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続・龍馬伝 (5)もうひとつの「鳥羽伏見戦争」


龍馬伝第4部タイトル(雲の


龍馬が、大政奉還で成し遂げたかったこと。

それは、対立状態にあった幕府側と討幕側を、幕府側が辞を低くするというかたちで折り合いをつける。それによって、両者の融和を図り、無益な抗争に終止符を打とうとしたことに他なりません。


日本の将来を考えたときに、新政府が、江戸幕府260年の統治実績を引き継ぐことこそが肝要。
悪しき習慣は切り捨てるべきだが、良いものは「良い」と受け入れることを新政府に求めたのです。
薩長側も、関ヶ原の怨念といった、古いしがらみにとらわれて討幕をしようとしているようにしか、龍馬には見えなかった。
幕府側も、自らのプライドに縛られ、薩長と勇ましく戦って散るのが本望と考えている輩さえいる始末。
龍馬に言わせれば、「目くそ鼻くそを笑う」で、どちらも同じ穴のムジナに見えたのかも知れません。


大政奉還を断行し、すべてを朝廷に委ねたあと、幕府も薩摩も長州もない、新時代の幕開けとなるべく「新しい政府」を、優秀な人材を別け隔てなく採用することによって創り上げたい。
彼の構想は、あくまで、日本という国の大局に立ったものでした。


しかし…龍馬は志半ばにして、世を去ります。
龍馬亡き後、彼の遺志を最も多く引き継いだのは、おそらくこの男だろうと僕は思います。


慶喜最大の理解者・松平春嶽


彼は、新政府内にありながら、ギリギリまで徳川排除の薩摩の活動に反対し、龍馬の目指す「幕府も薩摩も長州もない、新時代にふさわしい政府」を作ろうと奔走した。
今日は、その物語です。


【第5回】もうひとつの「鳥羽伏見戦争」


鳥羽伏見戦争(いわゆる、鳥羽伏見の戦い)が起こる20日前ほどのことです。
「王政復古のクーデター」によって徳川の辞官納地が決定し、一時は徳川排除の方向性が確定したかにみえましたが…
松平春嶽は諦めませんでした。

彼は、徳川慶喜とはいわば「腐れ縁」のような間柄。
幕府の外交問題や長州藩の征伐問題などで対立もありましたが、それだけ慶喜が春嶽を頼り、常に彼に相談していた証拠でもあります。
最終的には大政奉還を決断し、松平春嶽がかねてから提唱している「雄藩連合」の構想に慶喜自らが近づいた結果にもなりました。
それだけの決断をした盟友・慶喜を、春嶽は放っておくことができなかった。
彼は、武士としての「忠義」を全うしたかったのかも知れません。


春嶽は、反転攻勢に出ます。


クーデターの被害者にも関わらず、慶喜が自ら大坂へと身を引いた(続・龍馬伝 (3)を参照)ことを盾として、新政府の中でもまだ慶喜の処遇に揺れていた公家衆の説得にかかるのです。

そして…12月23日、ついに彼は、にっくき薩摩の西郷・大久保を排除した形での朝議(朝廷での会議、今でいう国会)を行うことに成功します。
ここで彼は、公家の弱点を巧妙に突く作戦に出ます。


公家衆は、戦が大嫌い。
戦火に巻き込まれ、生命や財産を脅かされるのを恐れる、典型的なビビリの連中。



つまり、春嶽が訴えたのは、こういうことでした。


「慶喜公は英断を行い、京から手を引きましたが、徳川家臣団の中では「反薩長」の怒りのボルテージが最高潮まで達しています。それは皆さんもお分かりでしょう。
さらに、日和見の諸藩までもが慶喜同情の気配を示しているありさまです。

ここで大坂城の慶喜の家臣が暴発すれば、諸藩をも巻き込み、京の都は御所もろとも戦の火の海になりますぞ。
薩長が援軍を出そうにも、瀬戸内から京へ抜ける玄関口である大坂を徳川勢が押さえている以上、迅速な出兵は望めないでしょう」



そして、脅しの一言を言い放ちます。


春嶽、灰人形の覚悟




これを聞いた公家衆は、恐れおののきます。

所詮は、戦を知らず、御所でのうのうと暮らしてきた連中。
大久保利通が事前に「松平春嶽に言い包められないように」とあれほど念を押していたにも関わらず、徳川の辞官納地は「将軍職は降格でなく、自主的に辞退する」「領地は新政府の財源として提供し、領地提供者は徳川に限らず諸藩も対象にする」という主旨の文言を認めてしまうのです。
領地の返上(=強制的に取り上げる)のでなく、自主的な提供(=強制力は薄れる)をするという形ですから、辞官納地はほぼ形骸化したと言えます。
さらに、慶喜の議定就任も内定。

春嶽、執念の粘りの交渉によって、慶喜の新政府参画は大きく前進します。
慶喜への友情が、春嶽の胸の内には強くあったのかもしれません。


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しかし、ここで駒を振り出しに戻す事態が発生します。
続・龍馬伝(3)でも述べたように、江戸の薩摩藩邸焼き討ち事件での怒りの炎が大坂城へと伝播し、家臣を抑え切れなくなった慶喜は、ついに薩摩討伐の兵を挙げることになるのです。


武力衝突

それは、春嶽がもっとも恐れていたことであり、西郷が最も望んでいたことでもありました。
武力衝突によって、それまで話し合いによって粘り強く進めてきた慶喜の新政府参加の話は、一切白紙に戻ってしまうからです。
そして、勝った側がすべての権限を掌握することになる。

