派と恭順派の内紛争いにより幕府組織そのものが内部崩壊してしまいかねない。
爆発するかしないかは、その時になってみないと分からない恐ろしさを秘めていたのです。

勝が最も恐れる不発弾が、新選組でした。
佐幕派に人気が高い新選組が徹底抗戦を叫べば、それに同調するものが多く現れるだろう。
そうなれば、抗戦派が恭順派を凌ぐほどの勢いになりかねない。
将軍が去った江戸で、勝は彼ら強硬派を抑え込む自信がなかったのです。


勝の結論は、不発弾を江戸城内で解体するのでなく、外に放出し新政府軍により爆破してもらうことでした。
抗戦派を江戸城内から体良く追い出す過程で、新選組にも命令を下します。

「江戸を出撃して、甲府城に入れ。そして、東山道を進む薩長軍を迎え撃て」




迎撃命令。
勝は、彼らが松平容保公より賜った名を捨てさせ、軍資金や武器とともに、新たな名を与えます。

「甲陽鎮撫隊」

この時から、新選組はもはや新選組でなくなるのです。
隊士にも江戸で初めて加わったものが多く混じってきます。
そして、近藤は「大久保剛(おおくぼ・つよし)」土方は「内藤隼人(ないとう・はやと)」と、新選組時代の名を変えます。

わざわざ隊の名前を「鎮撫隊」としたのは、なぜか。
…実はここに、勝の二枚舌があるのです。
近藤たちには「薩長軍を迎え撃て」と言い、彼らを納得させる。
しかし、名目上は「東山道での幕府軍の反乱の鎮圧」としておき、のちに新政府側に「恭順と言っておきながら、なんであんな連中に武器まで与えてやったんだ」と問い詰めらたときに「そうでなく、あの部隊は、あなた方官軍に歯向かうような不心得者がいた場合、それらを鎮めさせる目的で派遣したのです」と言い逃れができるようにした。
さらに、勝の本心は、彼らが新政府軍によってきれいに滅ぼされることにあったのです。




勝の策略に、まんまと乗ってしまったかのように見える近藤。
或いは、そういった事情を察した上で、あえて死地に赴いたのか。

近藤は、ある意味覚悟を決めていたのかも知れません。
彼の原点である生まれ故郷である、多摩。
行軍の際に多摩で歓待を受け、故郷に錦を飾ると、そのまま進軍を続けます。
しかし、1日違いで甲府城は板垣退助率いる新政府軍の東山道別働隊によって奪われていました。


甲州勝沼の戦い500
(クリックすると3倍に拡大します)


もともと300しかいなかった甲陽鎮撫隊の隊士は、その10倍の3000もの新政府軍に恐れをなし、新参者を中心に次々に脱走、わずか121にまで減ってしまいます。


それでも、近藤は最後まで戦い抜くことをやめませんでした。


もともとは、土方と2人ではじめたこと。
そこに試衛館の総司や源さん、永倉、原田…と仲間が加わり、8人になった。
8人で名を上げようと誓った。
やがて新選組が旗揚げされ、そして今は121人もの同士がいるではないか。



今までの苦難を思うと、これしきの難関、乗り越えられぬ壁ではない。
そのような想いが近藤勇の中にあったのかも知れません。


甲州勝沼の戦い1


20倍以上の敵に対して、甲陽鎮撫隊は果敢に戦いを挑みますが、数の差が違いすぎました。
近代兵器に慣れぬ甲陽鎮撫隊は、大砲を相手方に破壊され、戦闘開始から2時間ほどで敗走。

近藤らは再起をかけ流山(現千葉県流山市)に移りますが、その地で彼は新政府軍により捕らえられ、約1ヶ月後、斬首されます。
享年35。近藤の夢は、ここに潰えたのです。






新選組の旗(近藤の辞世)


近藤の辞世の一節です。
新政府に捕らえられた後、近藤は甲陽鎮撫隊の真意について、勝海舟との関わりを厳しく追求されました。
「甲陽鎮撫隊の実態は、勝海舟の命で官軍を迎撃するために派遣された軍隊でないのか!」と…
当時、勝は交渉により、江戸城を無血開城させた直後でした。
ここで勝の二枚舌が暴露されば、徳川家の姿勢が疑われ、徳川家のお家取り潰しや慶喜が処刑される可能性もあったのです。

近藤は答えます。
「あくまで私ひとりが、慶喜公の家来としての義理を果たそうとしたまでのこと。
 その他には何もござらぬ」
執拗な新政府側の追求にも関わらず、近藤は最後まで口を割らず、全責任を一身に負い、斬首されるのです。

まこと「武士よりも武士らしく」生きた、近藤らしい立派な最期であったと思います。

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致し方ないとは言え、近藤ら新選組は、勝ら恭順派によって江戸を追い出され、体良く葬られたと言えます。
近藤斬首の報告を、勝海舟はどのような思いで聞いたのでしょうか。



さて、勝が江戸から放り出した<不発弾>は、まだまだ絶えません。

土方はじめ、新選組の残党。
渋沢成一郎や天野八郎らの「彰義隊」
榎本武揚が率いる幕府海軍。
江戸無血開城の日に江戸を脱出する、大鳥圭介らの旧幕府軍。

さらに、勝には到底手に負えない連中もいました。

慶喜自らが国元へ帰るよう命じた、会津藩主・松平容保ら。
未だ去就の定まらない、仙台・米沢など東北の各藩。


彼らを犠牲にしてでも、江戸の町と徳川家本体を何とか守り抜こうと、西郷との交渉に乗り出す勝海舟。
怨恨の塊となって、江戸を焼き尽くそうと燃える西郷。
この後、両勢力は、この2人を中心に大きな転換期を迎えることになるのです。




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余談


新選組!



『続・龍馬伝』で新選組を扱うのは、これで最初で最後になりますので、今回は、龍馬伝の新選組でなく、懐かしい「新選組!」を使わせてもらいました。

このドラマ、さまざまな創作や三谷幸喜さんお得意の小ネタが当時は批判の対象になったと聞きますが、今考えてみると、脚色はあっても歴史の出来事のありようというか、歴史の価値観は変えていなかったと思います。
新選組の隊士は確かに子供っぽい面はありましたが、隊士の切腹や粛清の場面は堂々と描いていましたし、彼らの尽忠報国に燃える志は真正面に描いていた。
少なくとも、ここ数年の大河ドラマのように、テーマを現代風にすり替えるという卑怯なマネはしていなかったと思います。
あるブログ読者のコメントをきっかけに、大河ドラマの転換点を考えてみたときに、やはりその読者と同じように、この「新選組!」に僕もたどり着きました。(こちらの記事のコメントです)


最終話の近藤勇の斬首がそのまま、大河ドラマの斬首であった。
今にしてそう思ってしまう自分がいます。




(主な参考資料)
その時歴史が動いた「新選組の夢、関東に散る」~江戸城明け渡しの裏で何がおきていたのか~(2003年)
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)



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