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続・龍馬伝 (4)鳥羽伏見の戦い


龍馬伝第4部タイトル(雲の



龍馬が恐れた、最大の愚行。
それは、幕府側と討幕側の武力衝突。

今風に言うと、龍馬は革命家であり、その使命として日本の革命を望んだが、決して流血革命は望んではいなかった。
それは単に「彼は平和主義者だから、血を見るのが嫌いだったんだよ」という単純な言葉で片付けられるものではありません。

坂本龍馬という人間は、敵味方の感情論でなく、常に大局を見て判断する人間でした。

流血を生むことにより、日本の将来を支えるであろう多くの若者の命が無駄に奪われ、莫大な資源が失われ、この国の近代化はその分だけ遅れることは明白だったからです。
あげくの果てに、両陣営のバックについている「死の商人」、つまりイギリスとフランスを潤すだけの結果になってしまう。
彼にはその愚かさが、明瞭に見えていたに違いない。



…その愚行が、今、行われようとしているのです。
「戊辰戦争」という、龍馬が生きていればおそらくは起こらなかったであろう不毛な1年半が、幕を明けようとしています。


【第4回】鳥羽伏見の戦い


1868(慶応4)年1月3日。
淀城を出た旧幕府軍は、二手に分かれ、京都御所を目指します。

伏見街道を進むのは、旧幕府軍に加え、会津藩や新選組を中心とする部隊。
鳥羽街道を進むのは、旧幕府軍に加え、会津藩や見廻組を中心とする部隊。
その数合計、1万5千。


迎え撃つ新政府側。
薩摩藩・長州藩に、一部の土佐藩が加わった陣容。
土佐藩の山内容堂は「これは薩長の私闘である」として戦闘行為を禁じたのですが、それでも、一部の土佐藩士は藩主の命に背いてまでも戦に加わったのです。


「御所を護る新政府軍」に対し、「御所に攻め入る旧幕府軍」の構図。
鳥羽街道・伏見街道という、京へつながる両街道沿いで、お互いが接触し、その日の夕方、戦火が開かれるのです。


鳥羽伏見の戦いアップ500


半日の戦いののち、旧幕府軍は次第に押され、やがて敗走を始めます。
3倍の兵力を誇る旧幕府軍ですが、総大将の慶喜は遠く大阪城にいて戦局が分からない上に、総指揮官の松平豊前守は実践の経験がなく、ほとんど組織的な戦いができなかったのが最大の敗因となりました。


戦略的にいうと、彼らは一点突破で、御所に軍勢を到達させることを最優先に考えるべきだったのです。
御所さえ押さえてしまえば、御所を護るという立場を逆転でき、戦局は旧幕府側優勢に傾くはずでした。
しかし愚かな旧幕府側は、目の前の敵と正面きって戦う道を選んだ。
結局、最前線で指揮を振るう戦上手な西郷隆盛に翻弄され、最新兵器で武装した新政府軍によって、旧幕府軍の拠点のひとつである伏見奉行所は陥落します。




一旦は淀城付近まで後退した旧幕府軍ですが、その後は一進一退を続けます。
このまま戦況が膠着すれば、「敗北」という最悪の事態は防げるはずでした。


そこに、薩摩秘策の旗が翻るのです。


錦の御旗


『錦の御旗』


錦の御旗(にしきのみはた)を掲げた軍隊とは「天皇の軍隊」つまり官軍ということになります。
天皇の象徴である菊の御紋に逆らうということは、天皇に逆らうということ。


『錦旗』


錦旗(きんき)とも言われます。
岩倉具視と大久保利通が、武力衝突を予想して3ヶ月ほど前に作らせておいたものですが、その効果は絶大でした。
これにより、土佐藩はじめ中立の立場をとっていた諸藩が次々と官軍側(新政府側)につきます。
旗を見た旧幕府軍は浮き足だち、組織的な戦闘がほぼ続行不能となります。
結果、各部隊は各個撃破され、淀城への退却を余儀なくされるのですが…



淀城概略図
※ちなみに、この当時は川の流れが現在より複雑で、淀城はその地形をたくみに利用してできた城郭です。
川を天然の堀と見立てた設計は奇抜で、いかにも攻めるのに苦労しそうな立地です。



錦の御旗(錦旗)に衝撃を受けた淀藩は、朝敵となるのを恐れ城門を固く閉じ、新選組はじめ旧幕府軍の入城は叶いませんでした。
防御陣地を失った軍勢はさらに後退し、大坂と京都の境界である山崎・橋本に布陣します。