「勝てば、全てを手に入れる。負ければ、全てを失う」

一か八かの賭けが、いよいよ始まろうとしていました。




しかし、松平春嶽は諦めませんでした。
彼は、戦といういわば「博打」によって、日本の将来が決することがどうしても許せなかった。
意を決した彼は、決死の覚悟を行動に表そうとします。


越前藩の兵士を幕府と薩長の間に布陣させ、両者の垣根とする


春嶽の垣根作戦


両軍合わせて2万の軍勢の中に、千にも満たない越前藩兵を割り込ませたところで、濁流に呑み込まれる小動物のごとく、なすすべもなく全滅するかも知れない。
それでも、微力ながら、戦争を食い止める一助にもなれば…
彼の悲壮の決意でした。



…が、しかし、越前兵を移動させる間もなく、慶応4年1月3日の夕方、戦端は開いてしまいます。
戦争の開始を告げる1発目の砲撃が鳴り響いたとき、前線にあって指揮をとっていた西郷は「これで薩摩は100万の味方を得たに等しい」と、武力による決着をつける時がいよいよ訪れたことを喜んだと言われています。




その後、御所には、さまざまな情報が飛び交います。


「幕府軍が薩長を打ち破ったらしい」
「いや、薩長が優位に戦況を進めているようだ」
「鳥羽では、幕府軍が薩摩軍を破り、御所に向かっているそうだ」
「いや、伏見の斥候の話では、薩長が幕府を敗退させていると言っている」


御所に入ってくる、その時々の局地的戦況をみた斥候から、さまざまなあやふやな情報が寄せられ、京都御所はまさにパニック状態に陥ります。

公家衆はあたふたおろおろするだけで、そのうち、「御所に火が放たれる前に、天皇を御所から避難させよう」ということで、比叡山に明治天皇を退避させる案も飛び出します。


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混乱する御所。
その中で、春嶽は彼なりの戦を決意します。


『御所内の鳥羽伏見戦争』


何としてでも戦争を本格化させ、武力で幕府を打ち滅ぼしたい薩摩。
軍事は西郷が担当していましたが、朝廷工作は、大久保利通がその全ての権限を担っていた。

春嶽は、大久保と、御所の主導権争いに打って出ます。
天皇を動かす存在である「有力公家衆」を、どちらが取り込めるかの争い。
御所の外で生き血が吹き出す激しい戦いをしていた裏で、御所内では熾烈な権力争いが繰り広げられていたのです。



先手を取ったのは、春嶽でした。
公家を説得し、比叡山退避を思いとどまらせます。
そして、彼が公家衆に提案したのが、

「停戦の詔」


薩長軍と幕府軍双方に、天皇の名において、停戦の詔を出すよう働きかけるのです。
「停戦の詔勅を出し、それが双方に受け入れられた場合、朝廷は薩摩側にも幕府側にも影響力を行使でき、朝廷の権威は一気に高まるでしょう」
そう公家たちを誘惑します。

戦争は始まってしまったが、勝敗がつく前に停戦すれば、慶喜の政府参入はまだ可能性が残る。
春嶽は、その一縷の望みにかけるのです。



しかし…薩摩の謀略は、そのさらに上をいくものでした。
その日の深夜3時、緊急招集によって集まった春嶽が見たものは、思わぬ光景でした。
そこには、鎧兜を身につけた「仁和寺宮嘉彰親王(にんわじのみや・よしあきらしんのう)」の姿があったのです。


仁和寺宮嘉彰親王の軍装姿


実は、大久保利通は最前線の西郷隆盛から「戦局は薩長軍優位に進んでいる」との確かな情報を得た瞬間に、日和見の公家衆にその事実を伝え、一気に朝廷内の空気を「反幕府・親薩摩」に変えてしまっていたのです。
公家に対する大久保の提案は、シンプルかつ説得力のあるものでした。


「薩長軍を、朝廷直轄の皇族の指揮下におき、官軍とします。
その上で、官軍の象徴である「錦の御旗」を掲げ、賊軍・幕府を討ち果たすのです。
これにより、天皇及び朝廷が天下に号令することを全土に分からせることができましょう」



皇族である仁和寺宮嘉彰親王は、いわば朝廷の軍事リーダー的存在。
彼を動かしたことが決定打となり、春嶽と大久保の勝負は決します。
春嶽の公家抱え込みの間隙を突き、一気に朝廷の空気を変えた大久保の手腕の前に、正攻法で戦いを挑もうとした春嶽は敗れ去りました。


この後の歴史は、続・龍馬伝(4)で述べた通りです。
仁和寺宮がみずから出陣し「錦の御旗」を掲げたことが、敗色濃厚な幕府軍へのトドメの一撃となり、旧幕府軍は無残に敗退。
鳥羽伏見戦争は、薩長の完全勝利として幕を下ろしたのです。

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松平春嶽は、鳥羽伏見の戦いの後も、一貫して停戦を訴えてきました。
彼の願いは最後まで聞き入れられませんでしたが…
最後に、彼の残した意外な功績を紹介したいと思います。


新しい時代の元号の候補を提出するよう命じられた春嶽。
彼が提出したひとつに、次のものがありました。


明治の由来


「聖人君主が天下に良く耳を傾ければ、世は明るく、平和に治まるでしょう」
中国の古典『易経(えききょう)』をもとにした候補。
ここから、新たな時代の元号「明治」が選ばれるのです。
…その後、新政府の強引な近代化政策に失望し、春嶽は政府を去ります。
最後まで江戸幕府の滅亡を憂いた彼の、これは政府への最後の仕事となったのです。




(主な参考資料)
その時歴史が動いた 秘録・幻の明治新政府~維新を変えた激動の27日間~(2004年)



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