橋本の戦い500



両側を高い山に囲まれたこの地は、大軍で一斉に攻め込むことはできず、防衛には非常に適した場所でした。
地の利は、明らかに旧幕府側にある。
新選組副長・土方歳三らはここで軍の立て直しを図ろうとします。

そして、再び戦端が開かれたのですが…
新選組・会津兵らが陣取る橋本に、予期せぬ方角から砲弾が飛んで来るのです。
その時、橋本の旧幕府軍が見たのは、信じがたい光景でした。


山崎に陣取っていた津藩(藤堂藩)が、正面の敵でなく、味方であるはずの側面の橋本に前砲弾を浴びせていたのです。
実は、前日の夜、薩摩は密かに山崎の陣地に使いを送り、官軍の威光を盾に津藩を脅していました。
またもや、錦の御旗に恐れをなした裏切りです。
算を乱した橋本の旧幕府軍は、這々の体で大坂城に向けて撤退をはじめます。



「かくなる上は、慶喜公のまします大坂城にて、徹底抗戦するのみ」
敗れたりとはいえど、旧幕府軍の戦意はまだまだ衰えていなかったのです。


そんな状況に水を差したのは、他ならぬ慶喜自身でした。
前回の記事でも書いたように、彼は水戸の血が色濃く流れる尊皇の人。
「錦旗が上がった以上、もはや天皇には逆らえぬ」と、前日の夜、ひそかに大坂城を脱出していたのです。
旧幕府軍が大坂城に到着したとき、すでに慶喜の姿はありませんでした。


数々の裏切りの末にたどりついた大坂城で見た、最大の裏切り。
それは、総大将の敵前逃亡というものでした。

「もはや、これまで」

彼らは軍隊を解散し、バラバラになって大坂を去り、ここに「鳥羽伏見の戦い」は、新政府軍の完全勝利によって幕を下ろすことになるのです。


________________________________________________________


1868(慶応4)年1月8日。
143年前の今日、慶喜は軍艦・開陽丸に乗り込み、江戸への帰途につきます。
江戸に到着した慶喜は、今後の対応を相談するために勝麟太郎を呼び出すのですが、その際、こっそり逃げ帰ったことを勝は大いに批判したそうです。


慶喜の後世での評価が著しく下がった原因にもなった、鳥羽伏見の戦い。
なぜ彼は、このような行動を取ったのか?
そもそも「鳥羽伏見の戦い」は、負けるべくして負けたのか?




この戦に関しては、彼の決心の弱さがよく現れています。
まず、総大将を「大坂にいるメンバーの中で、一番役職が高い人間」という、おおよそ戦とは関係ない序列で選んだこと。
本気で勝つ気があるのなら、土方歳三のように位は低いが実績のある人間を総大将に抜擢するべき。
それがどうしても嫌なら、勝や小栗忠順など、少なくとも総大将にふさわしい人間を江戸から呼び寄せるなど、いくらでも方法はあったはずです。

さらに、慶喜が大坂城に籠ったまま動こうとしなかった。
重要な戦だからこそ、慶喜は淀城まで出向き、戦況を把握すると同時に、前線の兵士を鼓舞すべきでした。
西郷が最戦前で指揮をとりつづけたのとは対照的です。

極めつけは、信じがたい敵前逃亡。
旧幕府軍の敗因は、新政府軍にあるのではなく「総大将である慶喜の戦意の低さ」にあったのです。


「慶喜は、最初からこの戦に乗り気でなかった」


それならば、どのような手段を使っても、暴発を防ぐべきだった。
家臣団に流されて、「討薩の表」なんか出すべきではなかったのです。
慶喜は、戦というものを全く分かっていませんでした。


「負ければすべてを失う」


それが戦というものです。
この大事な一戦を失ったことにより、旧幕府軍はこの後、滅亡の道をたどることになります。
江戸に戻った慶喜に対し勝は、「戦をせぬのが最善だが、戦をすると決めた以上、是が非でも勝たねばならなかったのに、なにゆえあなたは江戸に逃げ帰られたのか!?」と将軍の御前ではばからず言ってのけたといわれていますが、失ったものの大きさに対する彼の悔しさがにじみ出ているような気がします。



慶喜は、負けて、権力のすべてを失ったのです。
彼がそのことを実感する日は、そう遠くはありませんでした。






(主な参考資料)
一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)
NHK「その時歴史が動いた」 新撰組 鳥羽伏見に散る~旧幕府軍大敗北の真相~ [DVD]



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